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ちょっといい話

データベース

真宗聖典検索 Web site

2020-04-22
東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。
このサイトは、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃事業の一つとして聖教編纂室にて取り組み、開設したサイトです。東本願寺出版発行の『真宗聖典』(初版)に収載されている聖教の本文の検索を行うことができます。使用方法については、このサイトについてをご覧ください。

https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

真宗聖典(S_JIS 版)検索システム--- 生まれた意義と生きる喜びを見つけよう! ---

2020-04-22
真宗聖典(S_JIS 版 msearch)検索エンジン
  • リンクフリーです。真宗聖典各ページへの直接リンクは、
    http://www5.synapse.ne.jp/syoukakuji/seiten/ページ数.htmlでOKです。
    直接、ページを見たい方は、検索エンジンにページ数を入力して下さい。

     http://cgi5.synapse.ne.jp/~syoukakuji/cgi-bin/perlsearch/perlsearch.cgi

 

『浄土真宗聖典』オンライン検索 浄土真宗聖典・検索システム | 原典版

2020-04-22
http://j-soken.jp/kensaku2.html

聖典電子研究会

2020-04-22
http://seiten.icho.gr.jp/

今、私達に出来る事

【Shows at Home】民衆の歌 / Do You Hear The People Sing ? - Les Miserables -

2020-07-30
https://youtu.be/0Eax4cw6QFA

民衆の歌 The People's Song 「レ・ミゼラブル」より 


https://youtu.be/MNIyjmd-LwI?list=RDMNIyjmd-LwI

◆ジャン・バルジャン/吉原光夫  
◆ジャベール/伊礼彼方
◆ファンテーヌ/濱田めぐみ    
◆エポニーヌ/昆 夏美
◆マリウス/海宝直人       
◆コゼット/生田絵梨花
◆アンジョルラス/小野田龍之介
◆テナルディエ/駒田 一・斎藤 司 
◆マダム・テナルディエ/森公美子
◆コンブフェール/中井智彦 
◆クールフェラック/持木悠
◆フイイ/杉浦奎介 

非常事態宣言が解除されました。

2020-06-02

非常事態宣言が解除されました。

2020-06-02

東京五輪「中止検討せざるを得ない」組織委顧問の千玄室氏 現状での開催に危機感

2020-06-01
延期された東京五輪・パラリンピックへの思いを語る千玄室前家元(京都市上京区)

新型コロナウイルスの感染拡大で1年延期された東京五輪・パラリンピックについて、大会組織委員会の顧問を務める茶道裏千家の千玄室前家元(97)が、京都新聞社の取材に応じた。千氏は「来年までに世界各国で収束しないと準備ができない」と話し、現状での五輪開催に危機感を示した。

 延期が発表された3月24日、安倍晋三首相と国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、中止はないと確認。一方で、組織委員会の森喜朗会長は、再延期は「絶対ない」との見方を示し、バッハ会長も今月、英BBC放送のインタビューで、来年開催されなかった場合、中止となる見通しを示している。



https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/263872?fbclid=IwAR0TSMWXC_ZhLFj9e23wDePy029e2OZhPYp_vf4dE9zdsrDcZ4nhIuDg-HY

関西でも宣言解除

2020-05-23
京都新聞 社説

社説:京都も宣言解除 油断せず冷静に行動を

  京都、大阪、兵庫の近畿3府県に発令されていた新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言が解除された。
  基本的対処方針で定められた解除基準の新規感染者数が抑えられ、医療提供体制やモニタリング体制も十分だと政府が判断した。
  安倍晋三首相が宣言の対象地域を全都道府県に拡大したのは4月16日。それから1カ月余り、京都のまちからもすっかりにぎわいが消えた。
解除は、感染拡大や医療崩壊を防ぐために多くの府民が休業や外出自粛などに真摯(しんし)に取り組んだ結果であり、朗報には違いない。
  だがウイルスが消滅したわけではなく、対策は長期化を覚悟する必要がある。安易に以前の生活に戻るのではなく、第2波、第3波への備えも強固にしなくてはならない。
  踏まえておきたいのは、このウイルスについて不明な点がまだ多いということだ。国内感染者数の実態すらはっきりしない。
  爆発的に感染が広がった欧米などと比べると抑えられているように見えるが、理由は分からない。
  政府が実情把握を急ぐべきなのは言うまでもない。そうした中で私たちに求められるのは過剰な楽観や悲観ではなく、まずは冷静な行動だろう。
  「新しい生活様式」も参考にしながら、密閉・密集・密接の「3密」を避ける取り組みを続ける必要がある。「正しく恐れる」ということを改めて思い起こしたい。     政府の宣言解除を受け、京都府はライブハウスなどの施設を除き、休業要請を解除することを決めた。独自の緩和基準を設けて今月16日から一部解除していた。
   政府は軽症者が療養する民間宿泊施設の借り上げなど医療体制強化に取り組んだ。授業再開に向けた環境整備など大学と学生の支援にも乗り出している。
 ただ観光や雇用といった面で、さまざまな困難が顕在化するのはむしろこれからだ。実情に応じて取り組みを柔軟に見直し、必要な対策を追加することが欠かせない。
 休業要請とともに中小企業に20万円、個人事業主に10万円を給付する支援策を打ち出したが、大阪府や東京都の支援とは金額的に大きな差がある。
 政府に対する緊急提言として、全国知事会は自治体向けの臨時交付金を最低でも総額3兆円とするよう増額を求めている。こうした動きとも歩調を合わせ、財源確保に努めるべきだ。

コロナ情報について

コロナに思う♯14 田中耕一氏 02年ノーベル化学賞 島津製作所

2020-05-11
https://youtu.be/VCoT2RE_IHI

政治学者の御厨貴氏(東京大学名誉教授)に、全国の知事の評価を聞いた。

2020-05-06
北海道鈴木、愛知大村は○、宮城△、石川、千葉、神奈川×、小池都政は? 政治学者・御厨貴「知事たちの通信簿 東日本編」
北海道の鈴木直道知事(39)
5Ixav9OJ5rAJIed2lDKPEjdThzUWyzRCOuCK0cRJhUzHK1huwcw6IFaCoV57io-_5oKpyPR1WeaN-n2R5tCFvQVF3-l1tGyTIWIS7_yAPVtVNw04G95fvYQHkJ-WAOGy5OH_F4bcn750ZFBQFlxwELygvomiQN_0UifQBmshkxur6TzKguaOmUUGS65Z7xmTUdP141iaXdCdCvQyYy82vKS2CIDVmg1DlCnU_Rxbkhvd0NykHgrnObQXX29ZAvisfX92njoPjqe_H76BFxl33-ykNDQF3zTAZ33hySk3N0wECt7wMPT3ovnZSD2Lyeb9_3CzqDkXsR61Enu_-2zYKu_bh3p-kSF4f3o1EzehO1AETCPM3uqWGYVMvTPPslNsKfnHCAZTyy-0RofSMXAvqzR8p0Q

内田樹の研究室   Facebook 桑門 超さんのシェアより  

2020-05-03
『隣組と攻撃性』 市民たちの相互監視が始まっている。

市民たちの相互監視が始まっている。

 GWの外出自粛を受けて、県外の車を煽ったり、傷をつけたりする事例が出ている。休業要請に従わず開業している店舗に落書きをしたり、備品に傷をつけたりする人も出て来た。
「こういうこと」ができるのは、「そういうことをしても許される社会的な空気」を彼らが感知しているからである。いまなら「そういうこと」をしても処罰されない、少なくとも「私は市民として当然の怒りに駆られたやったのだ」という自己正当化ができると知ると「そういうこと」をする人たちがいる。
 私はそういう人たちをこれまで何度も見て来た。前にも書いたが今度も繰り返す。
 私たちの社会は「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。
 人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかで正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。前に嫌韓言説について書いたときに私はこう書いた。読んだことがある人もいると思うが、大切なことなので再録する。

 嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。
 私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。
 私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという保証があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。
 最初は三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したのを見たことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業だから階級的鉄槌を下されて当然だ」という政治的言い訳を口にした。
 しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に鉄槌を下すべき資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。
 学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。
 私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。(ここまで)

 いま、コロナウィルスの感染が広がる中で、行政が明確な休業指令を出さず、民間の「自粛」の委ねてしまったせいで、「自粛に従わないものには市民が処罰を下してもよい」という口実で暴力行使の正当化をする人たちが出て来た。
 これは嫌韓言説に乗じて、市民生活の中では決して許容されないような卑劣で醜悪な攻撃性を発揮していた人たちと「同類」の人々である。「自粛」というあいまいな行政指導は市民たちの相互監視を督励する。そして、それは単なる監視にとどまらず、「自粛しない市民を攻撃しても処罰されない」という心証をかたちづくった。
 彼らはちゃんと法律が機能し、常識が有効であり、「世間の目」が光っているときなら、そんなことはしない人たちである。でも、少しでもその規制が緩むと、自分の中の攻撃性を抑制することができなくなる。
 そのことは例えばSNSで激しい攻撃的な言葉を書き送る人たちの多くが匿名であることから知れる。彼らは「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・自分の言動が処罰されない保証があると知れると、過剰に暴力的になる人間」である。そして、たぶん彼らは「あらゆる人間はそうだ」と思っている。でも、それは違う。世の中には、「自分が誰であるかを特定される気づかいがない時・処罰されるリスクがない時」でも、「お天道様」が見ているという自制を失わず、常識的に、ジェントルに、節度をもってふるまう人がいるからである。この人たちは「あらゆる人間が自分と同じだ」とはたぶん思っていない。でも、自分はそういう人間であり続けようと思っている。
 この二種類の人たちはいずれも少数派である。おそらくそれぞれ集団の10%内外だと思う(この辺の数字は私の経験知であるので、厳密ではない)。残りの80%はこのどちらが優勢であるかによってふるまい方を変える。
「どんなことがあっても穏やかに、市民的にふるまう人」はいつも同じようにふるまう。平時でも非常時でも変わらない。一方、「処罰するリスクがないときに過剰に暴力的になる人」は「処罰のリスク」という可変的な条件に従って、ふるまい方をがらりと変える。まったく違う人間に見えるほど変える。人が変わったように変わる。それが可視化されるかどうかは「処罰のリスク」というごく散文的な条件によるのである。
「外出自粛」は行政が明確な基準も、それに対するペナルティも示さなかったことによって、この人たちのうちに「今なら人を攻撃しても処罰されない」という確信を醸成した。
 いま、あちこちで罵声が聞こえる。スーパーの店員にどなりつけたり、ATMの列でどなりつけたりしている人たちは全員が「自分は社会的な正義を執行している」と思ってそうしているのである。今なら、どれほど暴力的になっても、それを正当化するロジックがあると思ってそうしているのである。だから、止められない。彼らを止める方法は一つしかない。 法律が機能し、常識が機能し、「世間の目」が機能するようにしておくことである。
 大阪では休業要請に従わない店名を公表するということが行われた。これは「この店に対してはどのような攻撃的なことをしても処罰されない」という保証を間接的に与えるものである。少なくともそういう解釈の余地を与えた。大阪府知事は、人間が条件次第でどれほどでも攻撃的になり得ること、その機会をつねに窺っているということを知らないか、あるいは知っているが知らないふりをしているのだと思う。市民が相互に監視し合い、相互に告発し合い、相互に攻撃し合う社会はおそらくある種の人々にとっては「管理コストが非常に安く上がる」社会に見えるのだろう。
 ゲシュタポはきわめて効率的に反政府的な人々を逮捕していったが、それは彼らの捜査能力が高かったからではない。逮捕者のほとんどは隣人の密告によるものだったからである。
 市民を相互監視させることによって統治コストは劇的に削減される。それは事実である。けれども、その代償として、「大義名分をかかげて隣人を攻撃し、屈辱感を与える」ことに熱中する人々の群れを解き放ってしまう。それがどれほど危険なことなのかについて、人々はあまりに警戒心がないと思う。

