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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

最期の闘いの場は、蝦夷地でした。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
"ラストサムライ"の戦の地となりました。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-6
◎函館五稜郭の戦い
*1868.8.19/ 旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻を率いて、品川より奥州に向けて脱走出帆する。
*1868.10.25/ 榎本武揚が、函館五稜郭を占領する。
*1868.12.25/ 榎本武揚が蝦夷地全域を占領し、旧幕府軍の総裁に選出される。 
 慶応4(1868)年4月、江戸城無血開城の条件に、新政府への旧幕府軍艦の引渡しが含まれていたが、海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦の引渡しに応じず開陽など主力艦の温存に成功した。8月19日、奥羽越列藩同盟からの支援要請に応じて、榎本率いる8隻の旧幕府艦隊は、品川沖を脱走し仙台に向った。この榎本艦隊には、旧幕閣や彰義隊に旧幕府軍事顧問団のフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。
 榎本艦隊は、悪天候で2隻を失いながらも、9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、最後まで戦った会津藩や庄内藩も降伏し、東北戦争は終結してしまった。榎本艦隊は、仙台藩に貸与していた運送船を加え、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長土方歳三ほか、旧幕臣など東北戦の残党などを収容し、東北沿岸を北上した。
 新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というもので、約8万人の旧幕臣を養うことは不可能であり、榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ北方の防備と開拓にあたらせようと画策していた。榎本は、新政府軍に追われながら、新政府軍平潟口総督宛てに、旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。
 蝦夷地に到達した榎本艦隊は、10月21日、箱館を迂回して、北方の内浦湾鷲ノ木に約3,000名が上陸した。箱館には、旧箱館奉行に代わり新政府の箱館府が置かれていたが、東北戦争に兵員を割かれ手薄となっていた。旧幕府軍は、大鳥圭介率いる部隊と土方歳三率いる部隊の二手に分かれて箱館へ向けて進軍する。明治1(1868)年10月22日夜、無用な戦闘を避けるべく新政府への嘆願書をたずさえた先行隊が宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれた。
 明治1(1868)年10月24日、大鳥軍と土方軍は箱館府軍を撃破し、新政府軍箱館府知事は「五稜郭」の放棄を決め青森へ退却、旧幕府軍は10月25日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させ、旧幕府軍は箱館を占領することに成功した。さらに、松前藩の松前城や館城も攻略して、蝦夷地の平定を達成する。ただし、江差方面攻略の支援に来ていた主艦船開陽などが、悪天候のため座礁沈没し、支援新政府軍の上陸阻止が出来なくなるという痛手を負った。
 12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、蝦夷地開拓を求める嘆願書を新政府に送るが、右大臣岩倉具視に却下され、来たる新政府軍の攻勢に備えることになった。
 旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届くと、11月19日旧幕府軍追討令が出されたが、冬季作戦は無理として、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始するとし、新政府軍は青森周辺に冬営した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄をアメリカから購入し、甲鉄を旗艦とした新政府軍艦隊は、翌 明治2(1869)年3月9日品川沖を青森に向けて出帆した。
 新政府軍艦隊が東北の宮古湾に入るとの情報を受けると、榎本軍は甲鉄を奪取する作戦を実行するも、暴風雨等で難航し、貴重な3艦船を失い敗退する。宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、青森に到着すると、4月初には渡海準備が完了した。そして、青森を出発した新政府軍は、明治2(1869)年4月9日早朝、江差北方の乙部に上陸した。
 江差を奪還した新政府軍は、4月半ばには陸軍参謀黒田清隆率いる2,800名など増援軍が到着、松前口・木古内口・二股口・安野呂口の四方面から箱館へ向けて進軍を開始する。物量で圧倒する新政府軍に対して、旧幕府軍は各方面とも後退を余儀なくされ、唯一、土方歳三の指揮する二股口の戦いでは、激闘の末、新政府軍を退却させるが、背後から挟撃される危険が生じたため、土方軍も五稜郭への撤退を余儀なくされた。
 明治2(1869)年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、海陸両面から箱館に迫まった。箱館湾海戦では、箱館湾に侵入した新政府軍艦に、榎本軍は残された軍船により抵抗するも、砲弾を打ち尽くすなどして、意図的に座礁させて浮き砲台とするしかなかった。同日、五稜郭北方の急造堡塁の四稜郭方面の戦闘でも、敗退し五稜郭に退却する。
 一方、同日未明、陸軍参謀黒田清隆率いる新政府軍が箱館山の裏側に上陸し、函館湾拠点の弁天台場の背後を襲った。結果的に、弁天台場の旧幕府部隊は、五稜郭本隊と分断され孤立する。新政府部隊は箱館市街をほぼ制圧し一本木関門付近にまで進出、旧幕府部隊は五稜郭まで退いた。このとき、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死した。
 翌5月12日、唯一残された五稜郭本隊に対して新政府軍が降伏勧告をするも、榎本総裁はいったん拒否する。この時、榎本が所有していた貴重な「海律全書」を、新政府軍参謀黒田清隆に託し、黒田は返礼として酒樽・鮪を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、旧幕府軍首脳側が合議の上、降伏・五稜郭開城を決定した。
 5月18日、五稜郭は開城し、榎本ら幹部とともに郭内将兵も投降、ここに箱館戦争は終結した。降伏した旧幕府軍の将兵は弘前藩ほかに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放。榎本武揚はじめ幹部7名は、東京で投獄された(明治5年釈放)。
 新政府軍黒田清隆と旧幕府軍榎本武揚が、五稜郭開城にあたって意を通じ合ったことが、この緩和な処置に寄与したと想像される。その後、榎本は、新政府重鎮となった黒田に助命されたうえ明治政府に出仕し、北海道開拓使として北海道の開拓に尽力するなど、新政府の官吏として有能な仕事を為した。

