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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

暗黒の時代

2020-10-10
1923.9.16/ アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らが、憲兵大尉甘粕正彦に殺害される。
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【20th Century Chronicle 1923年(t12)】
◎アナーキスト大杉栄殺害(甘粕事件)
*1923.9.16/ アナーキスト大杉栄、伊藤野枝らが、憲兵大尉甘粕正彦に殺害される。
 関東大震災直後の混乱下にある1923(大12)年9月16日、アナーキストの「大杉栄」と内縁の妻「伊藤野枝」が、大杉の6歳の甥と共に、不意打ちで憲兵隊特高に連行された。やがて、憲兵隊司令部で憲兵によって拷問の末、絞殺され、同本部裏の古井戸から遺体が見つかった。
 軍法会議では、憲兵大尉分隊長「甘粕正彦」と部下らによる犯行と断定された。甘粕大尉は、すべて自分の一存で実行したと証言した。憲兵隊の上層らの組織的関与が疑われたが、軍法会議は事件の背後関係には立ち入らず、甘粕大尉を首謀者として懲役10年、部下らも軽微な刑で判決が下され、裁判は早々に幕が引かれた。
 関東大震災における戒厳令下で、どさくさに紛れて、反政府主義者らの不法な虐殺事件が頻発した。震災直後には、東京府の亀戸で、社会主義者の川合義虎ら10名が亀戸警察署に捕らえられ、軍の手で殺害される事件があり、続いて、上記の甘粕事件が引き起こされた。
 さらに3年後の1926(大15)年には、第二の大逆事件と言われた「朴烈事件」があり、無政府主義者 朴烈(パク・ヨル/ぼく・れつ)とその愛人金子文子が、治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙された。このように、震災後の社会不安の世情に乗じて、官憲による思想弾圧は一気に強化されていった。
 甘粕正彦は10年の刑を受けたが、3年後には仮釈放され予備役となり、陸軍の予算でフランスに留学するなど厚遇された。これには、甘粕が、反社会的な人物を自身の責任で処断し、その責任を独りで背負ったとして、「国士」として称賛する庶民の評価が寄与したと考えられる。ただしそれも、軍関係者などから作り上げられた世論という側面も否めない。
 フランスから帰国後、満州に渡り、南満州鉄道経済調査局員となると、さらに奉天の関東軍特務機関の指揮下で情報・謀略工作を行うようになり、右翼団体のメンバーの一部を配下として、甘粕機関という民間特務機関を設立。また満州の国策としての阿片ビジネスをも仕切る。
 1931(昭6)年9月の柳条湖事件に連動して、ハルピン出兵の口実作りに爆破事件を起こすなど、特務工作に従事。また、幽閉中の清朝最後の皇帝 愛新覚羅溥儀を脱出させ、満州国皇帝に擁立する準備工作にも関わった。これら満州国建国に関する様々な謀略の親玉として暗躍した働きの為、満州国建国後には、警察庁長官に抜擢され、表舞台に登場する。
