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闘いの歴史

闘いの記録

静まる成人式~杉並区長時代の山田宏の『英霊の遺書』講演 https://youtu.be/XxNvKkN4644

2021-01-16
11年間の杉並区長としての成人式で、毎年山田宏区長(当時)は、親への感謝、そして多くの先人達への感謝から成人が始まると、『英霊の遺書』を紹介。

ニイタカヤマノボレは、こちらから・・・

2021-01-15
佐世保の通称、大塔、針尾送信所アンテラ群
白文字は、内容とは無関係です。

ミッドウェイ (USS Midway, CVB/CVA/CV-41) は、アメリカ海軍の航空母艦。

2021-01-14
2015年現在同艦はカリフォルニア州サンディエゴで博物館として公開されている。
ミッドウェイ級航空母艦のネームシップ。第二次世界大戦後に就役し、ベトナム戦争や湾岸戦争に参加した。

ここから始まりました。

2021-01-13
Facebook秋元良文さんより

 


「世界初の実用ヘリコプター」
Fw61。
初飛行1936年、6月26日ベルリンにある運動競技場の屋内で展示飛行を行う。
生産数2機。
Fa223。
初飛行1940年8月3日、生産数11機、終戦後2機が米軍に接収される。
FⅠ282。
初飛行1941年運用開始42年、生産数23機以上。
1,000機生産されることになっていたが工場が爆撃を受けて量産は実行されず。
地中海、エーゲ海で試験的に船団護衛任務に運用、米軍にも接収される。

落下傘といえば、パレンバンですが・・・。

2021-01-12
昭和17年1月11日に、その作戦は決行されました。

昭和17年1月11日の本日、海軍落下傘部隊がセレベス島メナドに奇襲降下しました。

落下傘部隊の奇襲作戰は、セレベス島の北部ミナハサ州攻略に際して初めて敢行しました。
帝國海軍特別陸戰隊が、メナドおよびケマに敵前上陸したのに呼応して、敵手中のカカス飛行場目指しで敢行し、敵基地を一挙にわが手に収め、しかる後、海空よりの両部隊の聯絡を完成して、14日までにミハナサ州一帯の敵要地を攻略しました。
横一特がセレベス島北端のメナド(マナド)攻略作戰において落下傘降下を実施し、ランゴアン飛行場占領に成功した。
ついでティモール(チモール)島攻略作戰において、横三特がクーパン飛行場を狙った降下作戰を実行したが、地上戰斗に手間取り大きな成果を得ることはできなかった。
メナド降下作戰は陸軍に先駆けた日本最初の空挺作戰であったが、陸軍空挺部隊が予定するパレンバン空挺作戰の企図秘匿のため、その戰果はすぐには公表されず、1ヶ月以上後の大本營發表でパレンバン空挺作戰の成功とほぼ同時の發表となった。
なお、飛行場のみならず、東亜細亜屈指の産油量を誇る油田地帯・製油所という、南方作戰における日本軍の最重要戰略目標を僅かな損害で攻略した陸軍空挺部隊(第一挺進團)の功は海軍の功よりはるかに大きく、目立つ結果となり、陸軍への對抗意識が根強い海軍関係者の一部では不満が生じた。
また、日本軍落下傘部隊を謳った軍歌として大ヒットした『空の神兵』は、後に陸軍空挺部隊を描いた同名の映画『空の神兵』の主題歌になり、後述の通り陸軍空挺部隊は大戰後期にも数度の空挺作戰を行っているため、知名度や戰功の点からみて海軍空挺部隊の働きは陸軍空挺部隊より劣るものとなってしまった。
もっとも、海軍空挺部隊についても報道員が撮影した降下映像をもとにした短編ニュース映画や、大戰末期になるものアニメ映画『桃太郎 海の神兵』が公開されたこともあり、國民にある程度は存在を知られることになる。
(ウィキペディア参照。)
Facebook英霊の本日の出来事