"錦の御旗"は、掲げられましたけれど・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-3
◎五箇条の御誓文
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
*1868.3.15/ 新政府は、徒党・強訴・逃散・キリスト教などを禁じた「五榜の掲示」を立て、対庶民には旧幕時代の政策を継承する意図を示す。
*1868.3.28/ 新政府が神仏分離令を出し、以後、「廃仏毀釈」の運動が荒れ狂う。
*1868.閏4.27/ 新政府が「政体書」を出し、政治組織などを具体的に定める。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 「五箇条の御誓文」は、慶応4(1868)年3月14日、明治天皇が天地神明に誓約するという形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針であり、正式名称は「御誓文」とされる。鳥羽伏見の戦いの決着がつき、新政府の東征軍が江戸に迫るなか、京都では明治天皇の裁可を受け、「五箇条の御誓文」が公示された。西郷と勝の会談で「江戸城無血開城」が決まるのと同日であった。
 翌日、京都御所の紫宸殿に設えられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。明治天皇出御のもと、副総裁三条実美が天皇に代わって神前で「御誓文」を奉読する形で示された。
 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。「御誓文」は、あくまで公卿や諸侯など旧政権周辺に対して、朝廷の威光と天皇親政の国是を知らしめすのが主眼であり、太政官日誌は庶民一般の目に行き渡るのもではなかった。一方で一般国民に対しては、旧来の儒教道徳を強調した「五榜の掲示」が示され、徒党・強訴の禁止やキリスト教の厳禁など、旧幕府の政策を継承した訓示が示された。
 明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身参与 由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身参与福岡孝弟が修正したが、封建的な残滓を残し、王政復古の理念にも反するという批判もあり、そのままになっていた。
 そこで、参与で総裁局顧問木戸孝允は、天皇が、神前で公卿諸侯を率いて誓いの文言を述べ、その場で全員が署名するという形式を提案し、天皇親政を広く知らしめすとして、これが採用されることとなった。木戸は、福岡案の封建的残滓を取り払い、大幅に変更を加えることで、より普遍的な内容にした。この木戸による五箇条が、「御誓文」が明治天皇の裁可を受け、最終案とされた。
 慶応4(1868)年閏4月21日には、御誓文をより具体化した「政体書」が公布され、明治新政府の政治体制が定められた。さらに、明治8(1875)年の立憲政体の詔書では、「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言され、御誓文は立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。
 その後の「自由民権運動」でも、「御誓文は立憲政治の実現を公約したもの」とされ、議会政治実現の根拠とされた。また、敗戦後の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においては、御誓文の全文が引用され、日本的な民主主義の萌芽として位置づける試みも見られた。