内田 樹(うちだ たつる)1950年生まれ。日本の思想家、武道家、翻訳家、神戸女学院大学名誉教授。 出典 http://ja.wikipedia.org/wiki/内田樹

銀座の鐘

2020-04-20
新型コロナ 厳しい勤務続く医療関係者に感謝の鐘 東京 銀座

感染拡大が続く新型コロナウイルスに対応するため、厳しい勤務が続く医療関係者に感謝を示そうと、東京 銀座の交差点では時計塔から鐘の音が流されました。

新型コロナウイルスに感染した人たちの治療に当たっている医師や看護師など、医療現場のスタッフに対して、イギリスでは毎週木曜の午後8時に一斉に拍手や口笛を送ったり、フランスではエッフェル塔に「ありがとう」を意味する「MERCI」のメッセージが映し出されたりするなど、感謝の気持ちを示す動きが世界各地で広がっています。

日本でも、感染のリスクにさらされるなど厳しい勤務状況が続く医療スタッフへの感謝の気持ちや感染拡大を防ぐために家で過ごそうというメッセージを伝えようと、20日から東京 銀座のデパートにある時計塔から「命の鐘」と題して、鐘の音が流されることになりました。

鐘の音は午後7時ちょうどから流され、緊急事態宣言が出され、ふだんより格段に人通りが少ない銀座の町なかに鳴り響きました。

鐘の音は、毎晩7時から流され、「YouTube」などでも配信される予定です。

企画した郷司望さんは、「一日に一度、一緒に医療関係者に感謝の気持ちを示すきっかけになれたらと思います」と話していました。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200420/k10012397281000.html

ダライラマ14世のメッセージ

2020-04-16
ダライ・ラマ法王からの新型コロナウイルスに関する特別メッセージ 2020年3月30日

親愛なる兄弟姉妹の皆様へ

世界中の多くの方々からの度重なる要請に応えて、私の思いを記したいと思います。新型コロナウイルス(COVID-19)の発生により、今、私たちは大変な苦難の最中にあります。

新型コロナウイルスの問題に加え、人類は、極度の気候変動といったさまざまな問題に直面しています。この場をお借りして、インド政府をはじめ、こうした問題に懸命に取り組んでおられる世界中の政府に称賛と感謝の念を表明したいと思います。

古代インドの伝統は、時間の経過にともなう世界の創造、持続、破壊について説明しています。そのような破壊の原因の中には武器や病気があると書かれており、これは、私たちが今まさに経験していることと一致しているように思われます。しかしながら、どれほど大きな脅威に直面しようとも、人間を含めた生きとし生けるものは、生き抜くために素晴らしい能力を発揮してきました。

いかに困難な状況であろうとも、私たちは科学技術と人智を尽くして決断し、勇気をもって、立ちはだかる問題を乗り越えなければなりません。健康と幸福が脅かされているのですから、不安や恐れを感じるのは当然です。とはいえ、目の前の問題をどのように捉えるべきかについては、私は次の賢明な助言に大きな慰めを得ています。「もし、改善策があるならば、心配せずそれを実行しなさい。しかし、何も改善策がなければ、それ以上心配しても何の役にも立ちません」

現在、新型コロナウイルスの拡大を防ぐためにだれもが最善を尽くしています。私は、ウイルスの脅威を最小限に抑えるために国家間で協調した努力がなされていることを、心より称えたいと思います。とりわけ、インドの主導権のもとに南アジア地域協力連合の国々が緊急基金を設立し、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐための情報、知識、専門技術を交換するための電子プラットフォームを立ち上げたことは素晴らしい取り組みだと思います。これは、将来、このような危機に対処する際にも良き手本となることでしょう。

私は、世界各地で都市封鎖の必要が生じた結果として、多くの方々が収入を失い、大変な困難に直面しておられることも理解しています。安定した収入のない方々が生きていくには、毎日が闘いです。こうした弱い立場にある方々にできるかぎりの配慮がなされるよう、私はすべての関係者の方々に、切にお願いしたいと思います。

また私は、自らの命を大きな危険に晒しながら、人命救助の最前線で働いておられる医師や看護師、その支援業務に携わるすべての方々に、心より深い感謝の念を捧げます。彼らの奉仕活動は、まさに慈悲の心の実践にほかなりません。

苦難の最中にある世界中の兄弟姉妹の皆様のことを深く心に想い、私は、この世界的な感染症が一刻も早く終息し、平和と幸福が一日も早く戻るよう祈りを捧げたいと思います。

祈りを込めて


ダライ・ラマ

特別メッセージ

仰せを蒙りて

Facebook 大谷派における学事の潮流

2020-05-05

近代の学制改革

2020-08-03

【19th Century Chronicle 1872年(m5)】
 

◎学校制度の刷新

(東京大学の創設)
*1872.旧3.13/東京 明治天皇が、大学東校(現東京大学)に行幸、学校行幸の始めとなった。
 

 東京大学の系譜は、学制の確立していない時期の最初の官学だけに、きわめて錯綜した流れをとった。江戸幕府直轄の教学機関として昌平坂学問所(昌平黌)があり、儒教朱子学を正規の学問とした学問所であった。明治になると「昌平学校」と改称され、さらに高等教育および学校行政を担当する「大学校(本校)」として、高等教育の中枢に据えようとしたが、儒学派・国学派の内紛で廃止されることになる。
 

 神田湯島聖堂に位置した昌平学校は、大学本校として「東京大学」の源流ではあったが、本体としては廃校とされたため、学問的に継承されることはなかった。むしろ、この地に併設された「東京師範学校」や「東京女子師範学校」が、それぞれ後の「東京教育大学(現筑波大学)」と「お茶の水女子大学」の源流となった。「お茶の水」の名称は湯島・お茶の水に由来する。
 
 
 昌平学校に代って東京大学の実質的源流となったのは、「大学南校」と「大学東校」であった。幕府の蕃書調所に起源をもち、「開成学校」とされたものが「大学南校」となった。その流れから洋書・洋学を扱い、主として外国語と、その内容から文・理にわたる洋学の中心であり、現行の法文理三学部の母体となった。
 

 一方、幕府の医学所に始まる「医学校」は、「大学東校」に改称されるとともに西洋医学にシフトしたが、当初のイギリス医学からドイツ医学中心の医学に変更し、その後の日本医学のドイツ医学重視の流れを決定づけた。南校と東校はそれぞれ「東京開成学校」「東京医学校」と名称変更したあと、明治10(1877)年、法・理・文・医4学部よりなる「旧東京大学」に統合改編された。

東京大学沿革略図 http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/b03_02_j.html 
 

(学制整備)
*1872.旧4.14/京都 京都に「新英学級及女紅場」が開設される。この最初の女紅場は女学校の前身とされ、のち京都府立「京都第一高等女学校」を経て、現在は京都府立「鴨沂(おおき)高等学校」となっている。「女紅場(女工場)」は、女子に対する手芸の教授施設として、以後、全国各地に設置された。
*1872.旧4.15/ 東京芝増上寺内に「開拓使仮学校」が設置された。当初から北海道開拓に当たる人材の育成を目指し、明治8(1875)年、札幌学校として札幌に移転、以後、「札幌農学校」と改称して現「北海道大学」の前身となった。
*1872.旧5.29/東京 教員養成を目的に「師範学校」が創設される。]
*1872.旧8.2/ 国民皆学をめざして「学制」が公布される。「大学・中学・小学」の3段階の学校制度を設け、それぞれ学区が定められた。
 「学制」は、明治5(1872)年8月2日に発された、日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令であり、全国を学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を設置することを計画し、身分・性別に区別なく国民皆学を目指した。「教育令」の公布により、1879(m12)年9月29日に改変された。
 

(明治改暦/太陽暦の採用)
*1872.旧11.9/ 太陽暦の採用を布告する。太陰暦明治5年12月3日を明治6(1873)年1月1日とする。
 

 明治5年11月9日、「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」とする改暦ノ布告が公布された。それまで「太陰太陽暦(天保暦)」が使用されていたが、「明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする」(グレゴリオ暦1873年1月1日)と定められた。
 

 公布から1カ月の猶予もなく性急な新暦導入が行われたのは、明治政府の財政状況が逼迫していたことが、その理由とされる。旧暦のままだと明治6年は閏月があり、13か月となっていて、月給制に移行した官吏への報酬が年間13回支給となる。そこで、新暦を導入して12か月とし、しかも明治5年12月は2日しかなく支給無しとし、結局月給は11か月分で済ますことになった。新暦導入により新政府は窮地を脱したが、はたしてこれで、給与生活者は損をしたのかどうか(笑)
 