闘いの転機

最低・最悪の作戦、インパール作戦

2020-09-14
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(インパール作戦) 
○3.8 [インド・ミャンマー] ビルマ(ミャンマー)の日本軍がインパール作戦を開始する。
○7.2 [インド・ミャンマー] 大本営がインパール作戦の中止を命令する。
 1944年(昭和19年)3月、日本軍は、インド北東部の都市インパールを攻略する作戦を開始した。連合軍の反攻の食い止めを目指し、中国国民党政府への援助(援蒋ルート)の遮断を戦略目的とした。しかし、補給線を軽視した杜撰な作戦により多くの犠牲を出し、無謀な作戦の代名詞ともなっている。
 「牟田口廉也」中将を総司令官とし、第15軍隷下3個師団を主力とする日本軍は、補給増援がままならない中で作戦を開始するが、ビルマ・インド国境間には100km以上にわたって、ジャングル・2000m級の山地・数本の急流が横たわっていた。1個師団がインパール北方のコヒマを目指し、残り2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。
 牟田口司令官が考案した補給不足打開作戦は、牛・山羊などの「駄牛中隊」を編成し、必要に応じてそれを食料に転用する「ジンギスカン作戦」というものであったが、牛や山羊は急流渡河時に多くが流され、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な山地で、兵士の口に入る前にほとんどが失われた。そして人力で運ぶしかなくなった重砲・重火器は、行く手の険しい地形に阻まれるなど、前線で敵軍と向かい合う前に、ほとんどの戦闘力を消耗している始末だった。
 迎え撃つイギリス軍が採用した円筒陣地は、外周を重火器で防備し、包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支える態勢で、頑強な防備をほこった。最前線の日本兵は、空腹のうえ軽装備だったためまったく歯が立たず、これを「蜂の巣陣地」と呼んだ。さらに、飢えた日本兵は、敵軍輸送機の投下した食糧物資を奪うための決死隊を組み、これで飢えをしのいで「チャーチル給与」と呼ぶありさまだった。
 インパール作戦は、当初から無謀な作戦であるとの反対が多かったにもかかわらず、牟田口軍司令官によって強引に進められとされる。司令部に要請した支援もなく、前線部隊の自壊の危機に瀕した第31師団長佐藤幸徳陸軍中将は、後方司令部で作戦継続を厳命する牟田口司令官の命令を拒否、独断で撤退する。この抗命事件は牟田口の逆鱗に触れ、佐藤師団長を更迭する。同様に他の2師団長も更迭、主力3師団長の更迭の結果、第15軍は最早組織としての体を成さない状況に陥った。
 7月3日、やっとのことで作戦中止命令が下されたが、投入兵力8万6千人に対して、帰還時の兵力は僅か1万2千人に減少していたという。もはや撤退戦を維持する戦闘戦力もなく、事実上の壊走だった。退却路は戦線以上に悲惨であった。日本軍兵士達は飢えに苦しみ、陸と空からイギリス軍の攻撃を受け、衰弱してマラリアや赤痢に罹患し、次々と脱落してゆき放置された。延々と続く友軍の腐乱死体や白骨が横たわる退路を、日本兵は「白骨街道」などと呼んだという。
 インパール作戦の失敗後、日本陸軍はビルマ方面軍の高級指揮官・参謀長らの敗戦責任を問い、そのほとんどを更迭した。しかし軍法会議で責任を追及し事態を解明することなく、多くは予備役投入などでお茶を濁した。責を問う軍法会議が開催した場合、インパール作戦失敗の要因が明らかにされ、その責任追及が軍中枢に及ぶことを回避したためとも言われる。まさに『失敗の本質』が解明されることなく、同じ失敗が繰り返される構造を示したものとなった。
 牟田口廉也は、終戦直前に予備役中将として陸軍予科士官学校長に補され、同年8月に内地で敗戦を迎えた。A級戦犯に指名されるも不起訴になり、別の下級シンガポール軍事法廷に送致されて有罪とされるも、2年で釈放されている。戦後しばらくは公の場に顔を出さず反省の意を示していたが、ほとぼりが冷めると、戦時中と同様に「自分のせいではなく、部下の無能さのせい」と自説を繰り返したという。
 結果的に負け戦の将だったため、敵兵や現地住民を殺したり残虐行為をはたらく機会が少なかったのが幸いし、敵国やGHQの手で戦犯として問われた罪は軽かった。しかしながら、下級参謀だった辻正信などと同様、多数の日本人兵士を死地に追いやった罪は、ついに日本国民自身の手で問われることはなかった。
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

