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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

山本五十六の言葉

2022-01-05
Facebook 中野 博美さん曰く
時々思い出している菊池晴彦先生に
教えてもらった山本五十六の言葉。
苦しいこともあるであろう
言いたいこともあるであろう
不満なこともあるであろう
腹の立つこともあるであろう
泣きたいこともあるであろう
これらをぐっとこらえてゆくのが
男の修行である

「西太后」

2022-01-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
「西太后」は、自分の息子及び甥の同治・光緒両帝を、次々と幼帝として即位させ、自身が宮廷内政治の実権を握り続けた。しかし、李鴻章らを重用して進めた「洋務運動」は、日清戦争の敗北で頓挫し、西太后自身の威信も失墜した。
 そんな中で、成人して親政を始めた「光緒帝」は、「康有為」らに主導させて「戊戌の変法」を遂行するが、急激な上からの改革は民衆の支持も得られず、西太后派による宮中クーデターが遂行されると、西太后は光緒帝を幽閉し、政権を再度奪取することに成功した(戊戌の政変)。
 西太后のめざすところは、旧来の清王朝の威信を回復することだけにあった。政権を取り戻した後、西欧の政体をも取り入れようとした光緒帝を廃立しようと企んだが、諸外国の反対などにより実現せず、西太后の意のままにならない列強国の圧力には、憤懣を蓄積させていた。

