ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
「常楽我淨」ということ
明日早朝の雨が宇佐市は大雨の予報です。自然現象は人知で管理支配できません。南無阿弥陀仏
大分合同新聞医療欄 「今を生きる」第379回
(令和2年5月4日掲載)医療文化と仏教文化(205)
死の現実をきれいごとで尊厳死、安らかな死などと言ってみても、一般的な思いからすると死は避けたい、先送りしたいマイナス要因です。ギリシャの哲学者が「人間は誰からも教えてもらって無いのに幸せを目指して生きていく」と言っています。しかし、いくら幸せのためのプラス要因を集めて幸福を目指しても、必ずやってくる老病死はどれも人生のマイナス要因です。これでは最後に「不幸の完成」で人生を終わることになります。仏教では、こういう生き方を「迷いの人生」というのです。
私の70年間の人生を振り返ってみると、その時々の課題に取り組み、その解決を目指して生きてきたと思います。それは、無意識に苦を厭(いと)い楽を指向してきたように思います。仏教は、人間は「常楽我浄」を目指していると言い当てます。「常」とは安定して変わらないこと、「楽」は苦や不安のない状態、「我」はしっかりした信念のある自分、「淨」は虚偽のない清い世界、理想の世界です。
私達はこの世に「常楽我浄」があり、それを求めて生きることが人間としての在り方だと思っています。仏教は私達の生きざま・思考を見通して、この世に「常楽我浄」はないと説きます。無いものを「有る」として追い求めるから、結果として「人生苦なり」の生き方をしていると見透かしているのです。
そして仏の智慧の世界には「常楽我淨」があると教えてくれます。仏の世界が私の世界を鏡に如く照らし出し、私が物事のあるがままを正しく見ていない、煩悩で脚色して自分に都合のいいように見ていると指摘するのです。
仏教は生死の迷い(迷いの人生)を超える道を教えています。私たちが理性、知性をはたらかせても、老病死を少し先送りすることしかできません。仏教は私の思考の無明性(真理に暗いこと)、正しく判断できるはずの理性に潜む煩悩性、知性的な分別(私は間違いないという)の執われのために全体像が見えないことが迷いの原因だと教え、それを超える道に導くのです。
人が有るか無いか
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「人が有るか無いか」。こういうことは仏教の話のようだけれども、現代資本主義でもそうではないかね。人がいないでしょう。人がおれないような機構になっているでしょう。こういうところに大きな問題があるわけです。
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現代資本主義においては社会的な階級ということがあるけれども、やはり階級の中にも「人」はいない。階級の中に人間はおらず、階級的英雄がいるわけです。階級的英雄は独裁の英雄ではないでしょうか。そこには個としての人はいない。絶対自由の人間はいない。けれども階級に功績があるのは、わがままな意味の主観的自由を破るところに、非常に厳粛な意味があるのです。
つまり言ってみれば「マイホーム」です。資本主義のエゴイズムです。うちの家庭だけが平和になればあとは知らん顔しているという、そういうような個人的自由主義を破るところに、社会的階級というものがひとつの大きな力をもっている。しかしながらその階級のなかに個人はないのです。
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社会的階級というものは、一応、個人的な自由、エゴ、主観というものを破る意味はある。けれども、主観ではないところの積極的な自由を与える意味は持っていないのです。人は、そういう現実の問題にみな触れているのです。
易往無人
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無人という言葉が非常に大事なのです。易往無人の易往というのは自然(じねん)の道理をいう。自然の道理に依るが故に往き易いと。努力で、という意味ではないのです。自然の道理が往き易いのです。つまり往くまいと思っても往かされるのです。
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我々のほうで往こうと思って往くのではないのです。往くことを思う思わないを超えて往かされるのです。道理のはたらきを易往というのです。けれども人が無いというのでしょう。だから無人は大事な言葉です。信心というものは、本願が人の上に成就する。如来が人の上に成就する。人ということが非常に大事なのです。
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本願の成就という場合は、本願は原理ですから、願が信として成就すると。その願は人の上に成就するのです。つまり人が生まれてくるのです。「人が生まれる」ということが教理を超えることなのです。仏法が生きているか生きていないかは教理の有る無しではない。人が有るか無いかです。これは大事なことでしょう。人というものが、法から生まれているか、生まれていないかです。人がいないなら教理があるだけでしょう。