レイテの闘い

2020-09-16
帝国剣豪艦隊は壊滅、特攻が始まりました。
Facebook佐々木信雄さんのコメントです。
『Get Back! 40's / 1944年(s19)』
(レイテ沖海戦)
○10.20 [フィリピン] 米軍4個師団がレイテ島に上陸。24日レイテ沖海戦が始まり、25日に日本の連合艦隊は壊滅状態に陥る。
 「レイテ島の戦い」は、1944年(昭和19年)10月20日から戦われたフィリピン・レイテ島での攻防で、日本軍守備隊とアメリカ上陸部隊の激しい地上戦となった。10月20日、連合軍はレイテ島上陸に着手、20万以上の陸上部隊が投入され、数千の航空機と海上からは艦隊による火力がこれを支援した。
 フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官に着任後間もない山下奉文大将は、マニラのある比国の中心ルソン島に主力を集中した戦闘を考えていたが、大本営は連合軍が襲ったレイテ島に主力を移動して迎え撃つ命令を出した。同時に大本営は「捷号(しょうごう)作戦」を発動して、日本海軍が残存軍艦の総力をあげた艦隊を派遣し、アメリカ側も太平洋に展開する大半の軍事力を投じため、10月23日から25日にかけて、史上最大の海戦と言われる「レイテ沖海戦」が戦われた。
 日本海軍はマリアナ沖海戦で空母部隊が壊滅していたが、戦艦大和、武蔵という超巨大戦艦姉妹艦を投入して背水の陣をしき、はじめて神風特別攻撃隊による攻撃を行うなど総力を投入したが、武蔵が撃沈されるなど多大な艦隊戦力を失い、この海戦での敗北を最後に日本軍艦隊は事実上壊滅し、以後大規模かつ組織的活動が不可能となった。
 その直前の台湾沖航空戦やレイテ沖海戦では、現地からの大戦果の誤報や過大報告が相次ぎ、それを信じた大本営は戦況を読み誤った。フィリピン現地の山下大将の状況把握を無視して、レイテ島への主力陸上部隊の移転を命じたが、移送中に大損害を受け補給もままならず、戦闘以前に溺死餓死などで多くの死者を出すことになった。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となった。そしてこのレイテ島戦は、翌年8月の終戦まで続く「フィリピンの戦い」の大方の帰趨を決する戦闘となった。
 南西太平洋方面の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーは、フィリピンの奪回作戦に執念をもやした。なにより、フィリピンを支配する在マニラ・アメリカ極東陸軍の司令官であったとき、日本軍に追い詰められ豪州に脱出、" I shall return " と負け惜しみを言うしかない屈辱を味わった地である。さらに事実上のフィリピン総督として、農園を持つなど個人的に多くの資産を形成していた。
 アメリカ参謀本部では、フィリピンを飛ばして台湾や沖縄に侵攻する案が強く、フィリピン奪還は戦略上必要なしとの判断であった。しかしマッカーサーは、「フィリピン国民との約束」の履行を理由に、フィリピン作戦を強引に主張した。マッカーサーは、フィリピンからの「敵前逃亡」("I shall return"は兵士間ではこの意味だった)を行った汚名をそそぐことと、多くの利権を持っていたフィリピンにおける利権の回復という、個人的な理由を優先させた。
 また、ルーズベルト(民主党)は大統領選を控えており、国民的人気のマッカーサー(共和党)が対抗馬になるのを恐れて、マッカーサーに手柄を立てさせないように仕組んできていたが、彼が大統領選に出る気がないという言動をしたため、その要求をしぶしぶ呑んだとも言われている。膝まで海に浸かってレイテ上陸を果たすマッカーサーの写真は有名だが、実際の場にカメラマンが居ず、あらためて場を設定して撮り直させたものだという(笑)
*この年
戦況に関する流言・噂・落書が急増/食料欠乏でのら犬が野生化/学童疎開の食糧不足が深刻化、お手玉の小豆も食用に
【事物】鉄道パン/国民酒場/人間魚雷(海軍)/糞尿電車/松根油
【流行語】鬼畜米英/一億国民総武装/代用食/大和一致/進め一億火の玉だ
【歌】同期の桜/ラバウル小唄/ラバウル海軍航空隊(灰田勝彦)/あゝ紅の血は燃ゆる(安西愛子)
【映画】あの旗を撃て(阿部豊)/加藤隼戦闘隊(山本嘉次郎)/五重塔(五所平之助)/陸軍(木下恵介)
【本】太宰治「津軽」/中村汀女「汀女句集」/竹内好「魯迅」/家永三郎「日本思想史における宗教的自然館の展開」

