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闘いの歴史

データベース

Facebook 闘諍堅固

2021-09-14
とうじょうけんご 【闘諍堅固】 〘名〙 仏語。

五種ある堅固のうちの第五。または、五五百年(ごごひゃくねん)の一つ。仏滅後第五の五百年で、諸僧が互に自説の優位を主張し、争うことが多く、邪見のみにて仏法が姿をかくしてしまう時をいう。

麻生太郎 2009年4月16日 英語で五輪招致

2021-11-18
安倍晋三総理大臣のプレゼンテーション IOC総会(13/09/08)

【シリーズ自民党総裁の椅子】谷垣禎一「前途に思いを馳せる」(2009年9月)

2021-11-18
【第86回自由民主党大会】谷垣禎一元総裁 スペシャルスピーチ (2019.2.10)

【Message】New Year's Greetings Yasuo Fukuda_1.1.2008

2021-11-18


【シリーズ自民党総裁の椅子】福田康夫「座り心地よくない」(2007年9月)【映像記録 news archive】


宮沢喜一総理への英語インタビュー Kiichi Miyazawa English Interview

2021-11-18

闘いの記録 (戦争と人間)

別府良孝さん 「反戦僧侶」の掘り起こしに取り組む

2021-11-09
Facebook Yoshihito Hashimotoさん曰く
別府良孝さん 「反戦僧侶」の掘り起こしに取り組む
戦争は釈尊(しゃくそん)の教えにあらず。昭和初期、こう訴え投獄された僧侶がいた。俳優植木等さんの父、植木徹誠(てつじょう)らが知られるが、そんな仏教者を「反戦僧侶」と名づけ、宗教専門紙で情報提供を呼びかけるなど、無名の僧侶の掘り起こしに取り組んでいる。
 知らぬ間に戦争はやってくる、という先人の戒めを重く受け止めている。戦争一色の時代、仏教界も積極的に国策に協力した。背景には、明治時代に入って寺院や仏像が破壊された「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の強烈な恐怖があった。第1次世界大戦後には「戦争は菩薩行(ぼさつぎょう)だ」などと戦意をあおる仏教指導者が目立って増えていった。
 「突然、戦争協力に転じたのではない。好戦、反戦に分かれるメカニズムを解明しないことにはあの時代に戻りかねません」
 名古屋市の曹洞宗寺院で住職を務める。科学者でもある。名古屋大大学院の物理学教室で学び「目の中にあるタンパク質の計算」で理学博士号をとった。後のノーベル賞受賞者も生んだ教室では、科学者運動のリーダーでもあった素粒子研究の坂田昌一教授らの薫陶が息づいていた。「平和の創造に寄与する研究者たれ」と。
 名大本体も後年、戦争目的の学問研究と教育には従わず、と謳(うた)う「平和憲章」を定めた。仏教者、科学者としてのキャリアが今日の活動に色濃く反映されている。(文・写真 藤生明)
 べっぷよしたか(73歳)

「戦争」問うBC級戦犯の遺書など保存 福岡・嘉麻市

2021-11-08

便箋(びんせん)で際立つ「戦争絶対反対」「世界永遠の平和」の大きな文字-。福岡県嘉麻市出身の旧日本海軍1等兵曹、藤中松雄さんの遺書だ。先の大戦中、沖縄県・石垣島で米軍捕虜3人が処刑された「石垣島事件」でBC級戦犯に問われ、巣鴨プリズン(東京拘置所)で最後に死刑執行された一人。終戦から76年。同市碓井平和祈念館で保存される遺書は先の大戦とは何だったかを今も問い続ける。