(この年の出来事)
*1872.旧1.29/ 初めて全国戸籍調査が実施される。この調査で、人口は3311万825人とされた。(壬申戸籍)
*1872.旧3.10/京都 第一回京都博覧会が、本願寺・知恩院・建仁寺を会場として開かれる。13日には余興として、都踊り・鴨川踊り・東山名所踊りの共演があり、都踊りは片山春子(三代目井上八千代)に企画され、祇園歌舞練場で毎年続く行事となった。以後、京都博覧会は毎年開催された。
*1872.旧7.19/東京 参議西郷隆盛が陸軍元帥となり、近衛都督を兼務する。
*1872.旧9.12/ 新橋-横浜間に日本最初の鉄道が開通し、開業式が挙行された。
*1872.旧10.4/群馬 官営富岡製糸工場が開業する。フランス製機械を導入して、機械製糸工場の初めとなった。
 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/08/19cm11872m5.html

江戸幕府直轄の教学機関として昌平坂学問所

学制改革

2020-08-18
宮城・石川 文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決める。
図画取調掛を「東京美術学校」と改める。
音楽取調掛を「東京音楽学校」と改める。

【19th Century Chronicle 1887年(m20)】

◎学校制度の整備
*1887.4.18/宮城・石川 文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決める。
*1887.10.5/ 文部省が図画取調掛を「東京美術学校」
音楽取調掛を「東京音楽学校」と改める。(のちに統合され、現「東京芸術大学」となる)

 

 1887年(明治20年)、文部省が仙台に第二高等中学校、金沢に第四高等中学校の設立を決め、さらに熊本に第五高等中学校の設立が決まる。前年、東京に第一、京都に第三高等中学校が設立されており、1894年(明治27年)の高等学校令により、それぞれが「高等学校」となる。いわゆる旧制高等学校の「ナンバースクール」の陣容が整った。(別表一覧参照)
 

 同1884年、文部省内に「図画取調掛」が設置され、岡倉覚三(天心)・フェノロサが西欧の図画教育の実態調査を委嘱され、欧州の調査旅行に派遣された。2人の報告に基き、1887年10月、日本最初の美術教員・美術家養成のための機関として「東京美術学校」が設立された。
 

 同時に、文部省の「音楽取調掛」もまた「東京音楽学校」に改組され、日本の音楽教育を担う機関となった。東京美術学校が、伝統的日本美術の保護が学校のルーツであったのに対し、東京音楽学校のルーツは西洋音楽の輸入であったが、以後、両者とも和洋の伝統をふまえた芸術を担うことになった。
 

 旧制専門学校「東京美術学校」と「東京音楽学校」は、日本で最も歴史ある芸術分野の最高学府として位置づけられたが、戦後の学制改革にともない、1949年(昭和24年)、「東京美術学校」と「東京音楽学校」は統合され、新制「東京芸術大学」となった。
 

(この年の出来事)
*1887.10.3/ 後藤象二郎が丁亥倶楽部を設立し、民権運動諸団体を糾合して「大同団結運動」を起こす。(10.4 各党派の有志が協議)
*1887.10.-/ 高知県の片岡健吉らが、地租軽減・言論集会の自由・外交失策の挽回の「三大事件建白書」を元老院に提出する。
*1887.12.25/ 保安条例施行。民権運動活動家570名が皇居外3里以遠の地への退去を余儀なくされる。
*1887.6.7/長崎 長崎造船所が三菱に払い下げられる。(のちの三菱造船所)
*1887.6.15/東京 大橋佐平が「博文館」を創業し、「日本大家論集」を出版する。
 

*ブログで読む>https://ehimosesu2nd.blogspot.com/2020/08/19cm21887m20.html

『香月院語録』 法蔵館

2020-05-05
大谷派の教学は、学寮での宗学をその源流とします。
https://jodo-shinshu.info/2020/02/27/21913/
香月院深励師似影(永臨寺所蔵)

雑行を捨てて、弥陀をたのむ

2020-08-16
憑 ①よる。かかる。よりかかる。類凭(ヒョウ) ②つく。たのむ。とりつく。「憑依」 ③かちわたる。川を徒歩で渡る。「憑河」
揮毫は、池田勇諦先生です。

お釈迦様の話

釈尊の生涯と教え

2020-04-19
https://youtu.be/EvjMcWZGzQg?list=PLERGeJGfknBQ5l6kTs05lLYDa_4FGOlAF
中村元 - ブッダの生涯 【HD】
https://youtu.be/NWZtkxP3eGg
仏教の本質 哲学者「中村元」

ブッダ 最期のことば 1.2.3.4.

2020-06-14
https://youtu.be/Lbw-AnzrjdY

釈尊のお説法

2020-04-07

『スッタニパータ』(原始仏典) 大谷大学HP「きょうのことば」2019年2月より

2020-09-03
 言葉の力は絶大です。言語が文化を形成し、言論が歴史を動かした事実もさることながら、私たちの日常においても、言葉の力はあらゆるところに見受けられます。誰かの言動に深く傷ついた経験のない人はいないでしょう。無作為に放たれた言葉が私に刺さり、生きる気力まで奪われてしまうこともあります。その一方で、確かな言葉に勇気を与えられることもあります。つまり、言葉には言葉以上のものが宿るのです。
 仏教は古来より、言葉の力に細心の注意を払ってきました。言葉が私にもたらす作用を注視し、「行動」や「思考」と並んで、「言葉」が自分を作り上げると考えてきました(身(しん)口(く)意(い)の三業)。なぜなら、この三者は相互に深く結びつき、私が考えること、話すこと、行動することが一体となって、「自分」という存在を練り上げるからです。また、発話行為というものは当人の内的な成熟度を如実に表しますが、言葉は私の内面から表出したものであるにもかかわらず、私にはその力を制御することができません。言葉は、発話者の予想を超えたはたらきをするのです。

 したがって、このことばは「言葉づかいに気をつけよう」という道徳の話に留まるものではありません。同じ経典に「ひとは生まれると口に斧(おの)が生える」とも説かれるように、悪意ある言葉は文字通り他人を傷つけます。そうした言葉は、発言した後に「しまった」と後悔をもたらし舌禍(ぜっか)を招くだけでなく、やがて内側から自己を侵食し(思考と行動に影響を及ぼし)、少しずつ自己を苦しめます。そして何より、悪意ある言葉は人に刺さったまま容易には抜けず(消えず)、人の尊厳を踏みにじり続けるのです。
 特定の人を攻撃することで耳目を引こうとする近年の言論活動を見る限り、この社会には暴言や罵詈雑言(ばりぞうごん)を求める気分があると言えます。また、言葉が次々と消費される流れに比例し、たったひとつの失言からその発言者の人格までを否定しようとする態度も見受けられます。相手の言葉尻をあげつらい、その言葉の背後にいる人間の姿を見ようとしない傾向のことです。何事につけ社会に向けて発言することが容易になると同時に、言葉が軽視され、言葉の重みが見失われつつある状況の只中に、私たちは立っています。
 こうした点から、自身が語ろうとするその言葉に、より一層の注意を払う必要があることは間違いありません。今一度、「私は私が語る言葉の力を完全には制御できない」という事実を思い起こす時が来たのではないでしょうか。

「降魔」とは、

2020-10-07
京都市左京区 一乗寺降魔不動明王
Facebook塚本光榮さんの投稿
「降魔」とは、マ―ラ(悪魔)を降参させる、または、マ―ラ(悪魔)を退け勝利するという意味を持つのだそうです。お釈迦様が悟りを開くのを邪魔するために、マ―ラ(悪魔)の軍勢が攻撃してきた時、お釈迦様は、マ―ラの軍勢を退け、勝利し悟りを開かれたそうです。不動明王様の右手に持っておられる「俱利伽羅剣」は、仏の叡智によって、迷いや邪悪な心を断ち切ることを表す密教の法具だそうです。後光のように彫られている炎は「迦楼羅焔」といい、「迦楼羅天(仏教の守護神)」の吐き出す火炎であり、毒になるものをすべて焼きつくすのだそうです。私の悩みを焼き尽くして救済してくれそうです

ちょっといい話

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米国連邦議会上下両院合同会議における安倍総理大臣演説 「希望の同盟へ」 (2015年4月29日(米国東部時間))

2020-08-30

はじめに

 議長、副大統領、上院議員、下院議員の皆様、ゲストと、すべての皆様、
 1957年6月、日本の総理大臣としてこの演台に立った私の祖父、岸信介は、次のように述べて演説を始めました。
 「日本が、世界の自由主義国と提携しているのも、民主主義の原則と理想を確信しているからであります」。
 以来58年、このたびは上下両院合同会議に日本国総理として初めてお話する機会を与えられましたことを、光栄に存じます。お招きに、感謝申し上げます。
 申し上げたいことはたくさんあります。でも、「フィリバスター」をする意図、能力ともに、ありません。
 皆様を前にして胸中を去来しますのは、日本が大使としてお迎えした偉大な議会人のお名前です。
 マイク・マンスフィールド、ウォルター・モンデール、トム・フォーリー、そしてハワード・ベイカー。
 民主主義の輝くチャンピオンを大使として送って下さいましたことを、日本国民を代表して、感謝申し上げます。
 キャロライン・ケネディ大使も、米国民主主義の伝統を体現する方です。大使の活躍に、感謝申し上げます。
 私ども、残念に思いますのは、ダニエル・イノウエ上院議員がこの場においでにならないことです。日系アメリカ人の栄誉とその達成を、一身に象徴された方でした。

アメリカと私

 私個人とアメリカとの出会いは、カリフォルニアで過ごした学生時代にさかのぼります。
 家に住まわせてくれたのは、キャサリン・デル-フランシア夫人。寡婦でした。亡くした夫のことを、いつもこう言いました、「ゲイリー・クーパーより男前だったのよ」と。心から信じていたようです。
 ギャラリーに、私の妻、昭恵がいます。彼女が日頃、私のことをどう言っているのかはあえて聞かないことにします。
 デル-フランシア夫人のイタリア料理は、世界一。彼女の明るさと親切は、たくさんの人をひきつけました。その人たちがなんと多様なこと。「アメリカは、すごい国だ」。驚いたものです。
 のち、鉄鋼メーカーに就職した私は、ニューヨーク勤務の機会を与えられました。
 上下関係にとらわれない実力主義。地位や長幼の差に関わりなく意見を戦わせ、正しい見方なら躊躇なく採用する。
 ――この文化に毒されたのか、やがて政治家になったら、先輩大物議員たちに、アベは生意気だと随分言われました。

アメリカ民主主義と日本

 私の苗字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。
 農民大工の息子が大統領になれる――、そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。
 日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。