(太平洋戦局の転換)

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
『Get Back! 40's / 1942年(s17)』
(太平洋戦局の転換)
○5.7 [南部太平洋] ニューギニア珊瑚海海戦
○6.5 [中部太平洋] ミッドウェー海戦
○8.7 [南部太平洋] ソロモン海戦・ガダルカナル島の戦い
 1942年5月8日、ニューギニア東南海域の珊瑚海で、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が交戦し、史上初の航空母艦同士の決戦となった。この海戦は空母艦載機による戦いとなり、両艦隊は互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた史上最初の海戦でもあった。
 双方の損害はともに、空母1隻沈没・1隻大破でぼぼ対等であったが、総合戦力の劣る日本軍には相対的に大きなダメージであり、目標としたニューギニアの拠点ポートモレスビーの攻略作戦に海軍の支援が不可能になった。開戦以来連戦連勝を続けた日本軍は、この海戦で初めて進攻を阻まれる。
 珊瑚海海戦の海軍は、陸軍のポートモレスビー攻略作戦の補助の役割であり、しかも枝葉とされた第五航空戦隊が珊瑚海海戦で健闘したことは、むしろ真珠湾攻撃以来、一方的な勝利を収めてきた主力機動部隊である第一航空艦隊の第一、第二航空戦隊にとっては自信を深めさせた。しかも陸軍は中国大陸を最重要視し、しかもニューギニアでも無謀な陸路攻略戦で難航していた。
 そこで、陸軍の協力を宛にしないでできる海軍独自の作戦として、海軍はハワイに近い中部太平洋のミッドウェー島攻略作戦に全力を集中する作戦を立てた。連合艦隊司令長官山本五十六は、真珠湾奇襲で米の戦意をそぎ早期和平に持ち込む計画であったが、意図どおりには進まず、米海軍力の回復をおそれた。そこで海軍主力を集中して、ハワイ攻略作戦を大前提として、その布石でハワイの一歩手前にあるミッドウェー島攻略を企図した。
 ミッドウェーはアウェーの戦いであり、長期戦をさけ、米主力艦隊の空母機動部隊を誘い出して殲滅する作戦であった。ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の1942年6月5日から7日にかけて、ミッドウェー島の攻略をめざす日本海軍をアメリカ海軍が迎え撃つ形で戦われた。日本海軍の機動部隊と米国の機動部隊及びミッドウェー島基地航空部隊との航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の航空母艦4隻とその艦載機を多数一挙に喪失する大損害を被り、この戦争における主導権を失うことになる。
 本来、大本営の軍令部は、ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)とニューカレドニア・フィジー・サモアの攻略作戦(FS作戦)によって、アメリカとオーストリアの分断を考えていたが、海軍連合艦隊の早期決着のミッドウェー作戦に折れた形になった。だが、そのミッドウェーの大敗北により、海軍力の大打撃でFS作戦は中止となった。
 しかし日本軍は、ラバウル以南に前身航空基地を創設して米豪分断をめざし、ガダルカナル島に飛行場を建設してソロモン海域の制空権を確保しようと考えた。一方、アメリカ軍統合参謀本部はミッドウェーの勝利を踏まえて、第1段対日反抗作戦「ウォッチタワー作戦(望楼作戦)」を開始し、日本軍が飛行場を建設中のガダルカナル島攻略でその戦端をきった。
 8月7日、米海兵隊を主力とし豪軍の支援を受けた海兵隊員が、艦砲射撃と航空機の支援の下で上陸を開始し、連合軍の攻撃は完全な奇襲となった。奇襲を知った日本海軍は、援軍の艦隊を送り、数次にわたつて「ソロモン海戦」が戦われるとともに、陸上では半年にわたる壮絶な消耗戦が行われた。最終的に12月31日の御前会議において撤退が決定されたにもかかわらず、さらに1ヶ月を経た1943年2月1日からやっと撤退作戦が行われた。
 いわゆる「大本営発表」という粉飾戦果は、初めての劣勢戦闘となった珊瑚海海戦に始まり、大敗ごとに誇大になってゆき、このときのガダルカナル撤退では「転進」と公表された。転進とされたものの、大半の兵士は南方戦線に残されたままで、ガダルカナル島の最後の日本兵が投降したのは、戦後の1947年であったという。
*この年
労働者の欠勤・怠業、徴用工の闘争などが多発/ゲートル巻が日常化/バケツリレーの訓練盛ん
【事物】女子の一日入営/本土空襲/割増金付き「債券弾丸切手」
【流行語】欲しがりません勝つまでは/少国民/非国民/敵性語
【歌】空の神兵(鳴海信輔・四家文子)/明日はお発ちか(小唄勝太郎)/新雪(灰田勝彦)/南の花嫁さん(高峰三枝子)
【映画】父ありき(小津安二郎)/マレー戦記(陸軍省監修記録映画、観客訳600万人)
【本】ヒトラー著・真鍋良一訳「我が闘争」/小林秀雄「無常といふ事」/富田常雄「姿三四郎

