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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

ベルサイユ体制

2020-06-07
Facebook 佐々木信雄さんの投稿です。

【20世紀の記憶 1919(T8)年】(ref.20世紀の全記録)
 

(ベルサイユ講和条約)
*6.28/仏 「ベルサイユ講和条約」が調印される。
 

 ベルサイユ条約は、1919年6月28日にフランスのベルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で締結された講和条約の通称である。第一次世界大戦の終結を受けて、1919年1月18日から、フランスのパリで世界各国の首脳が集まり「パリ講和会議」が開始され、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際協調体制構築についても討議された。
 

 パリ講和会議の結果、連合国とドイツの間で締結された講和条約は、パリ郊外のベルサイユ宮殿で調印されたため「ベルサイユ条約」と呼ばれる。そして、この条約や関連諸講和条約によってもたらされた国際秩序を、ベルサイユ体制という。パリ講和会議は、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの理想主義を基調に進められ、「国際連盟」の成立など、平和秩序の維持を希求したが、それを支える現実的な制度が、各国の意向で整えられず、その崩壊が第二次世界大戦へと流れ込んでいった。
 

 パリ講和会議は、参戦国でもあったが仲介役的立場の米大統領ウィルソンと、英首相ロイド=ジョージ、フランス首相クレマンソーを中心として進められた。ウィルソンは、「十四か条の平和原則」を発表し、「公正な講和」をアピールして、講和後の融和的な各国の関係を重視したが、直接に戦闘を交え甚大な被害を被った英仏両国は、ドイツに巨額の賠償や領土割譲を含め、懲罰的な負担を科する強硬意見であった。
 

 当初、ドイツやオーストリアの政体が不安定な状況もあり、まず連合国間で講和条件を話し合うことになった。戦勝五大国(英・仏・米・伊・日」の全権代表で構成される「十人委員会」で、重要課題は検討されることになったが、その後、情報遺漏問題もあって、実質は、英仏米三首脳にイタリアのオルランド首相を加えた「四人会議」が中心となった。
 

 フランスは、直接国境で接し、過去何度も戦争をしてきた隣国ドイツに対する不信感は強く、潜在的脅威を完全に取り除くべく、莫大な賠償や領土割譲など、強硬に懲罰的な条件を求めた。一方のアメリカは、理想主義者ウィルソンの意向もあり、「公正な講和」と「戦後の協調体制構築」で、行き過ぎた懲罰要求を緩和すべきとした。イギリスは、仏に立場は近いが、妥協的に対応した。
 

 講和案がまとめられると、ドイツ代表がパリ会議に招かれ通知された。ドイツ側は、国民からの大反発もあり、講和案を拒絶するが、ドイツ側からの提案を出し、若干の修正の後、再度講和案が提示された。連合国側は、返答期限を切り、受諾亡き場合は戦闘再開も辞せずという断固たる姿勢で臨んだため、ドイツはしぶしぶ講和案を受諾、ベルサイユ条約が締結されることになった。
 

 ベルサイユ条約は、米ウィルソンの提唱した「国際連盟」条項を包含するなど、平和的な協調体制理念が盛り込まれていたが、一方で仏クレマンソーを代表とする、ドイツに対する復讐懲罰的な苛酷要求との、妥協の産物であった。その結果、国際連盟は米議会の反対で批准されないなど、具体的な平和維持機構ととしては機能せず、一方で、敗戦国ドイツへの苛酷な賠償負荷は、それに耐えきれないドイツ国民の疲弊を招き、やがてナチス台頭など、第二次大戦への導火線ともなった。
 

$映画『シークレット・オブ・モンスター "The Childhood of a Leader" 』(2015/英仏ハンガリー)

 ジャン=ポール・サルトルの短編小説「一指導者の幼年時代」をベースにした心理ミステリー。ベルサイユ条約締結直前のフランスを舞台に、アメリカからやって来た政府高官の幼い息子が、「独裁者」というモンスターへと変貌を遂げる謎に迫るさまを描く。
http://eiga.com/movie/85295/

$ジャン=ポール・サルトル「一指導者の幼年時代」(「水いらず (新潮文庫)」所収)
https://www.amazon.co.jp/%E6%B0%B4%E3%81%84%E3…/…/4102120017
 