映画『ラストエンペラー』 (1987/ベルナルド・ベルトルッチ) *坂本龍一が「甘粕元大尉」として出演している  https://movies.yahoo.co.jp/.../%E3%83%A9%E3%82%B9.../24562/
 さらには、甘粕正彦は「満洲映画協会(満映)」の理事長となる。満映は、満州人に対するプロパガンダとして、文化映画や啓蒙的な映画、プロパガンダ映画を多く創った。甘粕の理事長への抜擢は、軍部の満映支配と恐れられたが、甘粕はむしろ満映の自立運営やスタッフ待遇の改善などに、毅然と対処したため、満映関係者からは慕われたらしい。
 満映の理事長職は、いわば表の顔であり、満州時代の甘粕は、日本政府の意を受けて満州国を陰で支配していたとも言われる。しかし、甘粕はその硬骨漢ぶりと言動ゆえに関東軍には煙たがられ、むしろ冷遇されていたとされる。1945年(昭和20年)、日本が降伏し、ソ連軍が新京に迫りくる中、満映の閉所処理をきちんと済ませた後、20日早朝、甘粕は独りで服毒自殺した。
 甘粕事件で惨殺された「大杉栄」は、その性格として「強情・我儘」や「傲岸・不遜」といった言葉が並ぶが、良くも悪くも、自由奔放で天真爛漫な性格であったと思われる。その生来の性格に、社会的な理屈を付ければ「アナーキズム(無政府主義)」となり、個人生活面では「自由恋愛論」となる。
 女性関係にはかなりデタラメであり、それを「自由恋愛」と呼んだに過ぎないという側面もある。大杉は、堺利彦の義妹で婚約者のいた堀保子を、強引に犯して結婚する。だが、大杉は保子と入籍せず、「神近市子」に近づき、さ0らに「伊藤野枝」とも愛人関係となって、野枝は長女魔子を身ごもった。これら女性達からは常に経済的援助を受けており、とりわけ献身的に大杉に尽くした神近市子は、野枝との関係に嫉妬し、大杉に瀕死の重傷を負わせる「日蔭茶屋事件」を起こした。
 「自由奔放」と言えば、大杉と共に惨殺された「伊藤野枝」は、大杉以上に奔放な生涯を送った。野枝に関しては、別に触れたことがある。http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20170422
『甘粕大尉』(ちくま文庫/2005/角田房子著) https://www.amazon.co.jp/%E7%94%98%E7%B2%95.../dp/4480420398
(この年の出来事)
*1923.1._/ 菊池寛が月刊雑誌『文藝春秋』を創刊。
*1923.1.14/ イタリア国王が、「ファシスト国防義勇軍(黒シャツ隊)」を国防軍と正式認可。
*1923.6.5/ 早大軍研事件の捜査で発覚した共産主義者名簿から、堺利彦、徳田球一らが逮捕され、つづいて80人余の共産主義者が一斉検挙される。
*1923.6.5/ ドイツのインフレが天文学的数字に。独中央銀行総裁が、マルク通貨維持にお手上げ宣言。
*1923.6.9/ 作家有島武郎(46)が、婦人公論の女性記者と心中する。
*1923.9.2/ 朝鮮人アナーキスト朴烈が、妻の金子文子ともに保護検束される。(1926.3.25大逆罪で死刑判決)
*1923.11.8/ ヒトラーがミュンヘンで武装蜂起。バイエルン州政府の転覆を図るが鎮圧される。(ミュンヘン一揆)
*1923.12.27/ アナーキスト難波大輔が、虎ノ門付近で摂政宮皇太子裕仁殿下に発砲。のち、死刑判決を受ける。(虎の門事件)