提督死す!

2020-09-08
前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。
Facebook佐々木信雄さんコメント
『Get Back! 40's / 1943年(s18)』
(山本五十六司令長官 戦死)
○4.18 [南部太平洋] 山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で、搭乗機が撃墜され戦死する。
 ガダルカナル島から撤退を余儀なくされた日本軍は、3月中旬、ソロモンおよび東部ニューギニア方面への連合軍の反攻企図を妨げるべく、連合艦隊独自の立案で「い号作戦」を実施した。第三艦隊母艦機を南東方面に展開し、ラバウル基地の基地航空部隊との連動で、ソロモンや東部ニューギニアの敵船団・航空兵力を攻撃し敵の戦線を攪乱させるという目的で実行された。
 ミッドウェー、ガダルカナルの敗戦でかなり憔悴していたと言われる山本五十六長官は、「い号作戦」を直々に立案したとされ、この時、トラック島に泊留の連合艦隊旗艦「武蔵」を離れ、「い号作戦」を陣頭指揮するため、幕僚をしたがえてラバウル基地に来ていた。それまで、はるか北方のトラック島の旗艦の戦艦大和や武蔵の艦上で、好きな幹部と将棋やトランプにうち興じていて、「大和ホテル」「武蔵屋御殿」などと揶揄する声もあったという。
 山本は、ブーゲンビル島、ショートランド島の前線航空基地の将兵の労をねぎらうための計画をたて、幕僚とともにラバウル基地を飛び立った。この方面は日本海軍の制空権下にあり安全とされていたが、前線視察計画は関係方面に打電され、その暗号電文は米軍に傍受され解読されていた。この情報は、米海軍のチェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官にまで報告され、ニミッツは、山本長官が暗殺に足りうる人物か検証したが、山本の戦死が日本の士気が大きく低下させ得るとの報告があり、山本機攻撃を決断したという。4月18日、ブーゲンビル島上空に差し掛かった時、米機16機に待伏せされ撃墜され、山本長官は戦死する。
 山本長官の撃墜は「海軍甲事件」と称して一カ月以上伏せられた。5月21日、大本営により公表されると新聞は連日報道を行い、日本国民は大きな衝撃を受けた。6月5日、日比谷公園で国葬がとり行われた。皇族、華族ではない平民が国葬にされたのは、これが戦前唯一の例であった。
 山本五十六は、日米開戦に最後まで反対し、やむを得ず開戦になると、真珠湾攻撃を立案し、開戦直後の快進撃を支えた名将としてうたわれる。坂本龍馬が司馬遼太郎の小説で描かれたように、山本五十六も阿川弘之(阿川佐和子の父親)などの作品で人物像が形成されている側面がある。しかし、その指揮官や作戦立案の能力には、否定的な見解も多くみられ、将軍としてよりも軍政官としての適性を指摘する同僚もいたようである。
*この年
種々の替え歌流行(見よ東條のハゲアタマ〜)/決戦料理の名のもとに野草の食用が推奨される
【事物】いも駅弁・いもパン/硫黄マッチ/貯蓄券/酒場・ビヤホールに順番券
【流行語】転進/元帥の仇は増産で/玉砕
【歌】加藤隼戦闘隊(灰田勝彦)/お使いは自転車に乗って(轟夕起子)/勘太郎月夜唄(小畑実・藤原亮子)
【映画】姿三四郎(黒沢明)/無法松の一生(稲垣浩)/花咲く港(木下恵介)
【本】島崎藤村「東方の門」(中央公論)/山本周五郎「日本婦道