28歳のBC級戦犯が死刑囚に…家族に宛てた7千字の遺書https://www.nishinippon.co.jp/item/n/609843/

最期の闘いの場は、蝦夷地でした。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
"ラストサムライ"の戦の地となりました。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-6
◎函館五稜郭の戦い
*1868.8.19/ 旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻を率いて、品川より奥州に向けて脱走出帆する。
*1868.10.25/ 榎本武揚が、函館五稜郭を占領する。
*1868.12.25/ 榎本武揚が蝦夷地全域を占領し、旧幕府軍の総裁に選出される。 
 慶応4(1868)年4月、江戸城無血開城の条件に、新政府への旧幕府軍艦の引渡しが含まれていたが、海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦の引渡しに応じず開陽など主力艦の温存に成功した。8月19日、奥羽越列藩同盟からの支援要請に応じて、榎本率いる8隻の旧幕府艦隊は、品川沖を脱走し仙台に向った。この榎本艦隊には、旧幕閣や彰義隊に旧幕府軍事顧問団のフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。
 榎本艦隊は、悪天候で2隻を失いながらも、9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、最後まで戦った会津藩や庄内藩も降伏し、東北戦争は終結してしまった。榎本艦隊は、仙台藩に貸与していた運送船を加え、桑名藩主松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長土方歳三ほか、旧幕臣など東北戦の残党などを収容し、東北沿岸を北上した。
 新政府が決定した徳川家への処置は、駿河、遠江70万石への減封というもので、約8万人の旧幕臣を養うことは不可能であり、榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ北方の防備と開拓にあたらせようと画策していた。榎本は、新政府軍に追われながら、新政府軍平潟口総督宛てに、旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。
 蝦夷地に到達した榎本艦隊は、10月21日、箱館を迂回して、北方の内浦湾鷲ノ木に約3,000名が上陸した。箱館には、旧箱館奉行に代わり新政府の箱館府が置かれていたが、東北戦争に兵員を割かれ手薄となっていた。旧幕府軍は、大鳥圭介率いる部隊と土方歳三率いる部隊の二手に分かれて箱館へ向けて進軍する。明治1(1868)年10月22日夜、無用な戦闘を避けるべく新政府への嘆願書をたずさえた先行隊が宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれた。
 明治1(1868)年10月24日、大鳥軍と土方軍は箱館府軍を撃破し、新政府軍箱館府知事は「五稜郭」の放棄を決め青森へ退却、旧幕府軍は10月25日に五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊を箱館へ入港させ、旧幕府軍は箱館を占領することに成功した。さらに、松前藩の松前城や館城も攻略して、蝦夷地の平定を達成する。ただし、江差方面攻略の支援に来ていた主艦船開陽などが、悪天候のため座礁沈没し、支援新政府軍の上陸阻止が出来なくなるという痛手を負った。
 12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、蝦夷地開拓を求める嘆願書を新政府に送るが、右大臣岩倉具視に却下され、来たる新政府軍の攻勢に備えることになった。
 旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届くと、11月19日旧幕府軍追討令が出されたが、冬季作戦は無理として、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始するとし、新政府軍は青森周辺に冬営した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄をアメリカから購入し、甲鉄を旗艦とした新政府軍艦隊は、翌 明治2(1869)年3月9日品川沖を青森に向けて出帆した。
 新政府軍艦隊が東北の宮古湾に入るとの情報を受けると、榎本軍は甲鉄を奪取する作戦を実行するも、暴風雨等で難航し、貴重な3艦船を失い敗退する。宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、青森に到着すると、4月初には渡海準備が完了した。そして、青森を出発した新政府軍は、明治2(1869)年4月9日早朝、江差北方の乙部に上陸した。
 江差を奪還した新政府軍は、4月半ばには陸軍参謀黒田清隆率いる2,800名など増援軍が到着、松前口・木古内口・二股口・安野呂口の四方面から箱館へ向けて進軍を開始する。物量で圧倒する新政府軍に対して、旧幕府軍は各方面とも後退を余儀なくされ、唯一、土方歳三の指揮する二股口の戦いでは、激闘の末、新政府軍を退却させるが、背後から挟撃される危険が生じたため、土方軍も五稜郭への撤退を余儀なくされた。
 明治2(1869)年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、海陸両面から箱館に迫まった。箱館湾海戦では、箱館湾に侵入した新政府軍艦に、榎本軍は残された軍船により抵抗するも、砲弾を打ち尽くすなどして、意図的に座礁させて浮き砲台とするしかなかった。同日、五稜郭北方の急造堡塁の四稜郭方面の戦闘でも、敗退し五稜郭に退却する。
 一方、同日未明、陸軍参謀黒田清隆率いる新政府軍が箱館山の裏側に上陸し、函館湾拠点の弁天台場の背後を襲った。結果的に、弁天台場の旧幕府部隊は、五稜郭本隊と分断され孤立する。新政府部隊は箱館市街をほぼ制圧し一本木関門付近にまで進出、旧幕府部隊は五稜郭まで退いた。このとき、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死した。
 翌5月12日、唯一残された五稜郭本隊に対して新政府軍が降伏勧告をするも、榎本総裁はいったん拒否する。この時、榎本が所有していた貴重な「海律全書」を、新政府軍参謀黒田清隆に託し、黒田は返礼として酒樽・鮪を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、旧幕府軍首脳側が合議の上、降伏・五稜郭開城を決定した。
 5月18日、五稜郭は開城し、榎本ら幹部とともに郭内将兵も投降、ここに箱館戦争は終結した。降伏した旧幕府軍の将兵は弘前藩ほかに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放。榎本武揚はじめ幹部7名は、東京で投獄された(明治5年釈放)。
 新政府軍黒田清隆と旧幕府軍榎本武揚が、五稜郭開城にあたって意を通じ合ったことが、この緩和な処置に寄与したと想像される。その後、榎本は、新政府重鎮となった黒田に助命されたうえ明治政府に出仕し、北海道開拓使として北海道の開拓に尽力するなど、新政府の官吏として有能な仕事を為した。