お上は東京へお下りになったのですが・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-5
◎戊辰戦争・新政府東征軍と旧幕軍の戦い
*1868.2.23/ 旧幕臣が彰義隊を組織し、上野を占拠する。
*1868.3.3/ 赤報隊の相良総三らが、偽官軍として捕らえられ、長野の下諏訪で斬罪とされる。
*1868.5.3/ 東北・北陸 奥羽25藩の同盟についで、長岡・会津など8藩も加盟、「奥羽越列藩同盟」が成立する。
*1868.5.15/ 上野の彰義隊が、政府軍の攻撃で敗走する。(上野戦争)
*1868.8.23/ 会津若松城が新政府軍に包囲され、9月22日、会津藩は開城降伏する。(会津戦争)
<上野戦争>
 鳥羽・伏見の戦いに決着がつき、幕府追討の詔勅が発せられると、西日本の多くの諸藩は命に服し、大きな混乱は起きなかった。新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍する。
 進軍する東征軍と旧幕府残党の最初の戦闘は、東山道軍(中山道)の進軍先の、甲州甲府や武州熊谷で発生した。近藤勇の率いる旧新撰組は甲陽鎮撫隊を組織して戦ったが、甲府盆地で板垣退助ら率いる東山道鎮撫先鋒部隊(土佐藩主力)に敗れ、近藤は捕縛され処刑される(甲州勝沼の戦い)。また、東山道軍の本隊は、武州熊谷梁田宿(現足利市)で旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲攻撃をしかけ、幕府軍の敗北に終わった(梁田戦争)。
 東海道軍は、御三家筆頭の尾張藩が、いちはやく勤皇に転換したこともあって、小田原以西の全ての藩が恭順を誓い、大きな衝突もなく駿府にまで東進した。そして江戸城開城が決まるとこれに不満な抗戦派の幕臣らは、江戸の治安組織の「彰義隊」のもとに結集し上野にたて籠ったが、慶応4(1868)年5月1日、西郷に代わって司令官に任じられた長州藩士大村益次郎(村田蔵六)によって、一日で壊滅させられる(上野戦争)。
<奥羽越列藩同盟>
 京都守護職だった会津藩主松平容保・京都所司代の桑名藩主松平定敬は、ともに京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行った。また鳥羽・伏見の戦いでは、両藩は旧幕府軍の主力として新政府軍と戦ったため、新政府の反感は強く、戦いの敗北とともに朝敵と認定されていた。また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
 慶応4(1868)年3月22日、新政府への敵対姿勢を続ける会津藩及び庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。しかし、追討軍を庄内藩が反撃し天童城を攻め落としたり、関東でも旧幕府軍が宇都宮城を占拠するなど、新政府への対抗気運が漂い出した。
 慶応4(1868)年閏4月4日、仙台藩主導で奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出するが、新政府はこれを却下した。当初は、新政府の会庄追討に従っていた奥羽14藩は征討軍を解散し、逆に新政府軍と戦闘状態に入った。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたため、天皇へ直接建白を行う方針に変更され、奥羽列藩盟約書を調印し、会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書が作成された。
 さらに、北越6藩が加わり、計31藩によって「奥羽越列藩同盟」が成立した。当初は嘆願を求める盟約であったものが、途中から軍事同盟に転嫁されたため、必ずしも加盟諸藩の統一された戦略があったわけではない。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力することになった。
 新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いは、仙台藩が盟主的存在であったが、戦闘は奥州・北越の各地で並行的に行われたので、関ケ原の戦いのように双方が全軍で対峙するような場面はなかった。輪王寺宮公現法親王をかついで仙台に奥州政府を樹立する動きもあったとされるが、それは形にならなかった。ただ、京都新政府・江戸幕府のいずれでもない第三の勢力として、東北諸藩の利害共同体的な性格の同盟であったと思われる。
 庄内戦争・秋田戦争・白河戦線・北越戦争・平潟戦線など、各地で激戦が行われたが、新政府軍に敗れた同盟軍や旧幕軍の敗残兵が、未陥落の地に集まるなどして、次々と戦闘地は移っていった。そして最も激戦となったのが、松平容保の会津での戦いであった。奥羽越列藩が次々と陥落し奥羽越同盟が崩壊する中、最後まで若松城に籠城して戦った会津藩も、ついに1868(明1)年9月22日、落城し、その2日後に庄内藩も降伏した。

