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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

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朝鮮のコントロールに失敗した日本

2023-04-06
facebook 佐々木信雄さん曰く
◎甲申政変
◎甲申政変
*1884.12.4/ 朝鮮の漢城(ソウル)でクーデターがおこり、日本の竹添公使らが軍隊を率いて王宮を占領する。(甲申政変・甲申事変)
 1880年代前半、朝鮮の国論は、清の冊封国としての立場を維持する「守旧派(事大党)」と、朝鮮の近代化を目指す「開化派」に分かれていた。後者はさらに、穏健で中間派ともいうべき「親清開化派(事大党)」と、清朝間の宗属関係に依拠せず、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする「急進開化派(独立党)」とに分れていた。
 「壬午軍乱」以降、清国の影響下に置かれた閔氏政権は、「親清開化派」として事大主義に傾斜しつつあった。一方の「急進開化派」は、明治維新の日本を朝鮮近代化のモデルとして、日本の協力をあおいで自主独立の国を目指そうという立場であった。金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党のリーダーは、朝鮮の開化をめざして日本に接近しつつあった。
 金玉均らは、高宗にはたらきかけて訪日を実現し、力強く歩む明治維新の日本において、政治・教育・産業などをつぶさに見て回り、福澤諭吉を介して日本の政財界の重鎮とも知己を結んだ。そして日本からの帰途、「壬午軍乱」発生の報に初めて接した。
 壬午軍乱は、清国軍が乱の首謀者で国王の父 興宣大院君を中国の天津に連行して収束、高宗と閔氏の政権が、清国の影響下で復活する。以後、開化政策は清国主導で進められることになり、日本の影響力は低下した。
 朝鮮政府は、軍乱後に日朝間で結んだ「済物浦条約」の規定によって、謝罪使節団を派遣し、金玉均も顧問としてこれに加わった。一行は日本政府高官とも接触して、朝鮮独立援助を要請したが、日本側は清国の軍事力を考慮し、あいまいな支援策を提示したのみであった。
 軍乱後に王宮に復帰した閔妃は、閔氏一族を始めとする私情に偏った守旧政治で、朝鮮半島の政治を混迷させるばかりだった。この状況に危機感をいだいた独立党は、日本の協力を期待し金玉均を派遣したが、日本側の対応は冷たいものであった。金玉均は失意のうちに帰国するが、まもなくベトナムの支配権をめぐって「清仏戦争」が勃発した。
 この戦いで劣勢に立った清国が、止むを得ず朝鮮駐留軍の多くを内地に移駐させたため、独立党はこれを好機ととらえ、日本もまた、壬午軍乱以降の失地回復の好機とみて、帰国中の公使竹添進一郎を漢城に帰任させ、金玉均ら独立党に近づいた。
 金玉均らはこの好機にさいしてクーデター計画を立て、竹添公使からも支援の約束を得た。しかし、クーデターに動員できる軍事力は、日本公使館警備の日本軍150名と、朝鮮人士官学生などごく少数であり、1,500名を有する清国兵や朝鮮政府軍に対抗するのは無謀といってよかった。
 金玉均らは、フランスとの戦争下にあった清国が、朝鮮を手薄にさせている状況に期待し、クーデター決行を決めるが、実行直前に清国がフランスとの和議に動き、また、支援を約束したはずの日本政府中央も、直前になってクーデターへの加担を差し止めてしまった。
 こうしたなか、郵征局開局の祝宴を狙って、計画は予定通り1884(明17)年12月4日に実行に移された。日本政府の関与は不明だが、竹添進一郎公使は会合には参加せず、いつでも出動できるよう公使館で待機していた。金玉均らは王宮に急行し、高宗を確保するとともに、日本公使に救援を依頼するよう高宗に要請した。あらかじめ待機していた竹添公使と日本軍はただちにこれに応じ、国王護衛の政府軍とともに王宮の守りについた。
 翌5日、金玉均らは新政権の成立宣言し、新政府の閣僚は夜を徹して話し合い、国王の稟議を経て、翌6日「革新政綱」を公表した。政綱では、門閥の廃止、人民平等の権利、才能による官選など、旧態を一掃する近代化方針をうたった。
 開化派のクーデターに対し、閔氏側はただちに清国軍の出動を要請、袁世凱らが率いる清国軍は王宮への攻撃を開始した。王宮護衛の朝鮮政府軍兵士は頼りにならず、結果として日本軍150名だけで、清国兵1,300名と戦う状況となった。日本軍は奮闘するも、ついに竹添公使は撤収を命じ、金玉均らも公使とともに公使館に帰着する。
 清国軍は、高宗を陣営内に確保し、臨時政権を樹立させた。竹添の公使館逃避前後から、漢城は大混乱に陥り、清国兵や朝鮮人暴徒によって破壊・掠奪され、日本人居留民たちも略奪・殺害された。竹添公使は7日午後、新築落成なったばかりの日本公使館に火を放って全員退去を命じ、漢江をくだって仁川府に向かった。竹添一行は仁川領事館から長崎へと向かうが、竹添はクーデターの関与を詮索されるのを恐れ、朴泳孝・金玉均らの同行を露骨に嫌がったという。
 クーデターの失敗によって死を免れた金玉均、朴泳孝ら9名は日本に亡命し、金玉均は、関与をほうかむりする日本政府からは冷遇され、失意のうちに上海に渡るが、同地において朝鮮国王の放った刺客よって暗殺される。遺体は朝鮮半島に移送され凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。
 金玉均らによる政変は、失敗に帰したが、朝鮮半島において、近代国家の樹立をめざした最初の真っ当な民族運動としての歴史的意義を有する。しかし、日本や清国を始めとした外国勢力によって左右される、当時の朝鮮政権の脆弱さは、明治維新の日本のように独自の近代化を進めるには、あまりにも時代に取り残された存在であった。
 事後、日朝間では「漢城条約」、日清間は「天津条約」が締結されたが、朝鮮のコントロールに失敗した日本は、半島での立場をいっそう悪化させ、「日清戦争」での直接対決へと向ってゆく。
(この年の出来事)
*1884.3.-/ 東京大学予備門学生 有坂鉊蔵が、本郷弥生町の向ヶ丘貝塚で「弥生土器」を発見する。
*1884.7.7/ 「華族令」が定められ、公・侯・伯・子・男の五爵に分け、戸籍・身分を宮内庁管理とする。国会開設に向けて、身分制の貴族院議員の準備作業でもあった。

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