本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

本願を聞いて信を獲(え)るということ

2022-03-26

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1310
問題は、本願を聞いて信を獲(え)るということ。
親鸞はそれを、これはもう「難中の難」だと。
信を獲ても、その信は、獲たからといって易信ではない。
獲た信がやはり難信だと。
信を獲た人が、たまわった信心は「これはこれは」と言って、難信です。
自分で作ったということではないのです。
そうでしょう。
自分で獲た信心なら、獲たら難が消えるはずなのです。
「かたじけない」
1311
それは獲(え)たままが難信だと。
獲ない人には難も易もないでしょう。
だから、難という字は不可能という意味ではないのです。
「かたじけない」という意味です。
信を獲るということは容易ならないことだと。
そのために仏が法蔵菩薩になられたのだと。こういうわけです。


軽いということが容易ではないということです。
1312
阿弥陀仏が法蔵菩薩の因位の行を行ぜられたというのはその意味です。
そうでしょう。
不可思議兆載永劫においての法蔵菩薩です。
仏が一切衆生となったというのです。
それで一切衆生を仏にするのだと。
それは容易ならないことです。
自分のたまわった信が自分の努力ではないと。
信は重いというのではない。
軽いということが容易ではないということです。
あぁそうだったかと。
「感動」
1313
「信」というものに力が入らない。
それは「感動」することです。
本願の教えを聞いて感動すること。
だからなんでもない話なのです。
そのなんでもない軽いことが、容易ならないことなのだと。
我々において軽いと思えることは「本願の歴史が重い」のです。
それは、
仏自身が我々となって、その身を捨てた結果として、
我々に軽く信ずるということが成り立っているのです。
「浅きは深きなり」
1314
だから浅いのが深いのだというのです。
「浅きは深きなり」というのはそういう意味です。
深い背景があるから、我においては浅く見える。
「私の獲た信心は深いぞ」というような、そんなものは無いのです。
もし信心というものがそういうものであるなら、誰も入る者はいないでしょう。
信というものはそうではないのです。

宗正元先生の次のような言葉に出遇いました。

2022-03-26

Facebook 宮岳文隆さん曰く


宗正元先生の次のような言葉に出遇いました。
「南無阿弥陀仏は『汝、苦しみ悩んでおる者よ』と、そういうふうに苦しみ悩んでおる者を呼びかけ、苦しみ悩んでおる者に『心をこめて』呼びかけている言葉です。つまり、『心をこめて』という意味は、『敬い』と『愛情』を込めて呼びかけている言葉です。何か可哀そうだ、苦しみ悩んでいる者よ、可哀そうだなあ……といって呼びかけているのではないのです。そこに、無限の限りない敬いですね。それはどういう敬いかというと、自分の父母として、そこから私は生まれて来たんだと、自分の親として、限りない尊敬と、深い愛の心をもって『苦しみ悩んでおる者よ』と呼びかけておる、そういう言葉です」
「それまでは何か呼びかけがあるんだなあ、というような雲をつかむような話ですけど、ほんとに気が付いてみれば、これ程身近に、どのように生きてよいか分からない私どもを、呼びかけている言葉がある。
 そして、どのように生きてよいか分からない私どもにすべてを託しているのですね。そこから生まれるんだ、と。生まれ出てくる新しいいのちが、そういう人に一切を託しておる。生まれ出ようとするものが、唯、ひたすら、どうしてよいか分からない人を呼びかけ続けておる。
 だから、妙な言い方ですが、ある意味では、生れ出ようとするものが、親を求めているといってもよいのです」
「どういう人であろうと、法蔵菩薩と言われるようなそういう精神、そういう魂が生れ出る可能性を持っているのです。その人がどういう人であろうと、必ず法蔵菩薩と言われるような法蔵精神が生れ出て来る。そういう意味の人間信頼なのです」
「お念仏のほうは、呼びかけているその人自身の中から、法蔵菩薩が生れ出ようとして呼びかけているわけですけど、それを聞いている私どもの方は、それを自分に呼びかけている、そういう言葉だとは露知らずに、何を言っているのだろうか、と。外のことを考えているわけですね」
(『雲集』298号20頁~22頁掲載。昭和51年3月の仏教東北連区集会の記録「道を求めて」より転載したもの)

私は、南無阿弥陀仏を私どもの親様といただいてきましたが、実は南無阿弥陀仏のほうが、私どもを、自分を生み出してくださる親として手を合わせて呼びかけてくださっているなんて!こんな破天荒な、愛情のこもったことを言ってくださる方がおられるでしょうか!本当にびっくりです!

証と信

2022-03-22
Facebook Yasuda Rizinさん曰く 、
1309
130
仏教全体がそうなっているでしょう。
しかし親鸞は、
その困難な証は、必ずしも出来ないというわけ

1309
仏教全体がそうなっているでしょう。
しかし
親鸞は、その困難な証は、必ずしも出来ないというわけではない
と言っているのです。
本当に出来ないものが信だと。
こんな言葉はちょっと世界中に無いのではないかね。
真理を覚って仏に成るのは、
楽だというわけではないけれども、
必ずしも困難ではないと。
信が出来ないのだと。



「呼応」ということ

2022-03-19
藤原正遠先生の言葉

Facebook 宮岳文隆さん曰く


「私の道が開けたり、物欲のために迷わされなくなったり、
人生に光明が照らしたりするところには、
本願念仏のお働きくださる場所はないのです」  

清沢先生の言葉

Facebook 宮岳文隆さん曰く


清沢満之先生は「他力の救済」の中で、
「我、他力の救済を念ずるときは、我が世に処するの道開け、我、他力の救済を忘るるときは、我が世に処するの道閉ず。我、他力の救済を念ずるときは、我、物欲のために迷わさるること少なく、我、他力の救済を忘るるときは、我、物欲のために迷わさるること多いし。我、他力の救済を念ずるときは、我が処するところに光明照らし、我、他力の救済を忘るるときは、我が処するところに黒闇覆う」
このように述べておられます。

正遠先生は、この清沢先生の言葉を受けて、このように応答しておられるのですね。
正遠先生における「他力の救済を念ずる」中身です。
こういうのを「呼応」というのだろうと思います。

聖人』の『聖』という字

2022-03-17
「中国では
    どうも『聖人』の『聖』という字は  
     「聴く」という意味があるらしい」(河合隼雄・心理学者)

 河合先生の指摘されているように、
「聖」は、耳・口・王に分けることができる。
「聖人」は、
 神様のお告げを聞いて道理が分かる人の意味でもある。
関係を育む
関係を育む
 「一人の人格と他の人格との結びが人間関係であるとすれば、
      この相互間の結びを通して
     人が互いに影響し合う人格的なふれ合いを
     人格的な相互関係ということができる。
     この関係を生きることによって 
 人は人間らしく成長する」
   (小林純一・心理学者)
 人は人と会うことで、人となる。
   関係を育むことが、日々の生活でも大切だと思う。
 成長のためには、良き人と出会うことである。
TOPへ戻る