"錦の御旗"は、掲げられましたけれど・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-3
◎五箇条の御誓文
*1868.3.14/ 明治天皇が「五箇条の御誓文」を天地神明に誓約。実質的には、維新政府による基本方針の宣言となる。
*1868.3.15/ 新政府は、徒党・強訴・逃散・キリスト教などを禁じた「五榜の掲示」を立て、対庶民には旧幕時代の政策を継承する意図を示す。
*1868.3.28/ 新政府が神仏分離令を出し、以後、「廃仏毀釈」の運動が荒れ狂う。
*1868.閏4.27/ 新政府が「政体書」を出し、政治組織などを具体的に定める。
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
 「五箇条の御誓文」は、慶応4(1868)年3月14日、明治天皇が天地神明に誓約するという形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針であり、正式名称は「御誓文」とされる。鳥羽伏見の戦いの決着がつき、新政府の東征軍が江戸に迫るなか、京都では明治天皇の裁可を受け、「五箇条の御誓文」が公示された。西郷と勝の会談で「江戸城無血開城」が決まるのと同日であった。
 翌日、京都御所の紫宸殿に設えられた祭壇の前で、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が執り行われた。明治天皇出御のもと、副総裁三条実美が天皇に代わって神前で「御誓文」を奉読する形で示された。
 御誓文は太政官日誌(官報の前身)をもって一般に布告された。「御誓文」は、あくまで公卿や諸侯など旧政権周辺に対して、朝廷の威光と天皇親政の国是を知らしめすのが主眼であり、太政官日誌は庶民一般の目に行き渡るのもではなかった。一方で一般国民に対しては、旧来の儒教道徳を強調した「五榜の掲示」が示され、徒党・強訴の禁止やキリスト教の厳禁など、旧幕府の政策を継承した訓示が示された。
 明治新政府は、大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年1月、福井藩出身参与 由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、次いで土佐藩出身参与福岡孝弟が修正したが、封建的な残滓を残し、王政復古の理念にも反するという批判もあり、そのままになっていた。
 そこで、参与で総裁局顧問木戸孝允は、天皇が、神前で公卿諸侯を率いて誓いの文言を述べ、その場で全員が署名するという形式を提案し、天皇親政を広く知らしめすとして、これが採用されることとなった。木戸は、福岡案の封建的残滓を取り払い、大幅に変更を加えることで、より普遍的な内容にした。この木戸による五箇条が、「御誓文」が明治天皇の裁可を受け、最終案とされた。
 慶応4(1868)年閏4月21日には、御誓文をより具体化した「政体書」が公布され、明治新政府の政治体制が定められた。さらに、明治8(1875)年の立憲政体の詔書では、「誓文の意を拡充して…漸次に国家立憲の政体を立て」と宣言され、御誓文は立憲政治の実現に向けての出発点として位置付けられた。
 その後の「自由民権運動」でも、「御誓文は立憲政治の実現を公約したもの」とされ、議会政治実現の根拠とされた。また、敗戦後の昭和天皇の、いわゆる人間宣言においては、御誓文の全文が引用され、日本的な民主主義の萌芽として位置づける試みも見られた。

