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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

後鳥羽上皇

2022-11-04
三種の神器のない天皇即位
歴史探偵「後鳥羽上皇と承久の乱」

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で北条義時の前に立ちはだかる後鳥羽上皇。武士が台頭する時代に「正統な君主」であることを求め続けた。弓術や蹴鞠(けまり)などあらゆる分野で頂点を極めた「最強」の上皇の実態を徹底調査!なぜ後鳥羽上皇は頂点を極めようとしたのか?浮かび上がったのは、生涯抱え続けたコンプレックス。朝廷と幕府が全面対決した前代未聞の事件「承久の乱」を起こした後鳥羽上皇の波乱に満ちた生涯に迫る!


三種の神器
宝剣喪失!!
1185年の壇ノ浦の戦いでは、源氏が平氏を滅ぼし三種の神器を簒奪(さんだつ)しようと試みるも、劔は海に沈んでしまいます。
ただし、この時なくなったのは草薙劔の写しであり、本体は熱田神宮に祀られていたようです。 

―後鳥羽上皇 vs 鎌倉北条氏―

京都文化博物館

  • 開催期間:2021年4月6日(火)〜2021年5月23日(日)

104歳の元陸軍兵、地獄の戦場で「命も感情も失った」…姉の死に涙も出ず

2022-10-21
読売新聞 2022/10/21 16:22

太平洋戦争の激戦地だった東部ニューギニア(現パプアニューギニア)で終戦を迎えた104歳の元陸軍兵士が、新型コロナウイルス禍で中断していた体験を語る取り組みを再開させた。長崎県長与町の中野清香(きよか)さん。戦友会で自分以外は全員鬼籍に入った。ロシアによるウクライナ侵略での攻撃が激化する中、「命だけでなく、人間の感情も奪う戦争の悲惨さを伝えたい」との思いを強くしている。(勢島康士朗、後田ひろえ)

 16日、市民団体が企画したオンライン講話で、中野さんは自宅から、全国各地で視聴する約40人に向けて体験を語り始めた。1944年夏、日本軍がニューギニア島の米豪連合軍を攻撃し、大敗を喫した「アイタペ作戦」。食糧も弾薬も尽き、犠牲者は約8000人に上ったとされる。

 毛虫やイナゴ、カニを生で食べて下痢を繰り返し、栄養失調の戦友が次々と倒れた。苦しさに耐えきれずに自殺する人もいた。倒れた兵士を助け起こす者は誰もいない。中野さんは逃げ込んだ小屋でウジ虫のわいた日本兵の遺体と一晩をともにした。「死臭も何も感じなくなり、『かわいそう』などの喜怒哀楽もなくなっていた」。画面の向こうの人たちに、震える声で明かした。

◇  鹿児島県薩摩川内市・甑(こしき)島出身。大工だったこともあり、入隊後、道路や橋を造る工兵となった。43年4月、日本から約5000キロ離れたニューギニア島に上陸した。

 島に着いて間もなく、輸送船から下船準備中、敵機の機銃掃射を受けた。近くでさく裂する弾をよけて海に飛び込み、泳いで振り返ると船は沈没していた。アメーバ赤痢に感染して40日間、高熱や下痢に苦しんだ。丸腰で偵察中にジャングルで敵と遭遇し、伏せた頭の上を弾がかすめていったこともある。

 当時、東部ニューギニアに投入された日本軍兵士約15万人のうち約13万人が犠牲となり、その多くは飢えや病気で命を落とした。「銃弾に当たって死ねるなら本望」とさえ思った。

 26歳の頃、「たこつぼ」と呼ばれた1人用の壕(ごう)の中で終戦を知った。たった20発の銃弾を携え、銃を手に敵を待っていた時だった。46年に復員。姉が子ども2人を残して病気で亡くなったが、悲しい気持ちが湧くことはなく、涙も出なかった。毎日のように仲間が死んでいく戦争で感覚がまひしていた。

◇  戦後は再び大工として働き、90年頃から戦死した仲間を弔いたいと現地を訪ね、慰霊や遺骨収集をするようになった。鉄かぶとをつけたままの頭蓋骨を目にした。頭を貫通した銃弾は鉄かぶと後部にのめり込んでいた。東部ニューギニアでの戦争について調べ、戦友らから手記を集めて記録を作るうち、「戦場で起きたことを伝えていくことが、生き残った者の務めだ」と考えるようになった。