〇この年の出来事 
*1.18/仏 第一次大戦の終結を受け、パリ講和会議が始まる。
*2.6/独 ワイマールでドイツ共和国国民会議開催。民主共和派が大勢をしめ、大統領にエーベルトを選出。
*3.1/朝 京城を始めとする主要都市で、反日独立運動がはじまる。「三・一運動」
*5.4/中 中国で「五・四運動」が起こる。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170613

革命という名の血の粛清

2020-06-03
ロシア中央部のエカテリンブルクに幽閉されていたニコライ2世一家は、
この反乱を機に、反革命派による奪回をおそれて、一家全員が銃殺され、
 ここにロシアロマノフ家の血は完全に断たれることになった。

「女スパイ」の時代

2020-06-01
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1917(T6)年】
 

(魔性の女マタ・ハリ)
*10.15/仏 フランス、パリにおいて、二重スパイとして活躍、ファム・ファタール(魔性の女)とも呼ばれたマタ・ハリが、ドイツ軍スパイとしてフランス軍によって処刑さる。
 

 マタ・ハリ(Mata Hari)は、オランダ生まれで本名マルガレータ・ヘールトロイダ・ツェレと言い、フランスのパリを中心に、「オリエンタル・スタイル」の舞踊を演じ、ダンサー兼ストリッパーとして活躍した。しかし、第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された。
 

 その妖艶な美貌とオリエンタルな芸風(ジャワ島からやって来た王女というふれ込み)で、その死後にはさまざまな尾ひれがつき、世界で最も有名な女スパイとして、女スパイの代名詞的存在となった。マタ・ハリは、多数のフランス軍将校およびドイツ軍将校とベッドを共にしたとされ、いわゆる二重スパイだったとされる。
 

 ドイツの在外武官の暗号通信がフランスによって傍受解読され、マタ・ハリがスパイ活動をしていると判明し、逮捕される原因となった。しかしマタ・ハリの諜報活動が具体的にどのようなものだったかは、はっきりはされていない。彼女は低級レベルでの諜報要員であって、少なくとも、決定的な重要情報をもたらしたという証拠は見つけられていない。
 

 当時の戦況はフランスに不利に展開しており、フランスの政府や軍部にとっては、軍事上の失敗を何でもマタ・ハリの活動に結びつけるのが、好都合でもあった。彼女は有罪となり、サンラザール刑務所にて、10月15日に銃殺刑に処せられた。
 

 マタ・ハリの裁判、処刑の様子には、さまざまな逸話が語られる。たとえば、

1.処刑を免れるため、妊娠していると申告することを勧められたが、本人が拒否した。
2.処刑の際、銃殺隊はマタ・ハリの美貌に惑わされないよう目隠しをしなければならなかった。
3.彼女は銃殺の前兵士たちにキスを投げた、また銃殺寸前にロング・コートの前をはだけ、全裸で銃殺された。
4.処刑の際、目隠しや木に縛りつけられることを拒絶し、泰然自若として銃の前に立った。
などなど。
 

 「魔性の女(ファム・ファタール)」というイメージとともに、これらの逸話は広く喧伝された。以後、何度も映画化され、さらにそれらは具体的なエピソードとして定着していったと考えられる。なかでも、マタ・ハリの名前を広く知られるようにした映画には、『マタ・ハリ』(1931年/米 グレタ・ガルボ主演)が挙げられる。
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%9E%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%8…
 
$参考図書:『危険な愛人マタハリ―今世紀最大の女スパイ (20世紀メモリアル)』(1994年/ジュリー ホィールライト 著』
https://www.amazon.co.jp/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E3…/…/4582373275
 

 また、のちの中国戦線で日本軍の諜報活動に従事し、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子も存在する。川島芳子は旧清朝の皇族であり、日本人の養子として育てられた。その活動の内容はつまびらかではないが、中華民国に逮捕されて、同じく銃殺されたとされている。
 

〇この年の出来事 
*2.1/独 ドイツ、「無制限潜水艦作戦」を再開。アメリカの参戦のきっかけとなる。
*4.6/米 アメリカ、ドイツに対し宣戦布告。第一次世界大戦の趨勢は、大きな転機を迎える。
*11.2/英 イギリスが「パルフォア宣言」を発表。パレスチナにユダヤ人国家の建設を支援。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170524

戦争の世紀の幕開け

2020-05-21
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(第一次世界大戦 勃発)
*7.28/墺 オーストリア、セルビアに対して宣戦布告、「第一次世界大戦」勃発!
 

