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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

人間は何のために生きるのか?

2020-08-02
Facebook 田畑 正久さんより
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第380回
(令和2年5月18日掲載)医療文化と仏教文化(206)
臨床の現場では進行癌のため回復が望めなくなり、種々の苦痛に対して緩和ケアを受けている患者さんがいます。その人達から発せられた「私は死ぬために生きているのですか」「良い生活はしてきたけれど、本当に生きたことがない」というような、いわゆる魂の苦悩が「スピリチュアルな痛み」と表現されています。このスピリチュアリティ(spirituality)に相当する適切な日本語がないために、そのまま外来語として使われています。
人間として生れて、病苦の中で生きていく意味を見いだせず、死によって自分の生きてきた過去が無になってしまう虚しさを感じての表白でしょう。
将来の希望に燃えている時には問題にならなくても、現代の医学が準拠する科学的合理思考では、治癒不可能な病状に直面した人が生きる意味を見出すことは困でしょう。腎臓ガンのために49歳で亡くなった従兄弟の「明るい未来が見えない、ということは居たたまれないんだ」という言葉が耳に残っています
唐の時代に中国浄土教を確立した善導大師は、「自らの業識(ごっしき:生まれたいという自分の意志)を内因として、父母の精血を外縁として、因縁(内因と外縁が)和合して私は人間に生まれた」と言っています。自らの愚かさに目覚める者はそれまでの迷いの連鎖を知らされ、その迷いを超えるために人間に生まれ仏教に出遇って、迷いから解脱するために、この世に生を受けたと頷けるのです。それなら、生きる意味というのは迷いを超えて動物的な「ヒト」から人間になり、迷いを超えた仏に成るという意味として受け取れるようになるでしょう。
しかし科学的合理思考では「私の人生は一回だけなので死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私が幸せになることが、人生の目的である」というように、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあった人生観になります。そして「私たちの世界はすべて物質に還元可能で、生命を構成する物質が集積したときに「生」があり、それが分散したときに「死」がある。
ただそれだけのことで、生きていることに意味はありません。生きていること自体に意味がないのに、その質(Q.O.L、quality of life)を問う必要はないという唯物論的な近代科学の見方が追い討ちをかけるのです。

「常楽我淨」ということ

2020-07-11

明日早朝の雨が宇佐市は大雨の予報です。自然現象は人知で管理支配できません。南無阿弥陀仏

大分合同新聞医療欄 「今を生きる」第379回
(令和2年5月4日掲載)医療文化と仏教文化(205)
死の現実をきれいごとで尊厳死、安らかな死などと言ってみても、一般的な思いからすると死は避けたい、先送りしたいマイナス要因です。ギリシャの哲学者が「人間は誰からも教えてもらって無いのに幸せを目指して生きていく」と言っています。しかし、いくら幸せのためのプラス要因を集めて幸福を目指しても、必ずやってくる老病死はどれも人生のマイナス要因です。これでは最後に「不幸の完成」で人生を終わることになります。仏教では、こういう生き方を「迷いの人生」というのです。
私の70年間の人生を振り返ってみると、その時々の課題に取り組み、その解決を目指して生きてきたと思います。それは、無意識に苦を厭(いと)い楽を指向してきたように思います。仏教は、人間は「常楽我浄」を目指していると言い当てます。「常」とは安定して変わらないこと、「楽」は苦や不安のない状態、「我」はしっかりした信念のある自分、「淨」は虚偽のない清い世界、理想の世界です。
私達はこの世に「常楽我浄」があり、それを求めて生きることが人間としての在り方だと思っています。仏教は私達の生きざま・思考を見通して、この世に「常楽我浄」はないと説きます。無いものを「有る」として追い求めるから、結果として「人生苦なり」の生き方をしていると見透かしているのです。
そして仏の智慧の世界には「常楽我淨」があると教えてくれます。仏の世界が私の世界を鏡に如く照らし出し、私が物事のあるがままを正しく見ていない、煩悩で脚色して自分に都合のいいように見ていると指摘するのです。
仏教は生死の迷い(迷いの人生)を超える道を教えています。私たちが理性、知性をはたらかせても、老病死を少し先送りすることしかできません。仏教は私の思考の無明性(真理に暗いこと)、正しく判断できるはずの理性に潜む煩悩性、知性的な分別(私は間違いないという)の執われのために全体像が見えないことが迷いの原因だと教え、それを超える道に導くのです。

人が有るか無いか

2020-07-28

732
「人が有るか無いか」。こういうことは仏教の話のようだけれども、現代資本主義でもそうではないかね。人がいないでしょう。人がおれないような機構になっているでしょう。こういうところに大きな問題があるわけです。


733
現代資本主義においては社会的な階級ということがあるけれども、やはり階級の中にも「人」はいない。階級の中に人間はおらず、階級的英雄がいるわけです。階級的英雄は独裁の英雄ではないでしょうか。そこには個としての人はいない。絶対自由の人間はいない。けれども階級に功績があるのは、わがままな意味の主観的自由を破るところに、非常に厳粛な意味があるのです。

734

つまり言ってみれば「マイホーム」です。資本主義のエゴイズムです。うちの家庭だけが平和になればあとは知らん顔しているという、そういうような個人的自由主義を破るところに、社会的階級というものがひとつの大きな力をもっている。しかしながらその階級のなかに個人はないのです。

 

 

 

735
社会的階級というものは、一応、個人的な自由、エゴ、主観というものを破る意味はある。けれども、主観ではないところの積極的な自由を与える意味は持っていないのです。人は、そういう現実の問題にみな触れているのです。

易往無人

2020-07-28

729
無人という言葉が非常に大事なのです。易往無人の易往というのは自然(じねん)の道理をいう。自然の道理に依るが故に往き易いと。努力で、という意味ではないのです。自然の道理が往き易いのです。つまり往くまいと思っても往かされるのです。

 

730
我々のほうで往こうと思って往くのではないのです。往くことを思う思わないを超えて往かされるのです。道理のはたらきを易往というのです。けれども人が無いというのでしょう。だから無人は大事な言葉です。信心というものは、本願が人の上に成就する。如来が人の上に成就する。人ということが非常に大事なのです。

 

731
本願の成就という場合は、本願は原理ですから、願が信として成就すると。その願は人の上に成就するのです。つまり人が生まれてくるのです。「人が生まれる」ということが教理を超えることなのです。仏法が生きているか生きていないかは教理の有る無しではない。人が有るか無いかです。これは大事なことでしょう。人というものが、法から生まれているか、生まれていないかです。人がいないなら教理があるだけでしょう。

『観経』に照らしてみますと

2020-09-05
757
一心に摂取不捨の利益にあずかるというけれども、摂取不捨の利益にあずかって信心が一心になるのです。摂取不捨の利益にあずかって一心になる。信心が一心になる。易往無人のほうは『大無量寿経』ですけれども、今度は『観経』に照らして表わしてあるのです。
 
758
『教行信証』では「信巻」の後のほうに、本願成就の文に続いて「現生十種の益」というものが挙げてある。これは結局、最後の住不退転、即得往生住不退転、不退転の一句に帰着するのです。唯識のほうで爾時唯識性に住するといってあるのはどういうことかというと、つまり住不退転なのです。正定聚住不退転を『唯識論』の言葉では唯識の実性に安住すると。
759
心光摂護の一心というのは、これは観経によって照らしてあるのです。現生十種の益では現生ですから未来ではないのです。本願が現在に成就する。本願が現成するという意味です。本願成就ということは、今この時に、この人の上において成就する、現成するというのです。現実となるわけです。現実として成就するということが本願成就という意味です。
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