第二次大戦メモリアル

 先刻私は、第二次大戦メモリアルを訪れました。神殿を思わせる、静謐な場所でした。耳朶を打つのは、噴水の、水の砕ける音ばかり。
 一角にフリーダム・ウォールというものがあって、壁面には金色の、4000個を超す星が埋め込まれている。
 その星一つ、ひとつが、斃れた兵士100人分の命を表すと聞いたとき、私を戦慄が襲いました。
 金色(こんじき)の星は、自由を守った代償として、誇りのシンボルに違いありません。しかしそこには、さもなければ幸福な人生を送っただろうアメリカの若者の、痛み、悲しみが宿っている。家族への愛も。
 真珠湾、バターン・コレヒドール、珊瑚海…、メモリアルに刻まれた戦場の名が心をよぎり、私はアメリカの若者の、失われた夢、未来を思いました。
 歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。私は深い悔悟を胸に、しばしその場に立って、黙祷を捧げました。
 親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます。

かつての敵、今日の友

 みなさま、いまギャラリーに、ローレンス・スノーデン海兵隊中将がお座りです。70年前の2月、23歳の海兵隊大尉として中隊を率い、硫黄島に上陸した方です。
 近年、中将は、硫黄島で開く日米合同の慰霊祭にしばしば参加してこられました。こう、仰っています。
 「硫黄島には、勝利を祝うため行ったのではない、行っているのでもない。その厳かなる目的は、双方の戦死者を追悼し、栄誉を称えることだ」。
 もうおひとかた、中将の隣にいるのは、新藤義孝国会議員。かつて私の内閣で閣僚を務めた方ですが、この方のお祖父さんこそ、勇猛がいまに伝わる栗林忠道大将・硫黄島守備隊司令官でした。
 これを歴史の奇跡と呼ばずして、何をそう呼ぶべきでしょう。
 熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました。スノーデン中将、和解の努力を尊く思います。ほんとうに、ありがとうございました。

アメリカと戦後日本

 戦後の日本は、先の大戦に対する痛切な反省を胸に、歩みを刻みました。自らの行いが、アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目をそむけてはならない。これらの点についての思いは、歴代総理と全く変わるものではありません。
 アジアの発展にどこまでも寄与し、地域の平和と、繁栄のため、力を惜しんではならない。自らに言い聞かせ、歩んできました。この歩みを、私は、誇りに思います。
 焦土と化した日本に、子ども達の飲むミルク、身につけるセーターが、毎月毎月、米国の市民から届きました。山羊も、2,036頭、やってきました。
 米国が自らの市場を開け放ち、世界経済に自由を求めて育てた戦後経済システムによって、最も早くから、最大の便益を得たのは、日本です。
 下って1980年代以降、韓国が、台湾が、ASEAN諸国が、やがて中国が勃興します。今度は日本も、資本と、技術を献身的に注ぎ、彼らの成長を支えました。一方米国で、日本は外国勢として2位、英国に次ぐ数の雇用を作り出しました。

TPP

 こうして米国が、次いで日本が育てたものは、繁栄です。そして繁栄こそは、平和の苗床です。
 日本と米国がリードし、生い立ちの異なるアジア太平洋諸国に、いかなる国の恣意的な思惑にも左右されない、フェアで、ダイナミックで、持続可能な市場をつくりあげなければなりません。
 太平洋の市場では、知的財産がフリーライドされてはなりません。過酷な労働や、環境への負荷も見逃すわけにはいかない。
 許さずしてこそ、自由、民主主義、法の支配、私たちが奉じる共通の価値を、世界に広め、根づかせていくことができます。
 その営為こそが、TPPにほかなりません。
 しかもTPPには、単なる経済的利益を超えた、長期的な、安全保障上の大きな意義があることを、忘れてはなりません。
 経済規模で、世界の4割、貿易量で、世界の3分の1を占める一円に、私達の子や、孫のために、永続的な「平和と繁栄の地域」をつくりあげていかなければなりません。
 日米間の交渉は、出口がすぐそこに見えています。米国と、日本のリーダーシップで、TPPを一緒に成し遂げましょう。

強い日本へ、改革あるのみ

 実は…、いまだから言えることがあります。
 20年以上前、GATT農業分野交渉の頃です。血気盛んな若手議員だった私は、農業の開放に反対の立場をとり、農家の代表と一緒に、国会前で抗議活動をしました。
 ところがこの20年、日本の農業は衰えました。農民の平均年齢は10歳上がり、いまや66歳を超えました。
 日本の農業は、岐路にある。生き残るには、いま、変わらなければなりません。
 私たちは、長年続いた農業政策の大改革に立ち向かっています。60年も変わらずにきた農業協同組合の仕組みを、抜本的に改めます。
 世界標準に則って、コーポレート・ガバナンスを強めました。医療・エネルギーなどの分野で、岩盤のように固い規制を、私自身が槍の穂先となりこじあけてきました。
 人口減少を反転させるには、何でもやるつもりです。女性に力をつけ、もっと活躍してもらうため、古くからの慣習を改めようとしています。
 日本はいま、「クォンタム・リープ(量子的飛躍)」のさなかにあります。
 親愛なる、上院、下院議員の皆様、どうぞ、日本へ来て、改革の精神と速度を取り戻した新しい日本を見てください。
 日本は、どんな改革からも逃げません。ただ前だけを見て構造改革を進める。この道のほか、道なし。確信しています。

戦後世界の平和と、日本の選択

 親愛なる、同僚の皆様、戦後世界の平和と安全は、アメリカのリーダーシップなくして、ありえませんでした。
 省みて私が心から良かったと思うのは、かつての日本が、明確な道を選んだことです。その道こそは、冒頭、祖父の言葉にあったとおり、米国と組み、西側世界の一員となる選択にほかなりませんでした。
 日本は、米国、そして志を共にする民主主義諸国とともに、最後には冷戦に勝利しました。
 この道が、日本を成長させ、繁栄させました。そして今も、この道しかありません。

地域における同盟のミッション

 私たちは、アジア太平洋地域の平和と安全のため、米国の「リバランス」を支持します。徹頭徹尾支持するということを、ここに明言します。
 日本は豪州、インドと、戦略的な関係を深めました。ASEANの国々や韓国と、多面にわたる協力を深めていきます。
 日米同盟を基軸とし、これらの仲間が加わると、私たちの地域は格段に安定します。
 日本は、将来における戦略的拠点の一つとして期待されるグアム基地整備事業に、28億ドルまで資金協力を実施します。
 アジアの海について、私がいう3つの原則をここで強調させてください。
 第一に、国家が何か主張をするときは、国際法にもとづいてなすこと。第二に、武力や威嚇は、自己の主張のため用いないこと。そして第三に、紛争の解決は、あくまで平和的手段によること。
 太平洋から、インド洋にかけての広い海を、自由で、法の支配が貫徹する平和の海にしなければなりません。
 そのためにこそ、日米同盟を強くしなくてはなりません。私達には、その責任があります。
 日本はいま、安保法制の充実に取り組んでいます。実現のあかつき、日本は、危機の程度に応じ、切れ目のない対応が、はるかによくできるようになります。
 この法整備によって、自衛隊と米軍の協力関係は強化され、日米同盟は、より一層堅固になります。それは地域の平和のため、確かな抑止力をもたらすでしょう。
 戦後、初めての大改革です。この夏までに、成就させます。
 ここで皆様にご報告したいことがあります。一昨日、ケリー国務長官、カーター国防長官は、私たちの岸田外相、中谷防衛相と会って、協議をしました。
 いま申し上げた法整備を前提として、日米がそのもてる力をよく合わせられるようにする仕組みができました。一層確実な平和を築くのに必要な枠組みです。
 それこそが、日米防衛協力の新しいガイドラインにほかなりません。昨日、オバマ大統領と私は、その意義について、互いに認め合いました。皆様、私たちは、真に歴史的な文書に、合意をしたのです。

日本が掲げる新しい旗

 1990年代初め、日本の自衛隊は、ペルシャ湾で機雷の掃海に当たりました。後、インド洋では、テロリストや武器の流れを断つ洋上作戦を、10年にわたって支援しました。
 その間、5万人にのぼる自衛隊員が、人道支援や平和維持活動に従事しました。カンボジア、ゴラン高原、イラク、ハイチや南スーダンといった国や、地域においてです。
 これら実績をもとに、日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そう決意しています。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現します。
 国家安全保障に加え、人間の安全保障を確かにしなくてはならないというのが、日本の不動の信念です。
 人間一人ひとりに、教育の機会を保障し、医療を提供し、自立する機会を与えなければなりません。紛争下、常に傷ついたのは、女性でした。わたしたちの時代にこそ、女性の人権が侵されない世の中を実現しなくてはいけません。
 自衛隊員が積み重ねてきた実績と、援助関係者たちがたゆまず続けた努力と、その両方の蓄積は、いまやわたしたちに、新しい自己像を与えてくれました。
 いまや私たちが掲げるバナーは、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」という旗です。
 繰り返しましょう、「国際協調主義にもとづく、積極的平和主義」こそは、日本の将来を導く旗印となります。
 テロリズム、感染症、自然災害や、気候変動――。日米同盟は、これら新たな問題に対し、ともに立ち向かう時代を迎えました。
 日米同盟は、米国史全体の、4分の1以上に及ぶ期間続いた堅牢さを備え、深い信頼と、友情に結ばれた同盟です。
 自由世界第一、第二の民主主義大国を結ぶ同盟に、この先とも、新たな理由付けは全く無用です。それは常に、法の支配、人権、そして自由を尊ぶ、価値観を共にする結びつきです。

未来への希望

 まだ高校生だったとき、ラジオから流れてきたキャロル・キングの曲に、私は心を揺さぶられました。
 「落ち込んだ時、困った時、...目を閉じて、私を思って。私は行く。あなたのもとに。たとえそれが、あなたにとっていちばん暗い、そんな夜でも、明るくするために」。
 2011年3月11日、日本に、いちばん暗い夜がきました。日本の東北地方を、地震と津波、原発の事故が襲ったのです。
 そして、そのときでした。米軍は、未曾有の規模で救難作戦を展開してくれました。本当にたくさんの米国人の皆さんが、東北の子供たちに、支援の手を差し伸べてくれました。
 私たちには、トモダチがいました。
 被災した人々と、一緒に涙を流してくれた。そしてなにものにもかえられない、大切なものを与えてくれた。
 ――希望、です。
 米国が世界に与える最良の資産、それは、昔も、今も、将来も、希望であった、希望である、希望でなくてはなりません。
 米国国民を代表する皆様。私たちの同盟を、「希望の同盟」と呼びましょう。アメリカと日本、力を合わせ、世界をもっとはるかに良い場所にしていこうではありませんか。
 希望の同盟――。一緒でなら、きっとできます。
 ありがとうございました。