お上は東京へお下りになったのですが・・・。

2021-11-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1868(m1)年】-5
◎戊辰戦争・新政府東征軍と旧幕軍の戦い
*1868.2.23/ 旧幕臣が彰義隊を組織し、上野を占拠する。
*1868.3.3/ 赤報隊の相良総三らが、偽官軍として捕らえられ、長野の下諏訪で斬罪とされる。
*1868.5.3/ 東北・北陸 奥羽25藩の同盟についで、長岡・会津など8藩も加盟、「奥羽越列藩同盟」が成立する。
*1868.5.15/ 上野の彰義隊が、政府軍の攻撃で敗走する。(上野戦争)
*1868.8.23/ 会津若松城が新政府軍に包囲され、9月22日、会津藩は開城降伏する。(会津戦争)
<上野戦争>
 鳥羽・伏見の戦いに決着がつき、幕府追討の詔勅が発せられると、西日本の多くの諸藩は命に服し、大きな混乱は起きなかった。新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍する。
 進軍する東征軍と旧幕府残党の最初の戦闘は、東山道軍(中山道)の進軍先の、甲州甲府や武州熊谷で発生した。近藤勇の率いる旧新撰組は甲陽鎮撫隊を組織して戦ったが、甲府盆地で板垣退助ら率いる東山道鎮撫先鋒部隊(土佐藩主力)に敗れ、近藤は捕縛され処刑される(甲州勝沼の戦い)。また、東山道軍の本隊は、武州熊谷梁田宿(現足利市)で旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲攻撃をしかけ、幕府軍の敗北に終わった(梁田戦争)。
 東海道軍は、御三家筆頭の尾張藩が、いちはやく勤皇に転換したこともあって、小田原以西の全ての藩が恭順を誓い、大きな衝突もなく駿府にまで東進した。そして江戸城開城が決まるとこれに不満な抗戦派の幕臣らは、江戸の治安組織の「彰義隊」のもとに結集し上野にたて籠ったが、慶応4(1868)年5月1日、西郷に代わって司令官に任じられた長州藩士大村益次郎(村田蔵六)によって、一日で壊滅させられる(上野戦争)。
<奥羽越列藩同盟>
 京都守護職だった会津藩主松平容保・京都所司代の桑名藩主松平定敬は、ともに京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行った。また鳥羽・伏見の戦いでは、両藩は旧幕府軍の主力として新政府軍と戦ったため、新政府の反感は強く、戦いの敗北とともに朝敵と認定されていた。また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった(会庄同盟)。
 慶応4(1868)年3月22日、新政府への敵対姿勢を続ける会津藩及び庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督及び新政府軍が仙台に到着した。そして3月29日、仙台藩・米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。しかし、追討軍を庄内藩が反撃し天童城を攻め落としたり、関東でも旧幕府軍が宇都宮城を占拠するなど、新政府への対抗気運が漂い出した。
 慶応4(1868)年閏4月4日、仙台藩主導で奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩への赦免の嘆願書を提出するが、新政府はこれを却下した。当初は、新政府の会庄追討に従っていた奥羽14藩は征討軍を解散し、逆に新政府軍と戦闘状態に入った。赦免の嘆願書は新政府によって拒絶されたため、天皇へ直接建白を行う方針に変更され、奥羽列藩盟約書を調印し、会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書が作成された。
 さらに、北越6藩が加わり、計31藩によって「奥羽越列藩同盟」が成立した。当初は嘆願を求める盟約であったものが、途中から軍事同盟に転嫁されたため、必ずしも加盟諸藩の統一された戦略があったわけではない。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力することになった。
 新政府軍と奥羽越列藩同盟との戦いは、仙台藩が盟主的存在であったが、戦闘は奥州・北越の各地で並行的に行われたので、関ケ原の戦いのように双方が全軍で対峙するような場面はなかった。輪王寺宮公現法親王をかついで仙台に奥州政府を樹立する動きもあったとされるが、それは形にならなかった。ただ、京都新政府・江戸幕府のいずれでもない第三の勢力として、東北諸藩の利害共同体的な性格の同盟であったと思われる。
 庄内戦争・秋田戦争・白河戦線・北越戦争・平潟戦線など、各地で激戦が行われたが、新政府軍に敗れた同盟軍や旧幕軍の敗残兵が、未陥落の地に集まるなどして、次々と戦闘地は移っていった。そして最も激戦となったのが、松平容保の会津での戦いであった。奥羽越列藩が次々と陥落し奥羽越同盟が崩壊する中、最後まで若松城に籠城して戦った会津藩も、ついに1868(明1)年9月22日、落城し、その2日後に庄内藩も降伏した。

