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闘いの歴史

闘いの記録

土門拳の『ヒロシマ』

2020-09-20
http://www.domonken-kinenkan.jp/domonken/hiroshima/
昭和32(1957)年、原爆投下から12年を経て初めて広島に行った土門拳は、その実態をまのあたりにし、あらためて原爆被害の深刻さに衝撃を受けました。
報道写真家としての使命感に強く駆られ、広島に通い詰めた土門は、原爆病院の患者たちをはじめ、被爆者たちの悲惨な日々、「魔の爪跡」を約7,800コマのフィルムに記録しています。
写真集『ヒロシマ』(研光社)は、昭和33(1958)年刊行され、日本はもとより、広く海外でも反響を呼びました。
また、さらに10年後、広島を再訪し、後遺症に苦しむ被爆者を追った『憎悪と失意の日日−ヒロシマはつづいている』を発表。土門拳のドキュメントの傑作となっています。

闘いの転機

国軍の礎

2020-11-28
Facebook英霊の本日の出来事の投稿

明治5年11月28日の本日、徴兵の詔書が渙發されました。

明治5年2月に山縣有朋が陸軍大輔となり、11月に山縣の徴兵論が採用されて「全國徴兵の詔」が發せられました。

徴兵の詔書
「朕惟ルニ古昔郡縣ノ制全國ノ丁壮ヲ募リ軍團ヲ設ケ以テ國家ヲ保護ス固ヨリ兵農ノ分ナシ中世以降兵権武門ニ帰シ兵農始テ分レ遂ニ封建ノ治ヲ成ス戊辰ノ一新ハ実ニ千有余年来ノ一大変革ナリ此際ニ當リ海陸兵制モ亦時ニ従ヒ宜ヲ制セサルヘカラス今本邦古昔ノ制ニ基キ海外各國ノ式ヲ斟酌シ全國募兵ノ法ヲ設ケ國家保護ノ基ヲ立ント欲ス汝百官有司厚ク朕カ意ヲ體シ普ク之ヲ全國ニ告諭セヨ
明治五年壬申十一月二十八日」

徴兵告諭
「我 朝上古ノ制海内挙テ兵ナラサルハナシ、有事ノ日、天子之カ元帥トナリ丁壮兵役ニ堪ユル者ヲ募リ以テ不服ヲ征ス。
役ヲ解キ家ニ帰レハ農タリ工タリ又商賣タリ、固ヨリ後世ノ双刀ヲ帯ヒ武士ト称シ抗顔坐食シ、甚シキニ至テハ人ヲ殺シ官其罪ヲ問ハサル者ノ如キニ非ス。
抑、神武天皇珍彦ヲ以テ葛城ノ國造トナセシヨリ爾後、軍團ヲ設ケ衛士防人ノ制ヲ定メ神亀天平ノ際ニ至リ六府二鎮ノ設ケ始テ備ル。
保元平治以後、朝綱頽弛兵権終ニ武門ノ手ニ墜チ、國ハ封建ノ勢ヲ為シ人ハ兵農ノ別ヲ為ス。
降テ後世ニ至リ、名分全ク泯没シ、其弊勝テ言フ可カラス。
然ルニ太政維新列藩版図ヲ奉還シ辛未ノ歳ニ及ヒ、遠ク郡縣ノ古ニ復ス。
世襲坐食ノ士ハ其禄ヲ減ジ刀剣ヲ脱スルヲ許シ四民漸ク自由ノ権ヲ得セシメントス。
是レ上下ヲ平均シ人権ヲ斉一ニスル道ニシテ、則チ兵農ヲ合一ニスル基ナリ。
是ニ於テ士ハ従前ノ士ニ非ス民ハ従前ノ民ニアラス均シク皇國一般ノ民ニシテ國ニ報スルノ道モ固ヨリ其別ナカルヘシ。
凡ソ天地ノ間、一事一物トシテ税アラサルハナシ以テ國用ニ允ツ。
然ラハ則チ人タルモノ固ョリ心力ヲ尽シ國ニ報ヒサルヘカラス。
西人之ヲ称シテ、血税ト云フ。
其生血ヲ以テ國ニ報スルノ謂ナリ、且ツ國家ニ災害アレハ、人々其災害ノ一分ヲ受サルヲ得ス。
是故ニ人々心力ヲ尽シ國家ノ災害ヲ防クハ則チ自己ノ災害ヲ防クノ基タルヲ知ルヘシ。
苟モ國アレハ則チ兵備アリ、兵備アレハ則チ人々其役ニ就カサルヲ得ス。
是ニ由テ之ヲ観レハ、民兵ノ法タル固ヨリ天然ノ理ニシテ、偶然作意法ニ非ス。
然而シテ其制ノ如キハ、古今ヲ斟酌シ時ト宜ヲ制セサルヘカラス。
西洋諸國数百年来研究実践以テ兵制ヲ定ム故ヲ以テ、其法、極メテ精密ナリ。
然レトモ政體地理ノ異ナル悉ク之ヲ用フ可カラス。
故ニ今其長スル所ヲ取リ、古昔ノ軍制ヲ補ヒ、海陸二軍ヲ備ヘ全國四民男児二十歳ニ至ル者ハ尽ク兵籍ニ編入シ、以テ緩急ノ用ニ備フヘシ。
郷長里正厚ク此 御趣意ヲ奉シ徴兵令ニ依リ民庶ヲ説諭シ、國家保護ノ大本ヲ知ラシムヘキモノ也
明治五年壬申十一月二十八日 」