“Baddest Man in the 761st” He Went Full On Berserker Destroying Everything In His Path

2021-11-03

「君たちには、死ぬ権利はない」

2021-11-03
Facebook ジーク ノブオさん曰く
太平洋戦争終結後も任務解除の命令を受けられず、フィリピン・ルバング島で孤独な日々を過ごし、約30年後の1974年に51歳で日本に帰還した小野田寛郎旧陸軍少尉の物語を、フランスの新鋭アルチュール・アラリ監督が映画化。終戦間近の1944年、陸軍中野学校二俣分校で秘密戦の特殊訓練を受けていた小野田寛郎は、劣勢のフィリピン・ルバング島で援軍部隊が戻るまでゲリラ戦を指揮するよう命じられる。出発前、教官からは「君たちには、死ぬ権利はない」と言い渡され、玉砕の許されない小野田たちは、何が起きても必ず生き延びなくてはならなかった。ルバング島の過酷なジャングルの中で食糧も不足し、仲間たちは飢えや病気で次々と倒れていく。それでも小野田は、いつか必ず救援がくると信じて仲間を鼓舞し続けるが……。主人公・小野田の青年期を遠藤雄弥、成年期を津田寛治が演じ、仲野太賀、井之脇海、イッセー尾形らが共演。2021年・第74回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門出品。

闘いの転機(戦いの前と後)

B!

2022-01-28

M–47パットンですね  Facebook 新妻益男さん曰く

2022-01-27
Facebook 稲葉 祐一さんより

テレビ初密着! 航空自衛隊 F15パイロットの過酷な訓練とは(2021年12月28日)