闘いの転機(戦いの前と後)

空母化というより、もはや空母そのものです。

2021-10-05
護衛艦「いずも」でF35Bステルス機が離着陸訓練へ(2021年7月31日)
着艦です。

護衛艦「いずも」でF35Bステルス機が離着陸訓練へ(2021年7月31日)

空母化進む「いずも」でF-35B発着試験(2021年10月5日)
発艦です。

空母化進む「いずも」でF-35B発着試験(2021年10月5日)

空母化、着々です。

2021-09-30
Facebook Shinya Kojima さん曰く
「いずも」へのF-35B発着艦検証、10月3日から実施へ
「いずも」へのF-35B発着艦検証、10月3日から実施へ
防衛省は9月30日、海上自衛隊の護衛艦「いずも」へのF-35B戦闘機の発着艦検証作業を10月3日から7日の間、太平洋上で実施すると発表した。
 検証は米海兵隊岩国基地所属のF-35Bの協力を得るかたちで行うとしている。
(航空新聞社の記事より)

日米英蘭加共同訓練(#PACIFICCROWN21)

2021-09-30
Facebook 防衛省 海上自衛隊さん曰く
令和3年8月25日(水)~令和3年9月9日(木)に行われた、日米英蘭加共同訓練(#PACIFICCROWN21)の新たな動画をYouTubeに公開しました!
ぜひご覧ください!
URL⇒https://youtu.be/F-cR35rhn5M

Messerschmitt Bf 109 E-3

2021-09-20

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2021-09-20

真宗大谷派の取り組みについて

「全戦没者追弔法会」の和讃

2021-04-04
Facebookしんらん響流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【4/2全戦没者追弔法会】

2021-04-04
Facebookしんらん交流館さん曰く
1987年から「戦没者追弔会」に「全」と仏法の「法」という文字を加えて「全戦没者追弔法会」と名称を改め勤められています。

【春の法要ライブ配信】全戦没者追弔法会(4月2日10時10分~)