占領という現実

2020-10-10
ゼネスト中止、断腸呑む思いであります。
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『Get Back! 50's / 1950年(s25)』
(GHQ占領方針の「逆コース})
○6.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、共産党中央委員24人の公職追放を指令する。26日、「アカハタ」の30日間発行停止、7月18日には無期限停止を指令する。
○7.6 マッカーサーが吉田首相宛書簡で、警察予備隊の創設と、海上保安庁の増員を指令する。
○7.24 GHQが新聞協会代表に共産党員と同調者の追放を勧告する。レッドパージが始まる。
○10.13 政府が戦犯覚書該当者を除く1万90人の公職追放を解除する。
 ポツダム宣言受諾による降伏とともに、日本国は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入った。当初、GHQは「日本の民主化・非軍事化」を進めていたが、1947年に日本共産党主導の「二・一ゼネスト」に対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、この対日占領政策は転換された。
 1948年、米の保守的圧力団体「アメリカ対日協議会」が結成されると、戦後日本における「日本の民主化・非軍事化」に逆行する「逆コース」の流れが顕著になった。この方向転換は、1949年の中華人民共和国の誕生、翌1950年の朝鮮戦争勃発によって決定的になる。GHQの施策も「民主化・非軍事化」から「非共産化・保守化」に移り、この意向を受けた第3次吉田内閣は中央集権的な政策を採るようになった。
 GHQは当初、労働運動の確立を必要と考え、労働組合結成を推奨し労組勢力の拡大を容認していた。激しい戦後インフレの下、総同盟・産別会議・全官公労などが結成され、賃上げや待遇改善を要求するデモを行い、全官公庁共闘は「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。この時期労働運動を主導していた日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけではだめでストライキによる内閣打倒を」と演説した。
 1947年年頭には吉田首相の「労働組合不逞の輩」発言などがあり、反発した全官公庁共闘により「二・一ゼネスト」が宣言された。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田内閣に収拾が取れなくなること必至となった。差し迫った実行前日午後4時、マッカーサーの中止指令が発せられた。
 1949年には、下山事件、三鷹事件、松川事件(国鉄三大ミステリー事件)が引き起こされ、事実不明のまま共産党や労働組合関係者の関与が喧伝されるなど、反共・反労働運動プロパガンダ進められ、さらに1950年の朝鮮戦争が勃発すると、GHQによる反共政策が露骨に指示されるようになった。
 そしてこの年には、共産党員を明示的に排除する「レッド・パージ」、公職追放の解除による保守派政財界人の復帰と人材確保、警察予備隊の創設と海上保安庁の増強という後の自衛隊の創設準備、など矢継ぎ早な指示がなされ独立復活後の日本の基本路線を確定した。
*この年
特需景気起こる。/2眼レフカメラ流行/小原豊風・勅使河原蒼風などによる前衛いけばな盛ん/女性の平均寿命が60歳を超える。
【事物】パトロールカー/千円札
【流行語】とんでもハップン/オオ・ミステイク
【歌】水色のワルツ(二葉あき子)/東京キッド(美空ひばり)
【映画】羅生門(黒沢明)/きけわだつみの声(関川秀雄)/自転車泥棒(伊)/白雪姫(米、初のディズニー長編漫画映画)
【本】岩波少年文庫刊行開始/獅子文六「自由学校」(朝日新聞)/大岡昇平「武蔵野夫人」/カミュ「ペスト」