開戦の背景

2020-09-07
Facebook佐々木信雄さんのコメント
(日米開戦)
○7.25 [アメリカ] 日本の南部仏印進出への報復措置として、米政府が在米日本資産の凍結令を公布。
○8.1 [アメリカ] ルーズベルト大統領が対日石油輸出を全面禁止とする。
○11.26 [ワシントン] ハル米国務長官が日本側の提案を拒否し、日本軍の中国撤退を求める強硬な新提案を提示。27日、日米交渉は決裂する。(ハル・ノート)
○12.8 [ハワイ・東南アジア] 日本時間午前2時、日本軍がマレー半島へ上陸開始。午前3時19分、日本軍がハワイ真珠湾を空襲。日本が米英両国に宣戦布告する。(アジア太平洋戦争開始)
 日本側が「ABCD包囲網」(米America・英Britain・中China・蘭Dutch)と呼んだ各国による経済封鎖は、この時期、中でも影響の大きいアメリカの主導で進められつつあった。三国同盟を結び独ソ戦が開始されると、日本軍は7月2日の御前会議で「対ソ戦準備・南部仏印進駐(南進・北進準備)」を決定、それを受けて7月7日からは、満州での「関東軍特種演習(関特演)」に向けて内地から兵員動員が開始される。
 同時に南進の準備も進める日本に対して、アメリカは7月25日「在米日本資産の凍結」を決定する。当時は金本位制であり、日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店には莫大な貿易決済用の金融資産があった。もちろん日本民間の在米資産も膨大であった。
 日米交渉が座礁し、7月28日、日本軍はすでに決めていた南部仏印進駐を開始すると、8月1日米政府は「対日石油輸出全面禁止」を発動した。この時点でルーズベルト米大統領は、「太平洋での戦争」を必至と考えていたもようである。日本は石油の約8割をアメリカから輸入しており、国内における石油の備蓄は民事・軍事を合わせても2年分とされた。早期開戦論だった陸軍のみならず、慎重だった海軍も石油欠乏は海軍力の致命傷になるとして、早期開戦論に傾いた。
 三国同盟以降から、日米の交渉は断続的に続けられていたが、6月の独ソ戦開始を契機に、アメリカ側は対日妥協から強硬路線へ舵を切ることになる。第二次近衛内閣の外相松岡洋右は、三国同盟にソ連を参加させるという四国連合案は破綻したが、対米には強硬案を主張、妥協派の近衛首相と対立した。近衛は松岡を外相から外すために、えざわざ内閣総辞職して、再度第三次近衛内閣を組閣する。
 9月6日の御前会議では、外交交渉の期限を十月上旬とし、妥結の目途がない場合直ちに対米開戦を決意すると決定された。近衛は日米首脳直接会談に唯一の期待をしたが、アメリカ側に日米首脳会談を事実上拒否された。戦争の決断を迫られた近衛は妥協策による交渉に道を求めたが、東條英機陸相に日米開戦を要求されたため内閣は瓦解、10月16日に近衛内閣は総辞職する。
 18日東條内閣が成立したが、これには本人も予想外であったらしく、内大臣木戸幸一が独断で東條を後継首班に推挙し天皇の承認を取り付けてしまった。最も強硬に開戦を主張する陸軍を抑えるには、陸軍大将でもある東条しかおらず、毒をもって毒を制する案だということで、対米戦争回避を望む天皇もこれ承諾したらしい。東條も、それまでの態度を一変し、天皇の意をくむ忠臣として2つの妥協案を用意、交渉妥結の可能性をさぐった。
 しかし対日戦不可避と判断していた米は、日本側の新規提案は両案ともに問題外であると拒否。11月26日、コーデル・ハル国務長官は、いわゆる「ハル・ノート」を駐米日本大使に提示した。内容は日本へ対する中国大陸、仏印からの全面撤退と、三国同盟の解消という極めて強硬なものであった。ハル・ノートは国務長官の「覚書」との位置付けであったが、日本政府はこれを「最後通牒」として受け取り、開戦の決断を行うことになった。
 日米交渉決裂の結果、東條内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を最終決定した。日本陸軍は日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島に上陸し、英印軍と交戦状態に入る。イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれた。(マレー作戦)
 並行して、日本海軍航空隊によって、ハワイのオアフ島真珠湾のアメリカ軍基地に対する奇襲攻撃も、日本時間12月8日午前1時30分に発進、日本時間午前3時19分から攻撃が開始された。(真珠湾攻撃)
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