 サラエボ事件で、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、第一次世界大戦が開始された。当初は、関連諸国に世界戦に拡大するという認識は薄かった。しかしその背景には、一触即発で世界大に広がる複雑な構図があった。
 

 直接はオーストリアとセルビアであったが、オーストリアの後ろにはドイツ帝国があり、セルビアは汎スラブ主義を進めるロシア帝国があった。そしてさらに各国は、ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国(同盟国)と、三国協商を形成していた英・仏・露を中心とする連合国(協商国)と、2つの陣営に分かれ対立した。
 

 さらに日本が日英同盟を理由に参戦し、イタリア、アメリカも連合国側として参戦する。そして、それら列強が世界中に植民地展開していたため、植民地間での戦闘も含めて、またたくまに世界を巻き込む戦争となった。一般では戦争が早期に終結するものと楽観されていた。
 

 しかし、進化した機関銃の組織的運用等により、防御側の優位の状況が生じ、「塹壕戦」による持久戦が主流となり、戦線は膠着し、戦争は長期化した。この結果、大戦参加国は、国民総動員体制をとり、国民経済のすべてを投入する「国家総力戦」を強いられ、それまでの常識をはるかに超える物的・人的被害がもたらされた。
 

 協商国側は海上封鎖で、同盟諸国の植民地との連絡を断つ戦略を展開し、経済を疲弊させた。1918年にはオスマン帝国、オーストリアで革命が発生して帝国が瓦解、ドイツでも、キール軍港での水兵の反乱で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ大戦は終結した。足かけ5年にわたった戦争では900万人以上の兵士が戦死し、その人的被害、経済的被害は、史上初の世界大戦として記録された。
 

 第一次大戦の結果、戦敗国であるドイツ、オーストリアは当然のこと、戦勝国側のイギリス、フランスも国力が疲弊し、やがてヨーロッパ諸国に代ってアメリカが世界の中心に登場する原因となった。またロシアでは、大戦末期にロシア革命が起り、内戦状態となり、終戦をまたず離脱することになった。
 

 第一次大戦を舞台にした映画は数多くある。激戦の戦場を描いたものは多いが、これも大戦を背景にしたものだと言うのを挙げてみると、『アラビアのロレンス』"Lawrence of Arabia”、これはイギリスの諜報将校として、アラビア人の世界に入りこみ、アラビアの独立に協力するロレンスを描く。
 

 また、スピルバーグ『戦火の馬』"War Horse" は、第一次大戦に投入された馬の、数奇な運命を描いた、異色の戦争映画。
 

(追補)
 イギリスの「三枚舌外交」は、以下の三つの協定に集約され、それぞれ、アラブ・フランス(+ロシア)・ユダヤの利害に配慮した。その相互矛盾がのちの中東問題の起点となった。

 1. 1915年サイン=マクマホン協定(中東のアラブ独立)
 2. 1916年5月サイクス・ピコ協定(英仏露による中東分割・秘密協定)
 3. 1917年11月 バルフォア宣言(パレスチナにおけるユダヤ民族居住地建設)
 

 オスマントルコが束ねていた地域が、小トルコとそれ以外に分割され(!)、その残余部分が西欧列強によって勝手に分割され(2)、ユダヤ資金と引き換えに、後のイスラエル建設に暗黙の了解を与えた(3)。まさに現在の中東地図に描かれる状態を準備したことになる。
 

 ロレンスは1の実現をタテに工作を進めたが、2・3によって、まったく別の中東世界が形成されることになる。英の「一枚目の舌」に乗っかって暗躍した小物に過ぎなかった。
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