2022-01-27

紫電改

2022-01-26
 P-51は最高のレシプロ戦闘機とされる。紫電改、疾風を超える高性能機であり欧州・太平洋の両戦線で日独軍機を圧倒した。

Facebook 平原芳弘さん曰く


紫電改と疾風が局地戦で有利に戦えた理由について以下の論説文がありました。大きく分けて三つの考察ですが、それに付記して整備員の確保や部品の調達も挙げられます。
紫電改は第三四三航空隊の活躍がありましたが、生産機数からも四式戦の大戦果の記録がない事が不思議です
これを読んでみると納得する部分ありと考えるのと同時に、どこか悲しい気持ちになってしまいました
■ 戦闘距離の有利
なぜ紫電改や疾風は米戦闘機と対等に戦えたのか?
その第1は戦闘距離の有利を享受できた結果だ。
日本戦闘機には基地近隣で戦える有利があった。本土防空である。戦闘時の飛行距離も滞空時間も短い。パイロットは燃料切れの不安なしに思う存分に戦えた。あるいは燃料搭載量を減らして機体重量を軽くもできた。それにより日本戦闘機は額面以上の性能を発揮できたのだ。
対して米軍機は遠距離攻撃の不利があった。
一つは燃料事情である。特に硫黄島から出発するP-51は往復距離ギリギリだった。戦闘でも常に帰り分の燃料を気にしなければならない。当然ながら日本戦闘機への攻撃も淡白となった。執拗な空中戦はできない。日本戦闘機に手負いまで追い込んでも深追いはできないのだ。
また長距離飛行の疲労も伴った。本土防空戦では米軍機は進攻側となった。離陸から日本上空まで、日本上空から基地に帰投するまで長時間飛行をする立場となった。その点でも存分に戦えなかったのだ。
紫電改や疾風の活躍にはこの戦闘距離の有利があったのである。
■ 迎撃システムの有利
第2は防空システムの支援をうけた結果である。
本土防空戦では日本機は防空システムの支援を得られた。対して米軍機にはそれはなかった。これも紫電改や疾風が米新鋭機と対等に戦えた理由だ。
レーダ情報利用の利益は大きい。戦争後半には本土各地にはレーダが整備されている。さらにそれら情報を集約し判断する防空指揮機能も存在していた。
日本戦闘機部隊は一方的にその利益を得られた。米軍機の来襲地域や概略の状況を事前に察知できたのである。うまくすれば日本戦闘機は米軍機を待ち伏せできた。また奇襲による被害も回避できた。飛行訓練中に攻撃される。あるいは地上で撃破される。そのような最悪事態を避けられた。
また、日本戦闘機は自軍対空射撃からも利益を得られた。対空砲は米軍機に脅威を与える兵器である。その点で日本戦闘機を直接的に支援したわけではない。ただ、米軍機の足を引っ張った結果、日本戦闘機が有利に戦いやすくなったのである。
■ 救難の有利
第3は救難の有利を得た結果だ。これも日本機だけあって米軍機にない要素である。
日本パイロットは撃墜されても脱出救難を期待できた。実際に本土防空戦ではパイロットの救難活動は軍民問わず積極的に行われていた。
また不時着も選択肢となった。戦争末期は本土には多数の飛行場が設営されている。大損傷をうけてもそのいずれか、あるいは河川敷や田畑に滑り込めばどうにかなる判断も成り立った。
そのため強引な戦いができた。脱出すれば、不時着すればどうにかなるからだ。その最たる例が震天制空隊で知られるB-29への体当たりである。爆撃機に体当りして落下傘で生還する。実際にそのような戦いも全くの不可能ではなかった。
米軍機にはそれはなかった。少なくとも海上まで移動しなければ落下傘による脱出も危険であった。無事陸上に脱出しても日本捕虜となってしまうのだ。
これも戦闘に影響した。日本戦闘機は米軍機に対し積極的に戦えた。対して米軍機は慎重となった。帰還や脱出を考慮すれば小規模被弾でも引き下がらなければならない。当然だが日本機への押しは弱くなったのである。
■ 活躍は敗北の結果
紫電改や疾風が活躍できたのはこれら防御側有利があった結果である。
その効果は絶大である。それは二線級戦闘機の活動からも伺える。戦争後半の本土防空戦ではゼロ戦や隼も積極的に防空戦に参加している。そして紫電改や疾風には全く及ばないもののそれなりの戦果を挙げた。これも防御側有利の効果あってだ。
それを考慮すれば紫電改や疾風への見方も変わる。性能で米戦闘機と対等だから活躍できたのではない。防御側有利を生かしてようやく対等に戦えたのだ。
そもそも性能では一品下る戦闘機であった。額面性能や戦後の米軍試験、エンジン性能や機体設計の水準からすれば紫電改や疾風はあきらかに米新鋭機の一段格下である。
つまり「遅れてきた傑作機」「悲劇の傑作機」の理解も誤っているのだ。高性能機だから活躍できたのではない。敗北により日本本土まで押された結果、ホームグランドで戦う有利が得られたのだ。それにより活躍できたに過ぎないのである。
って!
疾風

