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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

軍靴の足音・・・

2020-10-03
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1918年(t7)
◎初の本格的政党内閣 政友会原敬首相が誕生
*1918.9.29/ 初の政党内閣、政友会原敬首相が誕生。「平民宰相」と呼ばれる。
 米騒動で寺内内閣が退陣すると、元老たちはもはや官僚内閣では世論の支持を得ることができないと考え、衆議院の第一党である立憲政友会総裁の「原敬」を後継の首相に推薦し、1918(大7)年9月29日、原内閣が成立した。原は爵位をもたず、藩閥政治家でもなく、最初の衆議院に議席をおく内閣総理大臣だったので、平民宰相と呼ばれた。しかも原内閣は、大半の全閣僚が立憲政友会会員からなる本格的「政党内閣」だったので、国民から歓迎された。
 原敬首相は世論の追い風をうけて、指導力を発揮して党内の統制をはかり、教育施設の拡充・交通機関の整備・産業の振興・国防の充実という積極政策を推進した。さらに、1919(大8)年、選挙法を改正、選挙資格を直接国税3円以上にまで広げ、大選挙区制から小選挙区制に改め、翌年の総選挙で立憲政友会は衆議院の圧倒的多数の議席を制した。
 「平民宰相」は原の代名詞ともなって国民から人気を集めたが、実はかつて、爵位授与を何度も得ようと動いた痕跡もある。しかし明治から大正になり時代の風潮も変ると、原自身が「平民政治家」であることを意識するようになり、政友会幹部として自信を深めるにつれて、爵位辞退を一貫して表明するようになったとのことである。
 しかし、1920(大9)年の恐慌によって原内閣の積極政策は行き詰まった。そして、政友会の党勢拡張により、利権をめぐって汚職事件が発生するなど、多数党の腐敗と横暴を非難する声が盛んになり、納税資格を撤廃した「普通選挙」(男性のみ)の実現を要求する運動がしだいに活発になった。
 議会では、護憲運動の闘士 尾崎行雄や犬養毅らが普選実施を政府に迫り、普選実施の主張は野党である憲政会や国民党のスローガンにも取り入れられていった。しかし、原首相と立憲政友会は、すぐに普通選挙を実施するのは時期尚早であるとして反対、社会運動にも冷淡な態度をとったため、原の平民宰相というイメージを損なわれていった。
 1921(大10)年11月4日、原敬は、関西に向かうため東京駅に到着した直後、国鉄の転轍手に襲われ、ほぼ即死する(原敬暗殺事件)。犯人によると、原首相が政商や財閥中心の政治を行い一連の疑獄事件が起きたと考え、普通選挙法に反対したことなど、反動的な政治家と見なしたのが原因だという。
 なお、選挙結果をへた衆議院第一党の党首が内閣総理大臣に指名されるのは、1924(大13)年の憲政会の「加藤高明」内閣からである。実際には選挙結果をみて元老西園寺公望が指名したのであり、憲法で議院内閣制が規定されてはいないが、以降は「憲政の常道」として、慣行的に議院内閣制が行われた。加藤は内閣を組織すると、選挙公約であった「普通選挙法」を成立させた。
(この年の出来事) 
*1918.1.8/ ウィルソン米大統領が、議会で「平和のための14ヵ条」をしめし、第一次大戦の終結を提唱。
*1918.5.1/ ゼネラル・モータース社(GM)がシボレー社を合併、フォード社に対抗してシェアを一気に高める。
*1918.7.17/ 元ロシア皇帝ニコライ2世一家全員が、エカテリンブルグで銃殺される。
*1918.11.3/ キール軍港で水平が反乱を起こす。それをきっかけに、ドイツ各地に労兵協議会成立。続いてドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツ革命が成立する。
*1918.11.11/ ドイツ政府が連合国との休戦条約に調印、第一次世界大戦が終わる。

ジミー・ドゥリットル

2020-09-30
日本本土に爆弾落っことして、中国大陸まで飛んでった人だけれど、その後ヨーロッパで第八空軍の司令官やってます。
ロッキードの「高価過ぎる戦闘機」で形作った戦爆連合を「より安価でより優れた戦闘機」で完成させた御仁

75年経ち、建物は風化が進んでいます。

2020-09-30
只今、修復・現況保全中です。
その惨禍は、絶対繰り返してはなりません!

傀儡国家という時代

2020-09-30
満州国皇帝 愛新覚羅溥儀
東京駅ホームにて
君主への拝謁
名代を出迎え

愛新覚羅溥儀と溥傑

2020-09-30
満州国皇帝とその弟君
溥儀
溥傑
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