非核三原則

2020-11-28
佐藤首相の答弁
Facebook佐々木信雄さんの投稿
1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。
佐藤は退陣後の1974(s49)年に、これらの非核三原則の制定などが評価されてノーベル平和賞を受賞している。

長期政権ということ

2020-11-28
佐藤政権の場合
Facebook佐々木信雄さんの投稿

20th Century Chronicle 1964年(s39)】

◎佐藤長期政権 始まる

*1964.11.9/ 佐藤内閣が発足する。

 1964(s39)年11月9日、退陣を表明した池田勇人内閣に代わって、佐藤栄作が指名され、内閣総理大臣に就任した。「所得倍増計画」を旗印に経済成長を推進してきた池田首相は、倍増10ヵ年計画の半分にも満たない時期に、ほぼその達成の目途が立ち、日本の高度成長のシンボルともなった64年東京オリンピックが成功裏に閉会した翌日、病にたおれ退陣を表明した。

 

 その3ヵ月前の8月、佐藤栄作は池田勇人との熾烈な自民党総裁選挙に惜敗したところであったが、病床の池田の指名をうけて佐藤内閣が誕生した。名神高速・新幹線・東京五輪などの大プロジェクトを剛腕で仕切った河野一郎が、後継の筆頭候補であったが、吉田茂、岸信介など重鎮の意向で佐藤にお鉢が回って来たと言われる。河野はその翌年、突発死してしまう。

 

 佐藤内閣は、結果的に7年8ヵ月におよぶ長期政権となり、その在任中には、ILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)批准・日韓基本条約の批准・国民祝日法改正による敬老の日 体育の日 建国記念の日の制定・公害対策基本法の制定・小笠原諸島および沖縄の返還実現・日米安全保障条約(70年安保)自動延長・日米繊維摩擦の解決・内閣総理大臣顕彰制定など、多くの実績を残した。

 

 また、1967年12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明した。佐藤は退陣後の1974(s49)年に、これらの非核三原則の制定などが評価されてノーベル平和賞を受賞している。

 

 しかし後年になってから、沖縄への核持ち込みに関する密約が明らかになったし、また佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたこと明るみに出るなど、平和賞受賞の根拠が疑われる事態が判明し、後年にノルウェーのノーベル平和賞委員会が刊行した記念誌のなかでも、「佐藤氏は核武装に反対ではなく、佐藤氏を選んだことは最大の誤り」と批判されている。

 

 佐藤栄作首相は、実兄の岸信介元首相とは対照的に、「待ちの政治」と呼ばれたスタイルで、ひたすら事態が成熟するのを待つ我慢の政治で、憲法改正を懸案としていた兄の岸が、一向に憲法問題に触れようとしない佐藤に、いらだっていたという話しもある。

 

 ライバルであった河野一郎のような剛腕で、政治世界を仕切っていくような華やかさもなく、一方で、政権は「黒い霧事件」といったスキャンダルに見舞われながら、必ずしも政権支持率は高かったわけでもないのに、まれにみる7年8ヵ月もの長期政権を続けた。

 

 吉田門下で一番のライバルであった池田勇人は、佐藤に先んじて首相になったが、病にたおれて佐藤に政権をゆずる。党人派の大物、大野伴睦や河野一郎も、相次いで死去。ライバル不在のもと、次世代の田中角栄・福田赳夫・三木武夫・大平正芳などを、互いに競わせ育成するという、佐藤流人事掌握術で政権の求心力を維持し続けた。

 

 そして何よりも長期の安定政権を支えたものは、「昭和元禄」などと呼ばれた、高度経済成長であった。池田の経済重視路線を批判していたにもかかわらず、自身の政権期には、皮肉にも池田時代以上に経済は拡大したのだった。極端な言い方をすれば、「何もしない」でもうまくいく時代背景でもあったのである。