1951(s26).3.5 無着成恭編「山びこ学校」が刊行される。

2021-12-22
Facebook 佐々木信雄さん曰く
「わたしの文章作法」の原点にあたる話題が含まれるので、再掲します。
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○1951(s26).3.5 無着成恭編「山びこ学校」が刊行される。戦後の生活綴方の復興に影響を与える。
 山形県山元村の若き中学校教師 無着成恭は、「生活綴り方運動」に取り組み、教え子である生徒たちの学級文集『きかんしゃ』などに掲載された生活記録作文をまとめて、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』として刊行した。戦後のアメリカ風理想主義的な教育方針と、貧困な東北山村の現実との矛盾に苦慮した無着成恭は、生活綴方と地域調査の手法によって身近な生活を見つめることから、自治と共同の精神を育成することを目指した。
 「綴り方(作文)」の指導を通じた無着の実践記録は、その生き生きとした生徒たちの生活記録から、新制中学校発足期の地域の生活に根ざした民主教育の方向を示すものとして一躍注目され、ジャーナリズムでとりあげられ、映画化・劇化されるなど広く社会的関心をよんだ。
 「生活綴り方教育」は、大正自由教育運動の中から生まれた。それは、それまでの画一的な教育から解放し、子どもの関心や感動を中心に、より自由で生き生きとした教育を目指すものであった。しかし戦前戦中の軍国体制下で、忠孝の道徳的なものに抑圧されていった。戦後の占領下では、GHQから、綴り方教育はむしろ軍国主義教育を体現したものとして排斥された。
 戦後に推奨されたアメリカ風経験主義に基づく教育は、自身で観察し自分で考えるという自由教育であったが、その手法の確立しないまま教育思想だけが持ち込まれたため、教師たちは困惑していた。そこへ無着成恭が持ち込んだ「山びこ学校」は、かつてからのなじみのある「生活綴り方運動」であり、しかも生活に根ざした戦後日本の民主教育の方向を示すものでもあった。
 教師たちは、これなら自分たちにもできると飛びついた。しかし「山びこ学校」の成功は、無著の個人的な感性と思考に負うところも大であったと思われる。子供たちに、自身で観察し自分で考えさせるのは、そのように抽象的な「指令」をするだけでは可能になるはずもない。
 私自身、昭和三十年代前半を小学生として過ごした。「山びこ学校」の余波からか、授業にはけっこう作文の時間があったし、やたら作文の宿題も課せられた。低学年の時は作文が大の苦手、「今日は良い天気です、明日も良い天気でしょう。おわり」といつも三行で終わってしまう。先生に相談すると「思ったことを素直に書きなさい」という。それならスタンダールの墓碑銘みたいに「起きた、食った、寝た」だけになってしまう。
(注)スタンダールの墓碑銘「VISSE,SCRISSE,AMO(生きた、書いた、恋した)」、さすがに凡人とは違う(笑)
 作文の時間がいやで仕方なかったが、あるときふと、自宅で飼っている猫のことを書き始めた。すると次々と書くことが浮かんできていくらでも書き続けることができる。これに味をしめて、次回の作文も「猫の続き」とかで難なくスルー、そのうち猫の作文が地区の文集掲載作にまで選ばれてしまった。
 毎日、暇をもてあまして猫と遊んでる小学生。猫と戯れながら、いやでも猫のやることを観察している。だからいくらでも生き生きとした猫の様子が書ける。「観察し発見し書く」とはそういうことで、教師の仕事はそれに気付くような適切なアドバイスを送ることだろう。
 もう一つの例。文豪フローベールに、若きモーパッサンは師事していた。フローベールのアトリエに、モーパッサンは毎日同じ石畳の道を歩いて通ってくる。特別な文学の話をするわけでもなく、茶飲み話をして帰るだけの毎日。フローベールがモーパッサンに出した指示はたった一つ「毎日通ってくる石畳の道のことを書け」。かくして、来る日も来る日もモーパッサンは同じ石畳の道のことを書き続けた。その気で観察すると、同じ石畳にも微妙な光線の具合などで、毎回新しい発見がある。ものを書くということを、フローベールは端的にモーパッサンに教えたというわけである。
<追補>
 その後無着成恭は、明星学園の教員から教頭となるとともに、民間の「教育科学研究会・国語部会」のメンバーとして、国語教育の科学的・体系的な日本語指導(言語教育)の確立を進めた。それまでとは異なる、斬新な国語教育法ではあった。というか、それまでまともな国語教育法なんてものは、皆無だったわけだ(笑)
 息子の小学校の担任が、教科研の手法に心酔していたようで、やたらその手法に基づいた課題などを出してくるので、初めて知って少し調べてみた。
 例えば「てふてふが一匹韃靼(だったん)海峡を渡っていった」という安西冬衛の詩を提示して、「この作者の目の位置はどこにあって、どんな蝶々を眺めているのでしょうか、そのようすを絵に描きなさい」などと設問する。さらに「その絵から、そのとき作者はどのような気持ちでいたのか、想像しなさい」という風に進めると、小学校低学年の生徒たちが、大人も顔負けの詩の解析をして見せたりする。
 一種の手品の種明かしみたいだが、この児童たちの解析は、すでに問いかけの構造の中に組み込まれているのだ。だから、生徒たちに特別な読解能力がついたわけではなく、特定の視点を与えずに「この詩について、自由に感想を書きなさい」などと課題を与えると、幼稚な感想でさえ書けないことになる。
 いずれにせよ、国語の教育法とかには、一見もっともらしく見えるが、けっこう胡散くさいものが多い。もとより、読解力をつけるにはやみくもに本を読めばよいし、その必要のない人は読まなければよいと思ってる。
 私が出くわしたした唯一の作文指導法は、「せんせいあのね、」という言葉を頭につけて始めなさい、というだけのものだった。先生に話しかける言葉の延長上で自然に書けるので、きわめて有効なのである。とはいえ、そのまま成長して会社員になってからも「社長あのね、」と報告書出すわけには行かないのである(笑)

■今年日本二十六聖人記念館は、開館60周年を迎えます。

2022-01-02
Facebook 日本二十六聖人記念館さん曰く
 皆様、あけましておめでとうございます。
 二十六聖人記念館は明日3日(月)より通常通り開館いたします。
 今年は、記念館、二十六聖人記念碑、聖フィリッポ教会が建立されて60周年となる記念の年です。
 西坂殉教地として整備され、1962年(昭和37年)6月10日完成記念式典が執り行われました。
 画像は新たに発見されたドキュメンタリー映画「復活の丘」から式典の様子を映した一コマです。
 多くの先人たちの努力により整備された西坂殉教地(巡礼所)に、是非お越しください!
 お待ちいたしております。