サラエボ事件、第一次大戦の火種

2020-05-20
Facebook 佐々木信雄さんの投稿

【20世紀の記憶 1914(T3)年】
 

(サラエボ事件)
*6.28/サラエボ オーストリア皇太子夫妻、暗殺される! 大戦の「引き金」をひいた銃声2発。(「サラエボ事件」)
 

 1914年6月28日、「オーストリア=ハンガリー帝国」の皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、「サラエボ」(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ)を視察中、セルビア人青年によって暗殺された。
 

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたが、隣国の「セルビア」はかつての領土の回復を目指しており、これに呼応するように、ボスニア内のセルビア人住民にも、オーストリア支配への反発が高まっていた。そんな中、オーストリア皇位継承者フェルディナント大公夫妻がサラエボを訪れることになり、セルビア系の民族主義的な青年グループが暗殺を企てたのだった。
 

 バルカン半島は、古くから諸民族、諸宗教が入り乱れてモザイク状になった複雑な地域で、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。古代以来のローマ・ラテン系、ギリシャ系に加えて、ゲルマン系、スラブ系が、それぞれさらに細かに分岐した民族に分れて定住し、さらに中世以来「オスマントルコ帝国」が支配し、トルコ人が流れ込んでいた。

 諸民族に重なるようにして、宗教もローマカトリック、ギリシャ正教、ロシア正教、そこへイスラム教が加わり、さらにそれが諸流派に分かれて浸透している。それらの複雑な地域を、オスマン大帝国が束ねる形で支配していたが、その勢力が衰えるに従い、地域内には民族主義が高まり、一部民族は独立を勝ち得ていった。
 

 抗争する諸民族の後には、オスマン帝国の再生を目指す汎トルコ主義のトルコ、汎スラブ主義で南下を目指すロシア、そして西方から拡張をはかるオーストリア=ハンガリー帝国など大国が控えており、それらの力が大きな緊張状態を引き起こしていた。そんな中で、「露土戦争」や三次にわたる「バルカン戦争」などの紛争が頻発し、各国の国境線は頻繁に書き換えられる。そのような一触即発の「火薬庫」でサラエボ事件が火を噴いた。
 

 オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア政府に対して宣戦を布告し、これをきっかけとして第一次世界大戦に発展することになる。当時のヨーロッパ列強は複雑な同盟・対立関係の中にあったため、サラエボ事件を契機に、各国の軍部は敵国の侵略に備え総動員を発令した。各国政府は開戦を避けるため力を尽くしたが、戦争の連鎖的発動を止めることができず、瞬く間に世界大戦へと発展した。
 

 サラエボは、東欧共産圏の崩壊と連動して、第二次大戦後に成立した「ユーゴスラビア連邦」が解体される過程でも、深刻な内戦に見舞われた。旧ユーゴスラビアは、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどが、ユーゴの中心であったセルビア共和国から分離する独立戦争という形で内戦となった。
 

 中でもセルビア寄りに位置するボスニア・ヘルツェゴビナは、最も大変な内戦を経ることになる。ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言するが、時の住民約430万人のうち、44%がボシュニャク人(ムスリム人)、33%がセルビア人、17%がクロアチア人と、異なる民族が混在していた。独立を推進するボシュニャク人(ムスリム人)とクロアチア人に対して、1/3を占めるセルビア人は、セルビアに戻って合体することを主張し、「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」と呼ばれた内戦となる。
 

 「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の悲惨を題材とした映画は、数多く創られた。中でも、ボスニアの女性監督ヤスミラ・ジュバニッチによって描かれた『サラエボの花(2006)』は、最も悲しく,最も悲惨で,そして最も美しい作品と称され、ベルリン国際映画祭金熊賞などいくつもの賞を獲得している。
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%8…
 

〇この年の出来事
*8.15/パナマ 大西洋から太平洋へ、基線が通り抜けた。苦難30年、パナマ運河開通。
*8.23/日 日本、ドイツに対して宣戦布告。
*10.14/南洋諸島 日本軍、ドイツ領南洋諸島を占領し、同盟国イギリスと「山分け」する。
*11.1/日 少年雑誌『少年倶楽部』創刊。発行元は「大日本雄弁会講談社」
*12.18/日 帝都交通の要「東京駅」が開業、ヨーロッパ風の赤煉瓦3階建て。
 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20170509

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