2021-04-02

全戦没者追弔法会 戦争でいのちを奪われた方々を憶念し、仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教えから、私たちの今を問い直す法要です。
 ◆法要 10時20分~ 
【法要次第】
 出仕
 着座楽 
総礼 
伽陀 稽首天人 
登高座 
表白 
伽陀 万行之中
 御経 仏説阿弥陀経 
伽陀 直入弥陀 
下高座 
総礼 
正信偈 草四句目下(同朋唱和) 
念仏讃 淘五 三重念仏 
和讃 無明長夜の燈炬なり 次第三首 
回向 願以此功徳 
総礼 
恩徳讃 
退出楽 退出
全戦没者追弔法会   表 白
謹んで阿弥陀如来、宗祖親鸞聖人 、ならびに
三世十方の諸仏如来に申し上 げます。
 本日ここに、親しく宗祖親鸞聖人のまえに坐 すことを得て、全戦没者追弔法 会を厳修いたします。このときにあたり、一つには過去の 罪障を懴悔し、二つには現在の遇法を慶喜び、三つには将来に同朋社会の顕現を期したいと存じます。 
第一に、過去の罪障を懴悔するとは、われらの宗門が、先の悲惨な侵略戦争 に自ら荷担し、それを「聖戦」と呼び、「まったくおおせにてなきことをも、 おおせとのみもうす」罪を犯したことであります。 実に、五逆謗法の咎逃れがたく、今更あらため 全戦没者の悲しみを 憶念し、ここに真宗大谷派が無批判に戦争に荷担した罪を表明し、過去の罪障を懴悔いた します。
 第二に、現在の遇法を慶喜ぶとは、そのわれらの罪障にも拘らず、如来の本 願はその罪を私たちに知らしめ、罪に向き合い、平和への道を歩ましめるので あります。
 第三に、同朋社会の顕現を期すとは、本願念仏の教法に生きる者は「四海の 内みな兄弟とするなり」という浄土の 荘厳功徳をこの身に受け、死者と生者が 一つに出会い、国家や民族の境を超えた「同朋社会」の顕現に 向 む かって 生 い きる 者 もの となるのであります。 われら 真宗門徒、ここに 非戦平和の誓いを 表 白し、ひとえに、この身とこの世の無明の闇を 照らす仏の教えに随い、ともに生きあえる世界 への道を歩まんことを誓うものであります。 

   二〇二一年四月二日  釋修如

仏が願われた「兵弋無用(軍隊も武器もいらない)」の教え

2021-08-15
Facebook 阪下 大介さん曰く

2020 年度全戦没者追弔法会 記念講演

2021-04-02
2020 年度全戦没者追弔法会

・趣旨 日常に潜む戦争 ―不安と恐怖の中で―

 私たちの宗門は、かつて侵略戦争を「聖戦」と呼び、仏法の名のもとに多くの人々を戦 場へと送り出しました。戦争で命奪われたすべての人々、遺族のみならず、アジア諸国、 とりわけ中国、朝鮮半島の人々に、計り知れない苦痛と悲しみを強いてきました。戦争の 歴史が明らかにされる中で、私たちは被害者であると同時に、加害者としての歴史も問わ れてきたのです。だからこそ、なぜ戦争が起きるのか、社会はなぜ戦争に向かったのかと いうことを、全戦没者の悲しみの歴史に学び、戦争をくり返してきた人間の過ちを見つめ、 未来に伝えていくことを大切にしています。 この法会において、私たちは、戦争で命奪われたすべての人々の願いに耳を澄まし、日 常に潜む戦争の影を見つめ、戦争の無残さ、それを生み出す人間の深い闇を、心に刻みた いと思います。そのことにより、「国 こく 豊 ぶ ⺠安 みんあん 兵戈 ひょうが 無用 む よ う (国豊 ゆた かに⺠安 やす し。兵戈 ひょうが 用 もち いるこ となし。)」(『仏説無量寿経』)という、仏の大悲によって真実の豊かさと安らぎが与えら れるところに、兵士も武器も必要がないという教えが、具体的な現実の課題をとおして知 らされます。 いま世界は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大に震撼しています。国内においても 感染終息の目途が立たず、命を守るために感染を防ぐ努力は大切です。しかしながら、看 過してはならないのは、感染することにより世間から冷たい眼を向けられるのではないか と恐れる私たちの心や世間の風潮です。その恐れやメディアの報道などによって、私たち の心は追いつめられ、増大した不安から大衆の動向に身をゆだねることで、かりそめの安 心を得ているのではないでしょうか。 国家による戦争と、ウイルスという公衆衛生の問題は、本来、質が異なります。しかし、 不安の高まりからくる過剰な同調圧力は、戦時下と似通ったものを感じずにはいられませ ん。私たちは、不安から逃れるために、その場の空気や力関係に従うことで自分の身を守 ろうとします。そのような意識が、家族のため、みんなのため、やがては国のためにと、 「自発的に」命令に従い、「正義」の名のもとに凄惨な戦争へと向かっていったのです。 私たちは、厳しい状況の中で、⼾惑い揺れ動く心や、追いつめられて呻 うめ きをあげる一人 ひとりの小さな悲しみこそ大切にしていきたいと思います。それにより、「一切 いっさい 恐懼 く く 爲作 い さ 大安 だいあん (一切の恐懼 く く に、ために大安 だいあん を作 な さん。)」(『仏説無量寿経』)という仏の願いに応え てまいります。 このたびの法会が、非戦・平和への歩みを共につなぐ場となることを心より願います。
講師:真城 義麿氏(真宗大谷学園専務理事・元大谷高校校⻑)