◎20世紀が始まる

2022-01-04
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【20th Century Chronicle 1901(m34)年】
◎20世紀が始まる
*1901.1.1/ 近代的教育システムを導入し、新時代を担う学校として創設された慶応義塾大学で、「19世紀・20世紀の送迎会」なる催しが開かれ、新世紀の到来を祝った。
*1901.1.22/ 7つの海を制した大英帝国に、60年にわたり君臨したビクトリア女王が死去。
*1901.2.5/ 官営八幡製鉄所スタート。近代化をめざし、第1溶鉱炉に火が入る。
  20世紀の最初となるこの年、大英帝国に63年にわたって君臨したビクトリア女王が死去し、7つの海を制した大英帝国繁栄の歴史に一つの区切りがついた。女王の治世末期には、さしもの大英帝国の国力にも陰りが見られ、ドイツ、アメリカ、日本などの後発が、その地位を揺るがすようになると、まもなく栄光の孤立を捨て日英同盟を結ぶなど、列強間の力のバランスを保つ努力にむかう。
 19世紀が産業革命と帝国主義の時代とすると、20世紀は、さらなる科学技術の発展と人口爆発の時代だった。飛行機、潜水艦、宇宙ロケットなどの開発により、人類は深海から、空、宇宙にまで行動範囲を拡大し、一方で、人口は20世紀初頭の15億から、20世紀末には4倍の60億にも達した。
 地球上に人口が爆発し、帝国主義列強による後発地域の分割も、20世紀初頭にほぼ完結すると、錯綜した利害関係は調整が付かなくなり、やがて第1次世界大戦が勃発する。さらにその四半世紀後には第2次大戦と、20世紀前半は世界大戦の時代でもあった。これ以降、20世紀の各年を象徴的な事物・事件を通じて眺めてみよう。
 19世紀にまさに幕を下ろさんとする1900年、絶頂期のアール・ヌーボー様式に取り囲まれ、4月パリ万国博により華麗に幕が切って落とされた。7月には全長128mの巨大な世界最初の硬式飛行船「ツェッペリン号」が空に浮かび、やがては世界一周もやってのける。また、ドイツ客船「ドイチュラント号」は大西洋横断スピード記録を達成した。
 文化方面では、芸術至上主義で世紀末芸術を率いたオスカー・ワイルドが、パリの片隅でひっそりと息をひきとり、世紀末のみならず21世紀まで射貫く矢を放ったフリードリッヒ・ニーチェは、狂気の10年間を経て没した。一方で、ジークムント・フロイトが「夢判断」を出版し、「無意識界」を探索し精神分析への道を拓いた年でもあった。
 かつて詩人鮎川信夫は、「マルクス、ニーチェ、フロイトを齧っておけば、適当に現代思想など展開できる」と言ってのけた。19世紀の人マルクスは社会的無意識、別名「資本主義的欲望」を解明する端緒となったし、ニーチェは「権力への意志」などで、宗教的民族的無意識をえぐり出し、そしてフロイトは、個人史の背景にある「個人的無意識」を発見した。
 そもそも「芸術」とは、これらの目に見えない「無意識」を実在化する試みであるとも言える。ともあれ、これらの「無意識の発見」は、二つの大戦後の世界を貫き通したテーマでもあった。鮎川信夫の詩人的感性が、このことをまさしく感知していたと言える。
 米では、第25代大統領ウィリアム・マッキンリーがアナーキストの男に暗殺された。彼の在任中には、米西戦争に勝利しフィリピン、キューバを支配下に置き、さらにはハワイを併合するなど、米国の帝国主義進出の端を開くことになった。暗殺後、あとを引き継いだセオドア・ルーズベルトも、同様の政策を推進してゆく。
 清朝中国では、李鴻章が宰相として「洋務運動(近代化運動)」を推進し、太平天国の乱、日清戦争、義和団事件なと、清朝末期の難問題を老獪に処理して来たが、その李鴻章がこの年の末に死去し、清国は列強の浸食にさらされながら滅亡へと向かう。