ベニート

2020-10-10
39歳でイタリア史上最年少の首相となった。
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【20th Century Chronicle 1922年(t11)】
◎ムッソリーニ 「ファシスタ党」政権
*1922.10.28/ ムッソリーニがローマに進撃して制圧。ファシスタ党政権を成立させる。
 ベニート・ムッソリーニは、第一次世界大戦前からイタリア社会党に所属し、機関誌編集長として活動したが、第一次大戦に際して積極参戦を主張し除名される。ムッソリーニは志願して従軍し有能な戦士として闘ったが、瀕死の重傷を負って終戦をむかえる。1919年3月、ミラノで、自身と同じ復員軍人や旧参戦論者を中心とする新たな政党「イタリア戦闘者ファッシ(戦闘ファッシ)」を設立するが、社会主義的残滓を捨てられず、一般民衆の支持を得ることはできなかった。
 やがてムッソリーニは、綱領から社会主義的な表現を一掃、民族主義を前面に出し、愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリアといった情緒的な表現であおり、反議会主義、反社会主義を鮮明にした。ムッソリーニの主張は、戦後に頻発した社会主義者によるストライキや労働運動に、強い不安を抱いていた保守層の支持を集めた。
 北イタリアで復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵祖組織が作られ、社会主義者に暴力的に対抗するようになると、ムッソリーニは襲撃隊を実動行動組織として傘下に収めた。1921年10月、「国家ファシスト党(PNF)」を結成、ファシスト運動を政党化し、また各地の実力行動隊も党の私兵組織として糾合され、「黒シャツ隊」と呼ばれる様になった。
 ムッソリーニは民族主義・国家主義を掲げる政権を打ち立てるべくクーデターの準備を始め、1922年10月28日に黒シャツ隊を中心としたファシスト党員4万人がローマ進軍を決行した。ムッソリーニ自身はミラノで事態を見守っていたが、国王ビットーリオ・エマヌエーレ3世は、無策のルイージ・ファクタ政権をみかぎり、ムッソリーニをローマに召喚し、組閣を命じた。こうしてムッソリーニは政権を奪取することに成功し、39歳でイタリア史上最年少の首相となった。
 ムッソリーニが創設した「ファシスト党」は、その語源から「結束党」などと訳されるが、そこから「ファシズム」という語が派生する。ファシズムというと「全体主義」とほぼ同義で使われるが、本来は一意的に規定しがたい要素を含んでいた。ヒトラーのナチスがファシズムの代表のように受取られているが、ムッソリーニのファシズムとは、かなり異なっている。
 ムッソリーニは、古代ローマの系譜をうけて「イタリア民族主義」を結束の中心に置いたが、そのような歴史的実体をもたないヒトラーは、「アーリア人種主義」という怪しげな概念を持ち出した。このようなヒトラーの脳内に生じた妄想が、優勢人種という架空の概念を際立させるために、劣勢人種ユダヤ人という概念を作り出し、その殲滅をはかった。
 ムッソリーニとってはことは簡単で、「イタリア民族」として結束して事態にあたろうというだけであった。そしてヒトラーが、古代ローマという基盤をもたないことでコンプレックスに突き動かされていると見抜いていた。ヒトラーを、まったく信用していなかったはずである。
 絵描きくずれの粗野な浮浪者だったヒトラーに比べて、ムッソリーニは、その容貌からくるイメージに反して、意外にも深いインテリジェンスをもっていた。師範学校を首席卒業して、イタリア社会党では機関誌編集長として頭角をあらわした。当時のドイツ哲学やフランス哲学を自学し、ドイツ語、フランス語など語学にも堪能で、フランス語教師として雇用されると、歴史学と国語・地理学も担当したという。
 ムッソリーニは演説でも大衆を引き付けたが、絶叫し自己陶酔するヒトラーとは対極的に、愛国心を奥に秘めながら、理路整然と理知的に語り、それでも民衆を熱狂させた。また、国家を統合するために、ファシスト党が全権を握る必要があると考えたが、自身が独裁者になるつもりはなかったという。しかし、ヒトラーが、政権奪取に利用した突撃隊を粛清したのには否定的な見解を漏らし、苛酷な粛清を嫌った。それは「独裁者」としてのムッソリーニにとって、逆に「甘さ」であったかもしれない。
 また、スイスでの放浪時代には、レーニンと知己を得て、誰も理解できないマルクス=レーニン主義の理論を、ほぼ理解したという。そのようなムッソリーニが、やがて独裁者となり、ヒトラーと結んで第二次大戦に参戦し、敗色濃厚となるとパルチザンにつかまり、愛人と共に逆さ吊りして晒されるという終末をむかえることとなる。
『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』 (中公叢書/2000/ロマノ・ヴルピッタ著) https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A0%E3%83%83.../dp/412003089X
映画『ブラック・シャツ 独裁者ムッソリーニを狙え!』(1974年/伊) http://cinema.pia.co.jp/title/800912/
(この年の出来事)
*1922.2.6/ ワシントン軍縮会議が閉会、主力軍艦保有率は英米5:日本3と決まる。
*1922.4.4/ ロシア共産党大会で、新設ポストの書記長にヨセフ・スターリンを選出。あくまでもレーニンの補佐役と思われていた。
*1922.6.6/ 高橋是清内閣が、閣内不統一のため総辞職。元老西園寺公望らが、非政党人の軍人加藤友三郎海相を後継に推薦する。
*1922.11.1/ ケマル・パシャがトルコのスルタン制を廃止。皇帝は国外に亡命し、オスマン帝国が滅亡する。
*1922.11.17/ ドイツの科学者アインシュタインが来日、各地での相対性理論の講演は大盛況。
*1922.12.30/ 第1回全連邦ソビエト大会で「ソビエト社会主義共和国連邦」が成立。ロシア・ウクライナ・白ロシア・ザカフカス、4共和国がソビエト連邦を構成する。