 

(この年の出来事)

*1964.3.24/ ライシャワー駐日米大使が、大使館前で少年に刺される。輸血がもとで血清肝炎に感染、「黄色い血」が問題となる。

*1964.4.5/ 米海軍ジェット機が町田市の商店街に墜落、市民4名が死亡。

*1964.8.2/ 北ベトナム軍がトンキン湾で米軍間を攻撃、米空軍が報復爆撃に出動、ベトナム戦争が急拡大する。(トンキン湾事件)

*1964.9.23/ 巨人軍の王貞治選手が、年間本塁打55本の日本新記録を樹立する。

*1964.1014/ ソ連最高会議とソ連共産党中央委員会が、フルシチョフ首相兼党第1書記を解任する。

*1964.1016/ 中国が、初の原爆実験に成功する。

*1964.11.12/ 米原子力潜水艦の佐世保入港し、13日反対デモが警官隊と衝突。

遺された者

2020-11-26
川端、石原、三輪
その日の現場
その現場周辺には、様々な人物がやって来ていた。  
 ある鑑識課員は、総監室へ通じる廊下の中程に、呆然とたたずむ石原慎太郎を目撃している。
「ひとり、ぼうっと立っているんだよ。
 あれは、裕次郎じゃない、慎太郎だったよ。
 総監室に入ることもできずに、そこにぽつんと立っているしかできなかったんだろう」
 さらに鑑識作業中には、階下の玄関ホールのあたりから、男性の叫び声が総監室まで聞こえてきたという。
 川端康成だった。
 事件が報じられて駆けつけたのだろう。
 とにかく、なにかを叫んでいたという。

狭山事件ということ

2020-11-24
部落差別ということ
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1963年(s38)】
◎狭山女子高生殺人事件
*1963.51/ 埼玉県狭山市で女子高校生が誘拐殺害され、被差別部落出身の青年が逮捕される。(狭山事件)
 1963(s38)年5月1日に埼玉県狭山市で、高校1年生中田善枝(16)が帰宅せず、その夕刻には身代金を要求する脅迫状が届いた。警察は誘拐事件と断定し、翌2日夜、身代金受け渡し場所に多数の警察官を配備したが、現れた犯人を取り逃がしてしまう。3日には大掛かりな山狩り捜査を開始し、4日の朝、農道に埋められている被害者少女の死体が発見された。
 埼玉県警は165名からなる特別捜査本部を発足させ、狭山市内の被差別部落の重点捜査で、5月23日、同部落の石川一雄(24)を傷害や暴行や窃盗などの容疑で別件逮捕する。勾留中に女子高校生殺しの容疑で厳しい追及で自白を引き出し、強盗殺人・死体遺棄などで起訴。1964(s39)年3月、浦和地裁は半年の審理で死刑判決を下した。
 石川被告は控訴し、同年9月、東京高裁での控訴審で被告は、自白は警察の誘導によるものとし犯行を全面的に否認、弁護団は自白と客観的事実との不一致を指摘した。1974(s49)年10月、東京高裁は原判決を破棄し、無期懲役の有罪判決を下した。被告による上告は1977(s52)年8月最高裁により却下され、無期懲役が確定した。
 しかし石川一雄が被差別部落の出身であることから、本事件は部落差別との関係を問われ、部落解放同盟や部落解放同盟全国連合会などの部落解放運動団体や、中核派・革労協・社青同解放派などの新左翼党派や、一般市民団体などが、部落差別による冤罪事件として、支援活動を展開した。
 弁護団はただちに東京高裁に再審を請求、棄却決定に対し最高裁に特別抗告を行うが、1985年5月棄却された。その後も第2次、第3次と再審請求を行っているが、その間の1994(h6)年12月、石川服役囚は31年7ヵ月ぶりに仮出獄している。
(この年の出来事)
*1962.3.31/ 東京都台東区で4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、7月に容疑者が犯行を自供し、遺体が見つかる。 
*1962.6.5/ 関西電力の黒部川第4発電所ダムが完成する。
*1963.7.16/ 名神高速道路が、日本最初の高速道路として、栗東IC - 尼崎ICの間で開通する。
*1962.9.5/ 東京の地下鉄銀座線京橋駅で時限爆弾が爆発、「草加次郎」の犯行とされる。 
*1962.11.9/ 横浜市鶴見区の東海道本線で、列車の2重衝突事故が起こり、死者161人を出す大惨事となる。(鶴見事故)
*1962.11.9/ 福岡大牟田市の三井三池炭鉱で、炭塵爆発が起こり死者458人を出す。
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