護衛艦いずもに乗艦! 知られざる海上自衛隊の世界 | ガリレオX第143回

2022-01-25
海上自衛隊最大の護衛艦「いずも」=平成29年6月21日、南シナ海(自衛隊ヘリから、松本健吾撮影
2017年2月放送作品 海上自衛隊の最新鋭護衛艦いずもの訓練航海に初めてテレビカメラが入った! 
船体は全長248mもあり、海上自衛隊最大を誇る。 
全通甲板と呼ばれる飛行甲板は、5機のヘリコプターが同時に離着艦できる広さを持つ。
格納庫は大型車両を50台並べられるほどの面積を持ち、熊本地震では物資や人員の輸送で貢献した。 
普段知ることのない護衛艦の訓練航海に密着、その素顔に迫る。 
≪番組内容≫ 
〇護衛艦いずも とは 
〇巨大な艦内を徹底解剖 
〇熊本地震での活躍 
〇病院船としてのいずも 
≪主な取材先≫ 
・護衛艦いずも 
・菊池 雅之さん(軍事フォトジャーナリスト)
F35Bの発着艦試験成功、自衛隊が初の「空母」を持つ理由とは
護衛艦「いずも」に着艦する米海兵隊の「F35B」(3日)=防衛省提供
中国軍が追跡…海自最大の護衛艦「かが」南シナ海航海に同行【3分でわかるNドキュ】
F-35C First Integrated Carrier Ops Aboard USS Lincoln

データベース(武器を用いない闘いの歴史の中で、人は如何に生きたか・・・。)

Facebook 闘諍堅固

2021-09-14
とうじょうけんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。

五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

【死神】 立川談志

2022-01-08

令和3年7月に再生回数が50万回に達しました。ありがとうございます。 このサゲに落ち着いたのは平成7年頃。『あれだけのことをやられたんだから、やっぱり死神に吹かせたいんだよ。死神が怒らないわけないもの』(家元談) 平成17年1月の高座(北とぴあさくらホール)
立川談志「談志半生記」2016/11/26

破天荒な行動や毒舌。落語界の反逆児と言われた落語家・立川談志。江戸時代からの古典落語に革命を起こした。昭和11年東京に生まれた談志は、16歳で五代目柳家小さんに入門。27歳で立川談志を襲名し真打昇進を果たした。しかしその頃から「師匠に教えられたとおり古典落語をやっているだけでは落語はいずれ滅びる」と危機感を抱く。「時代に合わせて落語を変えていかなければならない」というのが生涯を貫くテーマとなった。談志の落語哲学は「落語は人間の業の肯定」である。つまり「人間の弱さや愚かさを認めたうえで、そうした人間らしさを描き出すことこそが落語である」というのである。落語を愛し、生涯通じて理想の高座を求めて続けた半生が語られる。


今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)

2022-01-07
Facebook 永井資久さん曰く
今日は岡本太郎氏の命日らしい(Taro Okamoto.1911.2.26 - 1996.1.7)
彼の名を多くの人に知らしめたのは言うまでもなく、大阪万博の「太陽の塔」だろう。当初、私も意味も判らずとんでもない醜悪なものだと思った時期もあった。彼のこの言葉を聞いた時に理解出来たような気がする。
「精神の自由さから来るデタラメこそが真の芸術である。」
ピカソに傾倒し、ダイナミックな作品創りを精力的にこなしていた。よくテレビに出演して「芸術は爆発だぁ〜!」「何だこれは!」などと叫んでおられたのが印象に残っている。作品にはとにかく圧倒される迫力がある。今後ピカソを越えるアーティストとして世界で高く評価されると思う。
偉大なるデタラメ人、岡本太郎氏に敬意と感謝を込めて。。。。合掌。
大谷大学 #きょうのことば
Facebook 大谷大学さん曰く
本学教員が「伝道掲示板」の解説文を執筆しています。