2020年の夏は、甲子園大会のない夏でした。

2020-08-17
龍谷大平安高校は、浄土真宗本願寺派の宗門学校、野球の伝統校であります。

日本国内閣総理大臣の系譜

2020-08-16

【19th Century Chronicle 1885年(m18)】

◎初代総理大臣 伊藤博文
*1885.12.22/ 太政官制が廃止され、内閣総理大臣と各大臣が置かれ、内閣が構成される。初代総理大臣に伊藤博文が就任する。(内閣制度の確立)
 

 慶応3年(1868年1月3日)に「王政復古の大号令」が出されると、江戸幕府の体制に代わる政治体制の確立が急務となった。まずは、総裁(有栖川宮熾仁親王)、議定(皇族2名・公卿3名・薩摩・尾張・越前・安芸・土佐の各藩主の計10名)、参与(公卿5名、議定5藩より各3名の計20名)の「三職制」が定められた。
 

 戊辰戦争終了後の明治2年(1869年)に「版籍奉還」が実施されると、諸藩は政府の地方機関として位置付けられるなど、大きな情勢変化に対応するため、新しい「太政官制」が導入された。これは、古代の律令制以来の太政官を復活させるという復古的な官制であった。
 

 そもそも明治維新の「維新」は"Restoration"(王政復古)意味し、復古的な性格を持っていた。武家政権の将軍職から、天皇親政へと「復古」することを強調したためであろう。形骸化していたとはいえ、太政官制は江戸時代も継承されており、いざ新制度となっても、蓋を開けてみると右大臣に三条実美、大納言に岩倉具視と徳大寺実則がつくなど、主要官職を皇族と公家が独占するありさまであった。
 

 その後調整を加えながら、明治4年(1871年)「廃藩置県」が断行されると、正院(中央政府)・左院(諮問機関)・右院(調整機関)が設置され、人事面でも、太政大臣に三条実美、参議に西郷・木戸・大隈・板垣が就任して、これに岩倉具視と万里小路博房が政府内に留まった以外の他の公家・諸侯は排除された。
 

 これによって、天皇が親裁し、太政官以下三大臣がこれを補佐し、参議・卿を指揮するという「明治の太政官制」の基本形式が確立された。それと同時に、実質薩長土肥出身者によるいわゆる藩閥政治の原点も確立されることになった。その後、大久保利通が、巨大官僚組織の「内務省」を設立し、自ら内務卿に就任すると、絶大な権力で内政を専管し、一方で殖産興業政策をも担当し、日本近代化を推進する一元的な官僚機構となった。
 

 西南の役で西郷が敗死、木戸孝允は病死、翌年には大久保利通が暗殺され、維新の三傑亡きあと、伊藤博文が内務卿を引き継ぎ、その後の政府指導者の中心となった。自由民権運動が高まり、「国会開設の勅諭」が出されると、重鎮岩倉具視の意を受けて、憲法発布・国会開設の準備に奔走する。このような立憲主義体制へ移行するためには、それに先だって、太政官制に替わる「内閣制度」の創設が必要とされた。
 

 1885年(明治18年)12月「太政官達第69号」が発せられ、それまでの太政官制を廃して、内閣総理大臣と各省大臣からなる「内閣制」が定められ、ここに内閣制度が始まった。そして、初代の内閣総理大臣には、長州藩出身で参議であった「伊藤博文」が就任した(第1次伊藤内閣)。
 

 太政大臣は公卿が就任する慣例があり、太政官制制定以来、三条実美が務めてきたが、征韓論で政府内で意見が対立した時には、板挟みになり卒倒するなど、公家として如何にも線が細すぎた。そこで、大久保亡きあと、実質的に宰相として政府を仕切って来た伊藤博文が選ばれた。
 

 伊藤博文は以降4度組閣し、大日本憲法発布、帝国議会開設、日清日露の戦役などの重要な時期に、政府の中心的存在として采配した。初代韓国統監として朝鮮経営を確立して退任したあと、ハルビン駅で暗殺されるまで、明治期を通じて政府で重要な役割を果たした。

本日は終戦記念日、あれから75年が経ちました。

2020-08-15
Facebook新保和吉
 
おはようございます。今日は終戦記念日ですが先の太平洋戦争では、今では考えられないような大変な犠牲・惨禍・悲惨がありました。
故郷に可愛い子供や妻を残して、遠く離れた戦地で悲惨な最期となった人を思うと心が痛みます。

先人が残してくれたこの平和な日本で、私たちが食べ物に不自由せず平和に暮せることをとても感謝しています。

今日は御苦労された先人に感謝しつつ、戦争の悲惨さと平和の有り難さをかみしめて、正午には静かに黙祷し頭を下げたいと思います。

ここで泥沼に嵌ってしまいました。

2020-08-17
戦闘は拡大し事実上の戦争となったが、双方とも宣戦布告は行わず「事変」と呼んだ。
中国では一般的に「七七事変」と呼ばれるが、これ以降、日本は十五年戦争とも呼ばれる長い戦争に入り込んでゆく。

『Get Back! 30's / 1937年(s12)』

◎日中戦争
*1937.7.7 [中国] 北京郊外の盧溝橋付近で数発の銃声が響き、8日、日中両軍が衝突する。(盧溝橋事件)
*1937.8.13 [中国] 上海で海軍陸戦隊と中国軍が交戦を開始。(第二次上海事件)
*1937.12.10 [中国] 日本軍が南京総攻撃を開始。13日、南京を占領する。(南京事件)
 

 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍の衝突し、これが「日中戦争」の始まりとされる。日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、何者が発砲したかについては定かになっていない。この時の第1次近衛内閣は不拡大方針を閣議で確認し、現地に事態収拾を指示し一旦停戦が成立しつつあったが、蒋介石が師団を派遣するとの情報に対抗し、近衛は「北支派兵声明」を発表し停戦は困難となった。
 

 紛争が勃発した当初、日本側は「北支事変」と称し地域紛争に収めようとしたが、やがて戦闘が上海にまで拡大すると「支那事変」と命名した。戦闘は拡大し事実上の戦争となったが、双方とも宣戦布告は行わず「事変」と呼んだ。中国では一般的に「七七事変」と呼ばれるが、これ以降、日本は十五年戦争とも呼ばれる長い戦争に入り込んでゆく。
 

 戦線は上海に飛び火し「第二次上海事変」が起こると、日本軍はさらに蒋介石国民党政府のある南京まで攻略する。この南京陥落のときの「南京大虐殺」は、後の東京裁判で非人道的行為として責任を追及される。さらに国民党政府は、武漢をへて四川省奥地の重慶にまで移動したので、日本軍は険しい立地の重慶を攻略するために、200回を超える「重慶爆撃」を行った。これもまた東京裁判で、ナチスドイツ軍の「ゲルニカ爆撃」に匹敵する無差別大量殺戮であるとして弾劾された。
 

*この年
千人針と慰問袋作り盛ん/出征のぼりや小旗の需要伸び旗屋繁盛/普通乗用車5万台突破(戦前最高)
【事物】プラネタリウム/プラスチック什器/人間ドック/戦争玩具
【流行語】パーマネントはやめましょう/馬鹿は死ななきゃなおらない/銃後
【歌】人生の並木道(ディック・ミネ)/青い背広で(藤山一郎)/別れのブルース(淡谷のり子)
【映画】裸の町(内田吐夢)/真実一路(田坂具隆)/人情紙風船(山中貞夫)/女だらけの都(仏)/オーケストラの少女(米)
【本】山本有三「路傍の石」(朝日新聞)/石坂洋次郎「若い人」/川端康成「雪国」/火野葦平「糞尿譚」

 

*ブログで読む>https://naniuji.hatenablog.com/entry/20161010

あの人、この人

堂本印象

2020-09-05
 
平野 めぐみ
おはようございます。9月になって初めての週末です。昨日は福井県での地震があったり、相変わらず暑さは残っていたり、急な雷雨があったりで気持ちがざわつく1日でした。今日も台風10号が北上中です。くれぐれもお気をつけてください。
昨日は、応仁の乱以来、550年ぶりに神仏習合で、京都・北野天満宮に延暦寺の僧侶訪れ「北野御霊会」が開催されました。
明治の神仏分離で、神社と寺院は別々のものとされていましたが、神仏習合の形が復活して、素晴らしい御霊会となりました。
さて、今日は、堂本印象の忌日です。
堂本印象といえば、どのようなイメージをお持ちでしょうか?
京都衣笠の立命館大学衣笠キャンパスの北側に、前衛的な建物の美術館を思い浮かべられる方が多いがと思います。ここが、堂本印象が自ら作り上げた美術館なのです。この美術館のイメージから洋画家、もしくは彫刻家と、小さいころは思っていましたが、日本画家だったと聞いて驚いた記憶があります。
そのくらい、あまり堂本印象に対しての知識もなく、作品にも触れることなく来てしまいました。
堂本印象の絵と出会ったのは、古事記の展覧会で、木花開耶姫の絵で、立ち止まって眺めた絵でした。
木花咲耶姫
図録より
【堂本印象】
堂本 印象(どうもと いんしょう、1891年12月25日 - 1975年9月5日)は京都市生れの日本画家。帝室技芸員。日本芸術院会員。本名:堂本三之助。
明治43年京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きに従事し、大正7年、日本画家を志し て京都市立絵画専門学校に入学。翌8年、初出品した「深草」が第1回帝展に入選した。第3回展では「調鞠図」で特選、また、第6回展の「華厳」では帝国美術院賞を受賞するなど一躍画壇の花形となった。絵画専門学校の教授として、また私塾東丘社の主宰者としても多くの後進を育成、昭和19年、帝室技芸員となった。
 戦後は、独自の社会風俗画により日本画壇に刺激を与えた。昭和25年、芸術院会員。さらに昭和30年以降は抽象表現の世界に分け入り、その華麗な変遷は世界を驚かせた。多くの国際展にも招かれ、昭和36年には文化勲章を受章した。
 昭和41年、自作を展示する堂本美術館を自らのデザインにより設立。また、様々な技法を駆使しあらゆる画題をこなす画才は、各地の寺社仏閣の障壁画においても発揮され、多くの作品を残した。昭和50年9月逝去、83歳。
 なお、美術館は平成3年8月にその所蔵作品とともに京都府に寄贈され、平成4年4月京都府立堂本印象美術館として開館し今日に至っている。
出典
堂本印象美術館ホームページ
美術館を建てるにあたり、印象は昭和27 年(1952)にヨーロッパで見学した宮殿や邸宅を用いた美術館を参考に独自の美の可能性を追求したといいます。
堂本印象美術館は外観から内装まで、印象自らがデザインをしました。
この美術館の全てが堂本印象の作品といっても過言ではないかと思います。
外壁の浮き彫りも、柱に施されたレリーフも、休憩用に置かれている椅子も、そしてドアノブや階段の手すり、欄間といった細かいところまで、美術館を構成しているありとあらゆるものが、印象自ら設計・デザインしたものです。美術館がまるごと、堂本印象の立体造形となっているのです。
また、印象は建物や造形・装飾などほぼ全てのものに対し、詳細なスケッチや下絵を描いていました。
印象の絵画と共に、美術館の装飾も楽しめます。
*堂本印象美術館
現在の展示
「おしゃべりな絵画 -感じてみよう!作品から聞こえる音・声・会話-
Chatty pictures; Let’s imagine!
- the sound, voice, and conversation of Insho’s works -」
日程~9月22日(祝・火)
時間午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
一般510円(400円)/高校・大学生400円(320円)/小・中学生200円(160円)
( )は20名以上の団体料金
65歳以上の方(要証明)および障害者手帳をお持ちの方(介護者1名を含む)は無
アクセス
市バス立命館大学前下車すぐ
ホームページ