 これらは、19世紀の帝国主義の成熟時代に、新たな変化をもたらす兆しでもあった。やがてヨーロッパ列強の関係は、複雑な同盟・対立関係で錯綜し、第1次大戦へと向かっていった。
 この年の初め、米テキサスで大油田が発見され、ガルフ、テキサコといった国際石油メジャーを誕生させることになった。日本でも官営の八幡製鉄所が誕生するなどしたが、金融王J.P.モルガンは、世界最大だったカーネギー製鋼を買収し、自己所有の鉄鋼9社と合わせて、全米鉄鋼の7割を占める超巨大な「USスチール」を誕生させた。また、大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河の独占建設権を、アメリカがフランスから獲得した。これらの産業や事業の巨大化は、巨大な資本を必要とし、モルガンやロックフェラーなどの大財閥が誕生した。
 「モルガン財閥」は、ジョン・ピアポント・モルガンが、父がロンドンで起こした会社を受けつぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となった。J.P.モルガンは他の有力銀行家らと組み、鉄道建設への投資に注力、1890年代までに多くの主要鉄道会社を支配するに至った。さらに鉄道関連産業として、エジソン電灯会社、ベル電話会社などと資本的関係を結び、後の巨大独占企業ゼネラル・エレクトリック(GE)やAT&Tなどを育て上げた。
 1901年、カーネギー製鋼を買収統合しUSスチールを生み出すと、鉄鋼業を基幹として、死の商人デュポン、鉄道王バンダビルト、金鉱王ダッヂなどの巨頭と組んで、兵器産業、自動車産業(ゼネラルモータース/GM)、さらには保険、放送、映画といったサービス産業も傘下に収めてゆき、端緒に就いたばかりの航空機産業や、やがては原爆製造のマンハッタン計画にまで参画することになる。
 一方の「ロックフェラー財閥」は、ジョン・ロックフェラーが精油業「スタンダード・オイル」を創業し、全米の石油の90%をコントロールしたとも言われる。弟のウィリアム・ロックフェラーは、ナショナル・シティー銀行ニューヨーク(現在のシティグループ)創業者の一人となり、ロックフェラー一族として、モルガン財閥、メロン財閥とならぶ財閥を形成した。
 金融業から産業支配を展開したモルガン財閥に対して、ロックフェラー財閥は石油業を支配した資本から展開した。弟ウィリアムがナショナル・シティー銀行を創業することで、金融業も手中に収めると、モルガンと同じく、石油業や金融業を拡大するとともに、鉄道業(ユニオン・パシフィック鉄道)、電機産業(ウェスチングハウス)、さらにUSスチールへの株式投資など、様々な企業を傘下に収める。またモルガンと組んで軍事産業にも参入、マンハッタン計画にもウェスチングハウスなどを通じて参加している。
 かくして「モルガン=ロックフェラー帝国」とも呼ばれる巨大財閥たちは、その政府への影響力も強大となり、彼らの最大のビジネスとも言える二つの世界大戦へなだれ込んで行く。
(この年の出来事)
*1901.6.2/ 始めて元老でない桂太郎が指名され、第1次桂内閣が成立する。
*1901.12.10/ 田中正造が、天皇に、足尾鉱山鉱毒事件を直訴する。
*1901.12.10/ スウェーデンで第1回ノーベル賞授賞式が行われ、物理学賞はドイツのレントゲンが授賞する。
国際石油メジャーを誕生
ジョン・ピアポント・モルガン J. P. Morgan
ジョン・ロックフェラー John Rockefeller
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