· 若き日の小澤征爾とシカゴ交響楽団のRCA録音版

2022-01-07
Facebook 伊東 一郎さん曰く、ベートーベンとチャイコフスキーの5番より、春祭が良い。ボストンと小澤の日本公演を思いだした。

◎モルガンお雪

2022-01-07
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1903(m36)年】-2
◎モルガンお雪
*1903.9.30/ 京都祇園の芸妓 加藤ゆきが、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な身請け金で、米国富豪 ジョージ・モルガンに身請けされる。
 1903(明36)年9月、祇園の芸妓「お雪」が、当時4万円(現在の8億円相当)という莫大な落籍料により、ジョージ・デニソン・モルガンに身請けされ、翌1904(明37)年1月、横浜領事館で結婚式をあげる。ジョージは、モルガン財閥の創始者J・P・モルガンの甥で、当時30歳の彼も大富豪であった。
 モルガンお雪は本名 加藤ユキ、芸妓名は「雪香」として、京都縄手新橋上ルの外人専用のお茶屋 「小野亭」で芸妓をしており、1901(明34)年、初来日したアメリカ人富豪ジョージ・モルガンに見初められた。ジョージは、お雪が求婚を承諾するまでの4年間に3度も来日した。
 当時、芝居小屋「千本座」を営んでいた牧野省三(のちに「日本映画の父」と呼ばれる)は、祇園の茶屋遊びを重ねていて、芸妓だったお雪と懇意になった。牧野は、お雪に「鷲鼻の毛唐」からの身請け話を打ち明けられた。省三は「4、5万円くらい吹っかけてみろ」と冗談でいったところ、数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しが、新聞紙上に踊った。お雪身請けの派手な記事のせいで、省三はお雪と別れなければならなくなったが、省三はこの切ない恋物語を、「モルガンお雪」の題で千本座の舞台で上演、大ヒットさせる。
 お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれ、ジョージとアメリカに渡るが、当時の排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。1905(明38)年、ジョージとともに一時帰国するが、日本でも「金に目がくらんだ女」などと、世間の好奇の目は変わらなかった。2年ほど日本で暮らした後、渡欧してフランスのパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼ぶ。
 1915(大4)年、夫ジョージが44歳で心臓麻痺で死去。その時お雪は34歳だったが、その後、遺産相続をめぐる夫の一族との裁判に勝ち、60万ドル(当時)という莫大な資産を得るも、米国籍を剥奪され無国籍者となる。そのまま欧州フランスで悠々自適の生活を送る。
 1916(大5)年、陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・タンダールと恋に落ち、マルセイユで同棲する。結婚はせず、受け継いだ莫大な遺産を、タンダールの学問援助に費やすが、遺産をモルガン家に没収される恐れがあるため、タンダールと再婚はしなかった。1931(昭6)年、タンダールが心臓麻痺で死去、ニースの別荘に移る。
 1938(昭13)年、第2次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化したため、家族の世話もあり京都に帰る。戦局が逼迫すると、モルガン家からの送金も途絶え、無国籍のお雪は特高警察に目を着けられて、軍政下で財産を差し押さえられるなど、苦難に遭遇した。日本敗戦後、71歳でカトリックの洗礼を受け(洗礼名テレジア)、以後はいちカトリック信者として京都紫野 大徳寺門前の小家で隠棲、1963(昭38)年、急性肺炎により死去。享年81。
 お雪は、日米欧にかけて数奇な運命を生き抜き、その生涯は何度も著作物や舞台演劇で取り上げられた。なお、この時期、東アジア・東南アジアなどに娼婦として送られた日本人女性「からゆきさん」は、「唐(外国)行きさん」であって、「お雪さん」から来たものではない。
 「からゆきさん」は、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷/1974年」によって、戦前で途絶えていた呼び名が思い起こされることになった。さらに1980年代バブル絶頂期日本では、東南アジアなどからの逆輸入版で、日本への出稼ぎにくる女性は「ジャパゆきさん」という造語で呼ばれた。
(この年の出来事)
*1903.4.13/ 文部省は、小学校令の一部改正により国定教科書採用に踏み切る。
*1903.6.-/ 内村鑑三が「聖書之研究」や、万朝報で日露非開戦論・戦争絶対反対を論じる。
*1903.7.5/ 幸徳秋水が「社会主義神髄」を出版する。
*1903.10.6/ 小村寿太郎とローゼン駐日ロシア公使とが、満州の権益をめぐり日露交渉を始めるも、双方譲らず不調に終わる。