原節子

2020-09-05

 

永井 由紀夫さんのコメント
原節子さん42歳での突然の引退
もうやりたい役がやれなくなった 美しい内に原節子を葬ろう
会田昌江に戻りひっそりと暮らそう 以降50年何処にも出掛けず
本を読みテレビを見て隠遁生活
吉永小百合さんが引退を考えたのが42歳の時
自分の美の衰えは考えるもの
ヴィヴィアンリーもそうだった  恐ろしい事だと
まあみんな自分が美人だとは意識有るんですね笑
家系が長生き 全く無駄使いしないで 海外旅行なんかもされなかった
本日御命日

大谷光瑞

2020-09-05

佐々木 信雄さんコメント

【20th Century Chronicle 1902年(m35)】-2
◎大谷探検隊
*1902.8.15/ 西本願寺の大谷光瑞(27)ら探検隊一行が、ロンドンを出発して中央アジア探検に向かう。
 大谷探検隊は、日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代法主「大谷光瑞」が、中央アジアに派遣した学術探検隊で、シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。1902(明35)年~ 1914(大3)年の間、前後三次にわたって行われた。
 第一次(1902年~1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が、ロンドンから日本へ戻る途上で、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄らとともに、ユーラシア大陸を横断する探検を行った。1902(明35)年8月、一行は列車でベルリンからモスクワに移動したあと、パミール高原を越え、カシュガル、ヤルカンド、タシュクルガンを巡り歩いた。
 タシュクルガンに到着後、大谷光瑞・井上弘円・本多恵隆の3人はカシミールとパキスタンを南下し、列車でインドに向かい、仏教遺跡を巡礼し、1903年3月、航路で日本に戻る。大谷光瑞は、父の法主大谷光尊が死去したため、法主継職のため帰国したが、渡辺哲信と崛賢雄の2人は中国新疆に残り、さらに各地の調査と発掘作業にたずさわった後、1904(明37)年5月に日本に帰国した。
 第二次は1908年~1909年、野村栄三郎・橘瑞超、第三次は1910年~1914年、橘瑞超・吉川小一郎によって行われ、仏教東漸の遺跡として、ホータン、クチャ、敦煌など中央アジア各地を調査した。その発見にかかる多量の美術品・文書などは、『西域考古図譜』・『新西域記』・『西域文化研究』に収録されている。
 三度にわたる探検の目的は、仏教東漸の経路を明らかにし、その後のイスラム教化で埋もれてしまった仏教遺跡から、経典や仏像、仏具を収集し、仏教の源流を確認することであった。当時、大谷光瑞が留学していた西欧では、ヨーロッパ列強が国策として、天然資源調査や植民地的侵略の先兵として、競って探検隊を未近代化地域に送り込んでいた。
 しかも当時、考古学は端に就いたばかりで、海外の探検屋たちには、一獲千金を狙って、遺物を略奪して売り払うことしか考えていないあぶれ物も多かった。そのような時期に、国の支援を受けることなく、専門の探検家でもない若い僧が中心の急ごしらえの組織で、広大な西域を探査したのは、それこそ玄奘三蔵の西域仏跡巡礼に匹敵するともいえる。
 大谷光瑞は、第21世法主 大谷光尊の長男として誕生、はやくから次期法主として期待された。9歳で得度すると、上京して学習院や共立学舎で学ぶも続かず、京都に帰り前田慧雲に学んだ。父親の大谷光尊法主の時代は、明治維新の廃仏毀釈で仏教界は混乱の極みで、光尊法主は、教団の改革を進めるとともに、いち早く側近や有望な若手僧侶らを海外留学させて、宗門の近代化に努めた。
 これをうけて若き次期法主 大谷光瑞もロンドンに留学し、当時の敦煌文書発見などの考古学ブームの洗礼を受けた。かくして留学から帰国する途上での西域探索を実行する。さらに法主継職後も続行し、計3回にわたる発掘調査等を行った。法主としては教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣、海外伝道も積極的に進めた。
 大谷光瑞の業績は、大谷探検隊で蒐集発掘した考古学的遺産の学術的価値から見るか、仏教徒として、仏教の淵源を辿り、その後、本願寺派法主としての教団改革、さらには政治的参与を含めた、大谷光瑞その人の事績を評価するかで、かなり異なってくる。
 法主としての光瑞は、六甲山麓の岡本に二楽荘を設け、探検収集品の公開展示とともに、英才教育のための私塾である武庫中学を作ったり、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置して、教育・文化活動の拠点とした。二楽荘の他にも、大連(浴日荘)、上海(無憂園)や台湾の高雄(逍遥園)、インドネシア(環翠山荘、耕雲山荘)などに別荘を設けた。
 しかし1914(大3)年、大谷家が抱えた巨額の負債整理、および教団の疑獄事件のため法主を辞任し、大連に隠退した。これらは、大資産家の跡取りが、散財して財を失うのと似ているように見えなくもない。しかも、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任したり、太平洋戦争中の近衞内閣で内閣参議、小磯内閣の顧問を務めるなど、戦前の政治的参与もあり、戦後は公職追放となったまま、1948(昭22)年に没した。
 教団内部では、蓮如上人以来の大改革者とみなす見解もあるが、世間一般的には、大谷探検隊以外の事績に付いての評価は、必ずしも定まっているとは言い難い。これは晩年の戦争協力および公職追放という事実が、大谷光瑞の全体像を扱いづらくしているせいでもあろう。
(この年の出来事)
*1902.1.23/ 青森歩兵第5連隊第2大隊の将兵210名が八甲田山で遭難、死者199名をだす。(八甲田山死の彷徨)
*1902.6.15/ 日本で初の私立図書館 大橋図書館が麹町に開館する。
*1902.9.2/ 東京専門学校が「早稲田大学」と改称し、10/19大学開設および創立20周年記念式典を行う。
*1902.9.-/ 内村鑑三が自宅で聖書研究会を始め、小山内薫・志賀直哉などが出席する。
*1902.10.6/ 横浜でペストが発生、やがて東京へも飛び火する。
*1902./12.17/ 小学校教科書をめぐる贈収賄事件で、各地で一斉検挙が始まり、100人以上が有罪となる。これを機に、国定教科書制度が採用されるようになる。(教科書疑獄事件)

王貞治

2020-09-03

 

巨人軍・王貞治選手が
ハンク・アーロン氏の記録を抜き、
世界記録の756号ホームランを放ったのが
43年前(昭和52年)の今日でした⚾️✨
今では9月3日は
"ホームラン記念日"という
日本記念日協会が制定している
立派な記念日であります✨

三島由紀夫

2020-09-02

ちょっと気になる歌・唄

Face book 時代 唄

2020-04-22
https://www.facebook.com/groups/426829040985103/
今のカバー写真 レ・ガールズです。

作詞家 五木寛之

2020-10-10
あれも愛 これも愛・・・・
Facebook永井由紀夫さんの投稿より
作家でつづる流行歌
五木寛之(作詞)作品集

旅の終わりに 冠二郎
青年は荒野を目指す ザフォーク・クルセダーズ
愛の水中花 松坂慶子
二丁目の子守唄 ミルバ
ひとり暮しのワルツ 石黒ケイ
四季・奈津子 チェリッシュ
織江の唄 山崎ハコ
女人高野 田川寿美 
夜明けのメロディー ペギー葉山
東京タワー / ミッツ・マングローブ

はいだしょうこ「にじ」- きっと明日はいい天気

2020-09-05
https://youtu.be/aKmutxnR944
はじめてこの曲を聴いた時、元気づけられたのと同時に、明るい曲なのになぜか涙が出ました。 そして、私がこの曲を大好きになった時には、もうすでに、幼稚園や保育園では大人気の曲。ということを知りました。 歌ってください! のリクエストも多く、今回歌わせて頂くことにしました。 「きっと明日はいい天気」 私が、この曲で、元気づけられ、また明日も頑張ろう! と思えたように、 皆様にも「にじ」が届きますように。。。

<演奏曲情報>
作詞:新沢としひこ
作曲:中川ひろたか
歌:はいだしょうこ
ピアノ演奏:YUKA

音楽プロデュース:赤坂東児

花は咲く 山鉄バージョン https://youtu.be/wazwInwECSc

2020-08-21
キャスト・スタッフ 作詞:岩井俊二 作編曲:菅野よう子 歌・出演:六角精児 & 松井玲奈 出演:三陸鉄道職員のみなさん 地元のみなさん 撮影協力:三陸鉄道
岩手県の沿岸部を結ぶ三陸鉄道。
連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台の一つとしても知られています。
2019年3月23日、JR東日本から、復旧工事を終えた宮古と釜石の区間が移管され、全長163キロの三陸鉄道「リアス線」として1本のレールで結ばれました。
番組では、旅情を誘う鉄道と沿線地域の風物を織り交ぜ、震災からのさらなる復興を応援します。