政局について

安倍政権に反省促す所感、なぜ出した…政界引退する大島衆院議長が語る民主主義の根幹

2021-10-20
 8年9カ月続いた「安倍・菅政権」。国会の議論の前提となる資料の隠蔽や改ざんが相次ぎ、異論に耳を傾けない姿勢も相まって、少数意見を尊重しながら熟議する民主主義の根幹が揺らいだ。憲法で国権の最高機関と定められた国会の責任者は、議会や政治のありようをどう見ていたのか。次の衆院選に立候補せず、政界を引退する衆院の大島理森議長(75)に聞いた。

安倍政権に反省促す所感、なぜ出した…政界引退する大島衆院議長が語る民主主義の根幹:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

おおしま・ただもり 1946年、青森県八戸市生まれ。毎日新聞社員、青森県議を経て、1983年衆院選に自民党から立候補して初当選。12期目。青森2区。文相や農相、自民党幹事長などを歴任。2015年4月から衆院議長を務め、通算在職日数は歴代最長の2335日(13日時点)。

総選挙が公示されました。

2021-10-20
『読売新聞』2021/10/20朝刊です。

安倍、麻生を裏切り総理を操る甘利明・幹事長という「狡猾の人」

2021-10-18
© NEWSポストセブン 提供 容赦ない(時事通信フォト)
2021/10/18 07:05

岸田内閣の「影の総理」と呼ばれ始めているのが、甘利明・自民党幹事長だ。これまでキングメーカーの安倍晋三・元首相と麻生太郎・副総裁に忠実に付き従う「3Aトリオの末席」と見られていたが、総裁選と新政権の人事で一気に権力の中枢に駆け上がった。

 にわかに権勢を得た甘利氏の政界での軌跡を辿ると、仕えた“主家”から離れては敵対関係になってきたことが分かる。

 最初に世話になったのは河野家だった。甘利氏の父・正氏は河野一郎・元副総理の子分で、神奈川県議から代議士になり、河野家2代目の洋平氏が自民党を離党して新自由クラブを旗揚げすると行動を共にした。父の地盤を継いだ甘利氏も初当選は新自由クラブだった。甘利氏の先輩議員だった山口敏夫・元労相が振り返る。

「甘利君は勉強家で新人議員時代から官僚を集めて熱心に政策づくりをしていた。ただ、河野洋平はリベラル派の理想主義者だったが、甘利君の父は保守派だったし、若い頃から父の秘書をしてきた甘利君は政治理念より政策に重きを置くタイプで、洋平の政治姿勢に共鳴していたわけではなかった。だから新自由クラブが解党して自民党に復党するとき、洋平は宏池会(現岸田派)に入ったが、私は甘利君を誘って中曽根派に合流した。そのとき政治路線を違えることになった」

 だが、今回の総裁選で甘利氏は政治路線を違えたはずのリベラル派の岸田氏につき、世話になった河野家の3代目の太郎氏の敵に回った。

「河野太郎は新自由クラブ解党のときに洋平について行かなかった甘利君に思うところがあるのかもしれないし、当選回数が上の甘利君にすれば、河野太郎はまだまだ信用が足りないと考えたのではないか」(同前)

 その後、甘利氏は中曽根派から分かれた山崎派に所属し、「政策通」として頭角を現わしていくが、派内で人望があるとは言えなかった。同派議員の元秘書が語る。

「関西の山崎派議員のパーティーで挨拶に立った甘利さんが『私はね、関東より先には行かないんです。遠くのパーティーには参加しないんですよ』としゃべり出した。その自分がわざわざ来たと言いたかったのかもしれないが、高飛車な言い方を関西人は有り難がらない。会場はシーンとして気まずい空気が流れたが、気分を悪くしたのか、甘利さんは挨拶の最後に『本当に来ないんだよ、私は』と捨て台詞を吐き、出席した同僚議員や秘書たちも唖然としていた」