 10年ほど前から市民向けに講話をしたり、自宅を訪ねてくる大学生に体験を話したりしてきた。ただ、コロナ禍によって人前で語る機会はほとんどなくなった。昨年末には心筋梗塞(こうそく)を患い、2か月ほどの入院を余儀なくされた。

 そんな中、ロシアのウクライナ侵略が始まった。焼け跡となった街並みのニュース映像を見ていると、戦争体験が脳裏によみがえった。「ウクライナの人たちは、かつての自分のように、心が殺されてしまっているのではないか」と胸を痛めた。

 通っている高齢者施設で9月、体験を語った。市民団体「戦場体験放映保存の会」(東京)の呼びかけで今月16日のオンライン講話も実現した。

 「戦争とは『人間の限界』だ。戦争と平和について多くの人が意識している今こそ、体験を聞くことで戦争がいかに悲惨か知ってほしい」と話す。機会があればこれからも伝え続けるつもりだ。

後白河院

2022-11-16
寵愛したのは時子(平清盛の正室)の妹滋子

第七十七代後白河天皇は保元三年(1158)に皇位を皇子の二条天皇にお譲りになり、法住寺の地を院の御所と定められて応保元年(1161)に新造御所にお遷りになりました。この法住寺殿へは、二条天皇をはじめとして朝覲行幸(天皇の念頭の挨拶)が年々行われました。特に皇子の高倉天皇(母は女御の平滋子、のちの建春門院)はよく行いました。また、高倉天皇の中宮の平徳子(建礼門院、清盛と時子の子)が入内したのもこの御所からでありました。

二頭政治と法住寺殿造営

後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」二頭政治が行われた(『愚管抄』)。蔵人頭・中山忠親の『山槐記』によると、国政の案件は後白河院と二条帝に奏上され、前関白藤原忠通が諮問に答える形で処理されていた。永暦元年(1160年)10月になると、後白河院は焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる。六波羅の南、東七条末の地には、摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、信西の邸(平治の乱で焼失)や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。造営は播磨に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊したことから、多くの人々の恨みを買ったという(『山槐記』永暦2年4月13日条)。

10月16日、後白河院は法住寺殿の鎮守として日吉社熊野社を勧請する。これについて『今鏡』は「神仏の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御こころざしなるべし」としている。新日吉社は、競馬流鏑馬など武士の武芸が開催される場となり、新熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となった。17日に早速、勧請したばかりの新熊野社に参籠して、23日、初めての熊野詣に出発する。この参詣には清盛も同行している。熊野詣は以後34回にも及んだ(実際に記録で確認できるのは28回)。熊野詣の最中の11月23日、美福門院が崩御した(『山槐記』同日条)。即位以来、美福門院派との協調に神経を遣っていた後白河にとっては束縛からの解放であり、二条を抑えて政治の主導権を握ることも夢ではなくなった。法住寺殿の造営も順調に進み、永暦2年(1161年)4月13日、完成した御所に移り住んだ(『山槐記』同日条)。

二条親政派にとって、後ろ盾の美福門院を失ったことは大きな打撃だった。一方「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、後白河院が政務を執ることに不安を抱き、否定的な見解をする者が少なくなかった。後白河院には芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄で、その支持基盤は必ずしも強固なものではなかった。後白河院の寵愛は、もっぱら上西門院の女房・小弁局(平滋子)にあり、皇后・忻子や女御・琮子は全く無視されていた。三条公教(琮子の父)・徳大寺公能(忻子の父)も相次いで死去しており、後白河院と閑院流の関係は疎遠になっていたと考えられる。この時期の状況として『平家物語』には「院の近習者をば、内よりいましめあり。内の近習者をば、院よりいましめらるるの間、上下おそれをののいて、やすい心なし。ただ深淵にのぞむで、薄氷をふむに同じ」とあり、両派の緊張関係がうかがえる。

こうも次々だと・・・・。

2022-10-06
2022.10.06、『読売新聞』朝刊

· バルジ大作戦の古いポスター

2022-10-02
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