また、本番組の制作に際し「花は咲く」の作曲家・菅野よう子のアレンジによる新たな音源で、鉄道ファンとしても知られる二人のデュエットが実現しました。
BSプレミアム「六角精児の呑み鉄本線・日本旅」でもおなじみ、俳優の六角精児。
そして連続テレビ小説「まんぷく」でもおなじみ、「時刻表」の表紙にも登場した女優の松井玲奈。番組では二人が三陸鉄道に乗り込みます。

https://youtu.be/wazwInwECSc

リレハンメルオリンピクです。

2020-08-02
高橋真梨子/ 遥かな人へ 
高橋真梨子40周年記念コンサート~
https://youtu.be/cbBXlGMsKw0

https://youtu.be/GECFcOM6Gwo

ちょっと気になる絵

天高く馬肥ゆる秋

2020-10-13
名古屋市TV搭    Facebook阪下大介さんの投稿より

大阪万博太陽の塔 建設中 岡本太郎のデザイン 芸術は爆発だ

2020-10-08
3つの顔を持つコンクリート製の292mの塔

ローマ展です。

2020-09-13

1.ローマ日本美術展

 一九三〇(昭和五)年四月二六日から六月一日の間、ローマ、パラッツオ・ナッツィオナーレ・デッラ・エスポジッツィオーネ(Palazzo nazionale della Esposizione)で開催されたローマ展は、大倉喜七郎(1882-1963)が企画、全費用を負担した大規模な展覧会である。一九二八年、大倉がイタリア首相ムッソリー二に、大観が描いた《立葵》を寄贈したのを機に、ローマでの日本美術展開催が決定した。一九三〇年といえば、大倉が帝国ホテルの創業者である父喜八郎の後を継いでその経営にあたり、川奈ホテル、上高地帝国ホテルを準備中であった時期でもある。東京朝日新聞に掲載された「展覧会は明年三月ごろになるでしょうが、その頃は外人客がローマに殺到する時期で、そうした遊覧客に見てもらうことも一つの目的です(略)」という大倉のことばには、イタリアに日本美術を紹介することだけでなく、ローマを訪れている欧米人に日本美術を紹介し、最終的には美術を通じて海外から日本へひとびとを誘致しようという壮大な理想が秘められていたともいわれている。

 一方で、実際の運営と出品作家の選択は大観に一任された。そして、過去に例がないほど大規模なこの海外展において、大倉と大観は、日本画を展示する展示室の在り方に特にこだわりをみせている。この点については、大観が『伊太利政府主催大倉男爵後援 羅馬開催日本美術展覧会に就て』一九三〇年八月)の中で、緒言に続く第一章で「其の内的動機とも申すべきものは、日本画を日本室らしい曾場に於て西洋人に鑑賞されて見たいといふことにありました、即ち、日本画を玩味するに必須なる條件としての、床の間や青畳等の設備、活け花の趣向さへ添へて、日本画の本領をば欧洲へ遺憾なく西洋人へ伝へたいといふ念願を發せられたのであります。」と真っ先にとりあげていることからも、この展覧会の特色のひとつであったことがうかがえる。大工監督六名、表装師二名などがイタリアに同行して会場設営にあたったことや、日本画をそれに適した環境に展示することの重要性など、かなりの頁を割いて力説しており、同書に掲載された展覧会会場の写真をみても、和の設えに徹している様子がうかがえる。ローマ展において、大観をはじめ日本を代表する画家たちの描いた日本画は、既存の西洋展示室内ではなく日本の伝統的な設えの中で異国のひとびとに紹介されたが、このような大規模な試みはもちろん過去に例のないことであった。

 このように、展示環境にも日本を十二分に意識したローマ展に出品された大観の作品は、《寒牡丹》《暁靄》《雙龍双珠》《蜀葵》《梅花》《隼》《春の夜》《飛泉》《富士山》《山四趣》《夕顔》《百合花》《夜桜》《龍胆》の一五点。この出品点数は、帝国美術院の代表としてローマ展にのぞんだ川合玉堂の一〇点、竹内栖鳳の五点に比しても多い。さらに、イタリア全土の汽車内に掲げられたという「富士山」の描かれた展覧会ポスターも大観自らが手掛けており、これらの事実は、この展覧会に占める大観の存在の大きさのみならず、大観自身の意気込みも感じられ非常に興味深い。

夜桜

2020-09-13

2.《夜桜》

 大観が、熱意をもって臨んだローマ展に出品した作品の中の一点が、一九二九(昭和四)年に制作された《夜桜》である。ローマ展のために描かれた新作で、同年一一月一七日に日本美術院で内覧会をおこなっている。翌月一三日には、出品作の中殻優秀な作品三二点が宮中で展覧に供されたが、その中にはもちろん《夜桜》も含まれていた。

 六曲-双という大画面に描かれた《夜桜》は、数多い大観作品のなかでも、華やかな装飾性と、群青、緑青、朱など濃彩や月に用いられた白金の使用による鮮やかさ、迫力という点において抜きん出ており、記念すべきローマ展の出品作であるだけでなく、大観の画業における代表作のひとつに数え得る。背後に連なる山々は墨で描かれており、篝火にうつしだされた山桜が鮮やかに映える。桜花はすべて観者を向いて開き、画面を-層華やかなものにしている。さらに山々に用いられた墨は、画面上部にわずかにのぞく夜空の群青と相俟って重厚な空気を生みだし、松に使用された緑青は、篝火の朱と大胆な色彩の対比をみせる。篝火からまっすぐにたちのぼる烟は、静かに散る花びらと対照的な動きをみせながらも、まっすぐに地面へと向かう花びら同様、この画面が風の動きのない静かな状況であることを暗示し、色彩の対比や画面構成とともに、大観の周到な計算を感じさせる。

 ところで、この《夜桜》は、富田溪仙筆《祇園夜桜》(横山大観記念館蔵)から影響を受けているとしばしば指摘される。《祇園夜桜》は、一九二二(大正一一)年にクリーブランド美術館の要請で開催され、米国を巡回した日本美術院米国展覧会(以下、米国展)の出品作であり、京都祇園の枝垂れ桜が篝火の中から幻想的に浮かび上がる様子を描いている。縦四八.三センチメートル、横七一.〇センチメートルの絹地に、闇に包まれた山々、そして夜桜を取り囲む松が墨の微妙な調子をいかして描かれ、趣ある空間を生み出している。その閣の中に、《祇園夜桜》の主役でもある枝垂れ桜が朱色の篝火によりその優美な姿を浮かび上がらせている。この作品は、キャサリン・M・ボールが、「この展覧会で最も人気を呼んでいる作品の一つは富田溪仙の《祇園夜桜》であるが、画趣に富んだ詩的な作風に鑑みればもっともなことである。下方からの火明かりで陰影を帯びた淡紅色の桜が夜の闇に神秘的に浮き上がるのである(注2)。」と述べているとおり、当時も人気があった作品のひとつと考えていいだろう。そして、大観は、この《祇園夜桜》を非常に気に入り、のちに譲り受けている。長尾政憲氏「富田溪仙と大観-溪仙にあてた手紙からみて-」(『財団法人横山大観記念館館報No.1』)で紹介された大正一五年五月一九日付の溪仙に宛てた大観からの手紙には、《祇園夜桜》に触れた箇所があるので、以下に引用しておきたい。

「此度は御無理願上候処、早速御作品集御恵贈被下難有拝受仕候
 曽て米国御出品の夜桜昨年入手仕居、先般より床間に懸け拝見致候処、恰も御作品集到来、彼是較べ一段の興味を覚え申候」(文中の作品集は溪仙の『近畿柳桜』を指す。)

挿図4. 富田溪仙筆《祇園夜桜》

(註2)『日本美術院百年史 第五巻』(一九九五年 日本美術院百年史編集委員会)p.881/同p.1026に掲載されている原文は次の通り。

One of the most popular paintings of the exhibition is "The cherry of Gion at Night" by Keisen,Tomita,and deservedly so,for its appeal is both picturesque and poetic. The pink blossoms,tinted from beneath by the fire light,glow mysteriously in the darkness of the night.

By KATHERINE M. BALL(JAPAN,MAY 1922.4.1)

 画題の桜については後に詳述するが、二人の画家がともに海外展において同様に夜桜をモティーフとしている事実は興味深い。しかし、同主題を扱っているとはいえ、溪仙の《祇園夜桜》と大観の《夜桜》には大きな逢いもある。

 差違としてあげるまでもないことではあるが、まず第一に、画面形式の違いがある。《祇園夜桜》は、前述のとおり現在は軸装である。米国展出品当時は額装であったが、しかしこれは展覧会の規定であり、基本的には溪仙に画面形式を選択する余地はなかった(註3)。一方、大観の《夜桜》は六曲一双屏風である。《祇園夜桜》に刺激をうけながらも、画面形式において、大観は《祇園夜桜》を踏襲せず、六曲一双屏風という、力強さをより強調することのできる大きな画面を選んでいる。

 続いて、溪仙と大観の夜桜は、その色彩においても大きな違いをみせる。《祇園夜桜》は、墨の濃淡を生かして夜の山々が表現されており、篝火や、その炎に照らされて仄かにうかびあがる桜により、幻想的な京の夜の情景が描き出されている。一方、大観の《夜桜》では、先にも触れたように、群青、緑青、朱など濃彩がもちいられており、溪仙のつくりだした幻想的な世界とは対照的に、鮮麗かつ重厚な世界をつくりだしている。

 続いて、溪仙と大観の夜桜は、その色彩においても大きな違いをみせる。《祇園夜桜》は、墨の濃淡を生かして夜の山々が表現されており、篝火や、その炎に照らされて仄かにうかびあがる桜により、幻想的な京の夜の情景が描き出されている。一方、大観の《夜桜》では、先にも触れたように、群青、緑青、朱など濃彩がもちいられており、溪仙のつくりだした幻想的な世界とは対照的に、鮮麗かつ重厚な世界をつくりだしている。