 それでも山崎派ではナンバー2の会長代行に就任し、派閥を継げると考えていた。だが、会長の山崎拓氏は甘利氏ではなく、途中から派閥に入会した石原伸晃・幹事長(当時)に派閥を継がせ、後継者争いに敗れた甘利氏は2011年に側近議員を連れて派閥を割った。このとき旗揚げしたのが甘利グループ「さいこう日本」だ。

 その石原氏が翌2012年の総裁選に最有力候補として出馬すると、甘利氏は再登板を目指す安倍氏の選挙責任者となって石原追い落としに動く。今回の総裁選で河野阻止に動いたのと同じやり方だ。

 総裁選は安倍氏が逆転勝利し、甘利氏は安倍政権で経済再生相を連続4期務めるなど重用され、安倍氏、麻生氏と並んで「3A」と呼ばれるようになった。もっとも、党内には「3Aという呼び方を一番吹聴していたのは甘利本人。総理、副総理と同格であるかのように印象づける自己宣伝が巧みだった」(閣僚経験者)との冷ややかな見方もある。

転んでもただでは起きない

 出世を重ねて絶頂にあった甘利氏だが、2014年のUR都市機構をめぐる口利き疑惑で転落する。

「秘書のせいにはしたくない」という“涙の会見”で大臣を辞任すると、「睡眠障害」を理由に半年近く国会を欠席、姿をくらませた。

 追い打ちを掛けたのが、甘利氏をかばっていた当時の安倍首相が、後任の経済再生相に甘利氏が追い落とした石原氏を起用したことだ。甘利氏が失脚し、代わって石原氏を復権させたのである。

「石原さんに勝ったつもりだった甘利さんにすれば、この人事は屈辱だったはずです。権力者の非情さを思い知らされたのではないか」

 甘利氏に近い議員からは同情する声が上がった。

 しかし、転んでもただでは起きなかった。復権を目指す甘利氏は、今度は甘利グループの子分4人を連れて派閥拡大をはかる麻生派に入会する。「安倍側近」から「麻生側近」へと主を代えた。

 それを機に、麻生氏の後押しで党行革推進本部長、選対委員長、党税調会長と再び出世の階段に戻ることができた。

 そしていま、岸田政権で幹事長として権力を握るやいなや、安倍氏の力を削ぐことで過去の“屈辱”を晴らし、恩人で盟友でもあった麻生氏の棚上げをはかって麻生派の跡目に手をかけるところまできた。

 甘利明という政治家には、裏切り、寝返り何でもありの権力闘争の修羅場をくぐり抜けたしたたかさ、狡猾さをいかんなく見せつけられる。

※週刊ポスト2021年10月29日号

衆院解散、総選挙へ=異例の短期決戦―19日公示、31日投開票

2021-10-14
© 時事通信 提供 衆院解散について、記者団の質問に答える岸田文雄首相=14日午前、首相官邸
© 時事通信 提供 臨時閣議に臨む岸田文雄首相(中央)=14日午前、首相官邸
衆院は14日午後の本会議で解散される。
政府は続く臨時閣議で衆院選を「19日公示―31日投開票」とする日程を正式決定する。
新型コロナウイルス対策やコロナ禍で疲弊した経済の立て直しが争点となる。
2012年12月から約9年の長期に及んだ安倍・菅政権への評価も問われそうだ。

闘いすんで 陽が暮れて・・・

昭和天皇の御巡幸 戦後全国を御巡幸された陛下。

2021-11-25
Facebook 上野不二子 さん曰く、親しみやすい笑顔が印象的ですね。

勝新太郎さんと田宮二郎さんというより、「悪名」の二人・・・。

2021-11-22
Facebook 石山 裕子さん曰く、勝さんお若いです。田宮さんカッコいいです。

ジョニーという生き方

2021-11-25
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く

日曜日も 終わりそうね

2021-11-11
Facebook Nostalgia&Rock'n’ Roll ノスタルジア・ロックンロールさん曰く
日本です。新婚旅行です。ディマジオがいっしょでした。
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