闘いすんで 陽が暮れて・・・

2022-01-24
YS―11の鬼太郎スペシャル
C―1の鬼太郎スペシャル
T―400の鬼太郎スペシャル

『沢村 忠』

2022-01-07
Facebook 高村雪子・Syoko さん曰く

月曜日 やっつけたわね

2021-12-10
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

昭和の東西「オー・モーレツ」

2022-01-22
Facebook 浅見俊彦さん曰く、小川ローザ & マリリンモンロー

日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
朝鮮戦線を慰問、日本での新婚旅行を中座して・・・。

マリリン・モンロー ジョー・ディマジオ来日(新婚旅行)の日程 

 

1954年(昭和29) 2月1日 午後5時35分 羽田着 

夫のジョー・ディマジオ サンディエゴ・パドレス監督の

フランク・オドウル氏らとともにオープンカーをつらねて帝国ホテルへ。

              

2月2日 記者会見

   ディマジオの為の記者会見だったが、質問はすべてマリリン

へのものだった。

 

2月8日 午後7時30分 板付着 

那珂川河畔の国際ホテル(現在の城山ホテル跡)へ

                     ホテルを500人あまりのファンが取り巻く。

マリリンは2階の窓辺に現れ、カーネーション の花びらを

ファンにばらまいて、投げキッスをふりまいた。

滞在中は、1人で、西戸崎へ米軍キャンプの慰問、

ドライブなどを楽しむ。

ディマジオ、オドウル監督らは、香椎球場で日本プロ野球選手の

技術指導を行う。

夕食はお忍びで、ホテルの通りをはさんだ向かいのレストラン

ロイヤル(旧花の木)で食事を楽しむが、店をファンに埋め尽くされる一幕も。

            

2月11日 午前9時10分 岩国市の米軍基地へ

                    ディマジオ・マリリン一行は、自動車で宮島の一茶苑に向かったが、

ファンが殺到しMPが出動する騒ぎだった。

            

2月14日 岩国から大阪へ

            

2月16日から19日まで

     マリリンは、朝鮮の国連軍慰問(10ヵ所以上の駐屯地を訪問)し、カゼを引く

     ディマジオは、大阪・奈良などを訪問し、野球指導を行う。

            

2月25日 午後2時7分 羽田からサンフランシスコへ帰国

ロイヤルのこの器は、今(2021年)でも、この形で、テーブルにサービスされています。

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
全戦没者追弔法会   表 白
全戦没者追弔法会  

表  白 
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに 三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じ ます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

2021年全戦没者追弔法会記念講演をご視聴いただけます


2021年4月2日に勤まりました「全戦没者追弔法会」の記念講演を公開しています。

解放運動推進本部ホームページ内の「学ぶ(動画)」からご視聴いただけます。

 

●2021年全戦没者追弔法会 記念講演

●講題 「日常に潜む戦争」

●講師 真城 義麿氏(四国教区東予組善照寺住職)



【 Facebook闘いのページ】のページ、管理者は住職です。

政局について

高市候補

2021-09-18

野田候補

2021-09-18

候補者共同記者会見

2021-09-17
Facebook 自由民主党さん曰く
候補者共同記者会見
9月17日、自民党総裁選の候補者共同記者会見をライブ配信いたします。ぜひご覧ください


【ノーカット】自民党総裁選 候補者共同記者会見

    菅義偉首相の退陣表明に伴う自民党総裁選が17日告示された。
   岸田文雄前政調会長、河野太郎行政改革担当相、高市早苗前総務相、野田聖子幹事長代行の4氏が
   立候補し、同日午後、そろって記者会見した。

自民党総裁選候補者の共同記者会見を前に、撮影に応じる

2021-09-17
(左から)河野太郎規制改革担当相、岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相、野田聖子幹事長代行
=17日午後、東京・永田町の同党本部

所見発表演説会

2021-09-17
Facebook 自由民主党さん曰く
所見発表演説会
9月17日、自民党総裁選の所見発表演説会をライブ配信いたします。各候補者の所見をぜひお聴きください。
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