 最後に、もうひとつ特筆しておくべき差違は、桜の種類である。《祇園夜桜》に枝垂れ桜が描かれていることは既に述べた。溪仙のこの作品に限らず、祇園の桜といえば円山公園の「祇園枝垂れ」が有名である。祇園の初代枝垂れ桜は、江戸時代に八坂神社の境内から移植されており、その後、昭和24年に二代目枝垂れ桜が植えられているため、溪仙が《祇園夜桜》で描いた祇園枝垂れは初代の枝垂れ桜ということになろう。一方、大観の《夜桜》に描かれている桜は枝垂れ桜ではない。大観は《夜桜》を描くにあたって、頻繁に上野に通っている(註4)。たしかに上野の桜は染井吉野や里桜、山桜などが主であり、大観の描いた桜の種類が枝垂れ桜でないことと上野の桜とは無関係でないかもしれないが、「概して實感本位に立脚して視覚対照の効果に重きを置く洋画としては、行詰るのが当然の歸結ではなかろうかとも感じました。然るに日本画は、東洋精神の伝統に根ぎして時代とともに研鑽を進め、高く主観的理想から出發するものでありますから、描寫の根本が洋画と相反し、客観界を寫實的に説明するとちがひ、作者胸憶の世界を不可言的に如實に吐露するものでありますから、日本画の道たるや、實に窮まる所なき永遠の大道なのであります。」とも述べている大観のこと、やはり、意図的に枝垂れ桜から山桜へと変更しているとみるべきであろう(註5)。月夜に浮かぶ背後の山々や、《祇園夜桜》の影響力を考えてみても、大観が祇園の夜桜を意親していた可能性は非常に高い。それゆえに、「祇園=祇園枝垂れ」という-般的な常識を覆してまで山桜を描いたことの持つ意味は大きい。大観は、この作品において、上品ではかなげな美しさをもつ枝垂れ桜ではなく、力強さを感じさせる山桜を選択したのではないだろうか。画面の大きさ、配色のみならず、モティーフの選択においても、大観がある種の迫力を追求した可能性は決して低くないように思われる。

 このように、山桜を選択した大観であるが、この桜というモティーフが、日本人にとって非常に思い入れの深いものであることは、ここで改めて繰り返すまでもないだろう。日本においては、桜花が描かれる絵画、工芸作品は極めて数が多い。しかし、それに反して万葉集で詠まれた歌は、梅が一一八首、桜が四三首、椿が九首と圧倒的に梅が多いのである。桜について、すでに「平安、鎌倉期に国粋主義の発展とともに多く描かれている(註6)」との指摘があるように、中国から伝わった梅の愛玩は、平安時代に入り、日本的な美意識が生まれるにしたがい桜へと移行し、次第に桜をモティーフとした作品が増えていく。

(註3)『日本美術院百年史 第五巻』(一九九五年 日本美術院百年史編集委員会)p.863 「大きさは尺四方物、尺八、尺二、ニ尺五寸の四種でみな額」

(註4)竹越真三夫「″夜桜″″紅葉″両屏風ご製作時のこと」(「財団法人 横山大観紀念館館報No.2 一九八四年 横山大観記念館)p.6「昭和四年の花どき、上野公園へ、夜桜の情趣観察に幾晩も出掛けられ、最初と中間の二回私も供をいたしました。五重の塔を囲んで咲いた山桜が、美しい印象を深く残しました。」

(註5)加藤類子「日本画と桜」においても、大観の《夜桜》について、「紅枝垂の優美さを、躊躇することなく山桜に変えている」と指摘されている。(『日本美術全集二二』 一九九二年 講談社 p.234)

(註6)北村四郎『花鳥画の世界』の植物『花鳥画の世界 花鳥画資料集成』第一一巻 p.130 一九八三年 学習研究社

 このように、桜というモティーフのもつ歴史的な意味を充分に意識し、大観は、ローマ展出品作のモティーフとして、伝統的、日本的な桜を選んだと考えられる。また、大観がこの論説を目にしていたかどうかはわからないが、「櫻花の画」(『繪画叢誌』一三五 明治三一年四月発行)と題した論文の中で、野口勝一が、已に櫻「本邦人花を以て天下第一の花となし之を誇り又本邦画を以て世界の希有の技となして之を貴ふ乃ち希有の技に因りて天下第一の花を画き而して其眞趣を得るに至らさるは是れ大なる?点といはさるへからす盖し其花に誇り其技を貴ふことを知て其花と技とを併せて宇内に誇揚する所以を思はさるに於ては二者分離して花の薦めに技の足らさるを嘆き技の薦めに花を顯はすを得去る惜しますんはあらす故に他の卉木禽獣等の如く櫻花を専修して形意兼ね盡くし櫻花の薦めに一法門を開くあらは畫史の薦めに好模範を垂るるのみならす之に因て名花の光彩を世界に耀かすを得へきならん乃之を勉むるは畫道の一進歩にあらすや」と述べている点も興味深い。

森本草介です。

2020-09-13

【Face bookのページ】 味覚嗜好について

味覚嗜好のページ

あんみつ発祥当時から変わらぬ味の元祖あんみつです。あんこの上には、銀座若松のシンボルである松の羊羹が乗っています。 価格 950円

2020-10-01
あんみつは、「銀座 若松」が発祥の店です。 

月見団子について

2020-10-01
本日は、中秋の名月です。
Facebook平野めぐみさんの投稿です。
お月見団子について調べてみました。
◎お月見団子の由来
お月見の日に団子を供える習慣は、江戸時代からと言われています。
お月見の時に「これからの収穫」を祈るという事で収穫物である米の団子を用意したのが月見団子の由来だと考えられています。
◎お月見だんごの数と並べ方
15個の場合は9個、4個、2個と盛っていきます
十五夜には、十五にちなんで15個お供えします。また、1年の満月の数にあわせて12個(閏年には13個)、15を簡略して5個にする場合もあります。十三夜には、13個または3個です。
【15個の場合】
一段目に9個(3×3)、二段目に4個(2×2)、三段目に2個を盛ります。三段目の2個は、神事では正面からみて縦に2個並べます。横に2個並べると仏事になります。
【13個の場合】
一段目に9個(3×3)、二段目に4個(2×2)並べます。
【12個の場合】
一段目に9個(3×3)、二段目に3個並べます。
【5個の場合】
一段目に4個(2×2)、二段目に1個です。
本来は「三方(さんぽう)」に白い紙を敷いてお供えします。三方は折敷に台がついたお供え用の器で、神事では白木でできた三方を用います。仏事では塗りのものが用いられ、「三宝」と表す場合が多いです。
ただ、三方がある家庭は少ないので、お盆やお皿にお供えすればOK。
白い紙は、奉書紙、半紙、てんぷらの敷紙などを使いましょう。紙の敷き方には、長方形の紙を四辺または二辺に垂らす方法、正方形の紙を対角に敷いて端を垂らす方法などがあります。
月見だんごは、お月様から見えるところか床の間にお供えします。日本古来の考え方は左上位のため、ほかのものと一緒に並べるときは、お月様からみて左側に自然界のもの(ススキや野菜)、右側に人工のもの(月見だんご)を供えたほうが良いとされています。
◎各地のお月見団子
○沖縄 ふちゃぎ
ふちゃぎは、沖縄県で食される菓子の一種。餅粉に水を加え、こねて蒸したものに、塩茹でした小豆をまぶしつけたものである。形は小判型、もしくは俵型をしている。旧暦の8月15日(十五夜)に、豊作を祈願してヒヌカン(火の神)と仏壇、神棚に供えた後に食べる縁起物である。小豆には魔除けの意味合いがあり、小豆をつぶさずにまぶすことで当年の災難避けを祈願する。名前は餅であるが、沖縄県以外では蒸したもち米をついたものが餅であり、もち米の粉を練って蒸したものは団子と呼ばれる。そのため、ふちゃぎは沖縄以外では餅より団子に相当します。
小豆をゆでる際に砂糖で甘味をつけたものは「甘ふちゃぎ」、紅芋の粉を混ぜて芋の風味を持たせたものは「紅芋ふちゃぎ」として市販されています。
○名古屋
江戸時代から、関東は丸型、
関西は里芋型で月見団子を
作ったようです。
里芋の形は十五夜に里芋を
供える収穫祭の風習に
ならったものだといわれています。
名古屋の月見団子は関西よりの地方がら
里芋の形なのです。
ちなみに愛知の日進市(他の地方でも
行っています) では、
「月見泥棒」という習慣があり、お月見の日にお菓子を山盛りし、そのお菓子を子どもたちがこっそり持ってゆくと言うものです。お菓子の山がなくならないと
縁起が悪いとされいるので、
その日だけは泥棒になった方が良いのです
○関西の月見団子
関西では、まず形が里芋をイメージした紡錘形(少し細長い楕円形)で、周りにこし餡がついてる団子です。あるいは黄粉(きなこ)がまぶしてあるパターンもあり、食べて美味しいお月見団子なんですね。
形自体が里芋に似せたという説や、棒状の団子に餡を絡みつければ「衣かつぎ」のような形という説もあります。江戸時代の後期に、味を重視して、白い部分を月、餡の部分を雲に見立て、このお団子ができたという説もあるそうです。
里芋に似せて作られた団子ということからは、関西の紡錘形というのが供物としては正しい気もします。
ただ、何となく赤福のイメージと重なってしまうのは私だけでしょうか?

五十鈴の『四色おはぎ』

2020-09-30
◆ 本 店/ 東京都新宿区神楽坂5-34 TEL:03-3269-0081
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/55040823.html
お彼岸の『おはぎ』です。
五十鈴の『おはぎ』は、やや細長い俵型をしておりまして、
あまり他では見かけないフォルムであることが、また印象的ですね。
こしあんと粒あんは、内側にやや潰した餅生地を包み、
きな粉と黒胡麻はその逆で、つぶつぶの餅生地であんこを包んでいる。
その餅生地がかなり薄い生地に仕上がっていて、あんこがたっぷり!
きな粉にはこしあんが、黒胡麻には粒あんが入り、
意外にもあんこが溢れ出して来るので、ビックリしちゃうほど。
黒胡麻の風味が強い分、粒あんを合わせている方があんこが負けない。
そのあたりのバランスもまた素敵でございました。

和菓子魂! 全国47都道府県を巡ってきた中で、出会ってきた数え切れぬほどの和菓子。

2020-09-30
http://blog.livedoor.jp/wagashibuyer/archives/32300700.html
季節を彩るさまざまな和菓子たちをご紹介します。

川端道喜の『萩の餅』

2020-09-30
◆ 本 店/ 京都府京都市左京区下鴨南野々神町2-12 TEL:075-781-8117
上生菓子を製造する京都の菓子屋では、『萩の餅』として秋に登場します。
禁裏御用を務め、御朝物を調製して来た川端道喜でも、秋のお彼岸に登場する。
軽くついたご飯粒の残るもち米生地を、いつものさらりとした小豆こしあんで包み、
ひとつ、ひとつ、真ん丸に整えられた美しいフォルム。
しばらく、お皿の上に乗せて、見つめていると、満月のようにも見えて来る。
やや幅のある細長い箱に、交互に収まったその姿。
仕切り紙が間を縫うようにして通っている。それもまた素敵である。
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