欲かりません、勝つまでは・・・では、とても太刀打ちできませんでした・・・ああ・・・

2020-10-09
D-DAYのため集結する物資を積んだ貨車の群 この物量、精神論で跳ね返せるか

敗戦と戦後の経済復興について

2020-10-04
ドッジ公使着任とシャウプミッション来日
Facebook佐々木信雄さんの投稿
『Get Back! 40's / 1949年(s24)』
(戦後日本経済の健全化)
○3.7 [東京] 米のドッジ公使が、経済9原則の実施に関する声明を発表する。(ドッジライン)
○4.23 [東京] GHQが、円に対する公式為替レート設定の覚書を公布する。(1ドル=360円 固定為替レート制)
○8.26 [東京] 米のシャウプ税制使節団長が、第一次税制改革勧告文概要を発表する。(シャウプ勧告)
 デトロイト銀行頭取ジョゼフ・ドッジが、米政府公使として来日、GHQ経済顧問として、日本経済の自立と安定のために経済安定9原則を提示した。ドッジは当時の日本経済を竹馬にたとえ、片脚は米国の膨大な援助、他方は国の補助金に頼っており、竹馬のように不安定なバランスとなっているとした(竹馬経済)。ドッジ勧告は、次のような項目を含んでいた。
・緊縮財政や復興金融公庫融資の廃止による超均衡予算
・徴税システムの改善
・日銀借入金返済などの債務償還の優先
・複数為替レートの改正による、1ドル=360円の単一為替レートの設定
・戦時統制の緩和、自由競争の促進
 ドッジの勧告に従って、4月23日にはGHQによって円に対する公式為替レート設定の覚書が公布され、以後長く続いた1ドル=360円の固定為替レート制が施行されることになる。8月26日には、カール・シャウプ率いる日本税制使節団(シャウプ使節団)による日本の税制に関する報告書(シャウプ勧告)が公表され、旧来の複雑化した税制を改革し、合理的公平な税体系への移行を示した。
 ドッジラインなどの戦後経済の健全化政策は、極度の戦後インフレを収拾した。とともに、その徹底した緊縮財政政策は、反動的にデフレを進行させ、失業や倒産が相次ぐ「ドッジ不況」(安定恐慌)を引き起こした。しかし翌年の朝鮮戦争勃発により、朝鮮特需と呼ばれる戦時物資や役務の調達に伴う需要が増大し、この特需により奇跡的な不況からの回復を果たした。
 終戦直後の日本は、生産産業の壊滅により、極度の物資不足で急速なインフレーションが進んでいた。喫緊の課題は生産力増強による供給力拡大で、必要最小限な物資の充足を図ることであった。第1次吉田内閣は、「傾斜生産方式」を策定し、鉄鋼、石炭などの基幹産業に資材・資金を超重点的に投入、それを契機に産業全体の拡大を図る経済政策をとった。
 傾斜生産方式は次の片山内閣、芦田内閣でも引き継がれた。それにより鉱工業生産は拡大し、日本経済は復興に向かったが、復興金融金庫による過剰な資金投入になどにより、「復金インフレ」と呼ばれるインフレーションが亢進した。そこへ復興金融金庫融資をめぐる汚職事件「昭電疑獄」が発生し、方向転換をはからざるを得なくなる。
 ドッジラインでは、統制経済色の強い傾斜生産方式から、自由競争経済への方向転換をめざし、緊縮財政により「企業合理化」という名の非効率企業の整理を進めた。引き起こされる一時的な不況も、能率や生産コストの良好な企業に資金が集中することで、国際的に競争力のある産業の生長で克服することを目指した。
 写真はドッジ公使と握手する白洲次郎。日本で最初にジーンズを着こなした男と言われる白洲は、英ケンブリッジ大学留学中に欧米文化になじみ、駐英大使であった吉田茂と知己を得た。戦後、吉田が内閣を組織すると、請われて外交ブレーンとしてGHQとの交渉などで活躍する。ドッジ来日時には「経済安定本部」次長に就任しており、さらに貿易庁長官に就くと、旧商工省を改組し「通商産業省」(現 経済産業省)を設立、のちの高度成長期を支えた通産省の枠組みを確立した。
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