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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

本願に立って自分の役目を果たす。

2022-07-11

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1414
あなた方が一人ひとり変わっている、
違っているのも宿業の違いでしょう。
われわれ、
生きているというのは何も動物より偉いというようなことではない。
自分の宿業を果たすと。
つまり「役目」です。
果たすものは、何に果たすかというと、
本願に立って自分の役目を果たす。
けれども
果たすときには「本願を果たす」のではないかね。
それが「使命」ではないかね。
宿業の身
1413
信者ばかりを増やしても何にもならない。
それは仏教の理解者というだけでしょう。
行者はそうではない。
生きるのです。
本願に立って本願を生きる。
この宿業の身で、本願を生きる。
生きることに自分の宿業を尽くすのです。
「本願に」というところに、
宿業の身が宿業を果たすということになるのです。

本願を信ずれば、信ぜられた本願が我々の足となる。

2022-07-11

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1412
第五(深信)というのが出て来る。
つまり行者になるわけです。
信者にはならない。
これは面白いことでしょう。
信者と言わずに行者と。
本願を信ずれば、信ぜられた本願が我々の足となる。
乗り物となってくるのです。
だから行者と言うのです。
信者では駄目なのです。
信者というのはファンです。

宗教「的」

2022-07-02

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1404
「自己に死んで願に生きる」と。
それがはっきりしないから宗教「的」が流行るのでしょう。
流行っているものは宗教ではない、宗教「的」なのです。
本当の死ということが出てこなければならない。
信心が、それを与える。
感激して死んでいけるのです。
葉隠の「死ぬることと見つけたり」です。


人間が人間を否定すること
1405
人間が人間を否定することが、どうして出来るかね。
否定できるような否定は、
くやしいけれども死んで見せるというようなものです。
絶望する絶望は生殺しです。
絶望で死にはしない。
しかたがないから絶望したのです。
死にたくない、というものが残るのです。
死にたくない、というのはいわば「幽霊」でしょう。
1407
だから現代の文化の中で仏教の会を開くということは、
容易ではないのです。
本当に死ぬる道を明らかにするというのが仏教でしょう。
そんなものにはふつう人間はついてこないのです。
死なずに生きる道ばかりを考えているのだからね。
それだから何とか学会とか何々教とかが流行っているでしょう。
ああいうものしか流行らない。
そのくらいの腹がないと宗教は成り立たないのです。

1409


仏教はインドから逃げて中国へ来た。
中国でも善導は理解されなくて、善導は日本に来て理解された。
では日本が今度はどうなったかというと日本でも滅亡しかけている。
逃げてもあとは太平洋しかない(笑)。
そうしたらどうなるかというと、
居るところが無いなら居る必要がないではないかと。
そんな地球なら居る必要が無いではないかね。
そのくらいの腹がないと宗教は成り立たないのです。

田畑正久先生のはなし

2022-06-29
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第419回
(令和4年 4月18日掲載)医療文化と仏教文化(245)
     仏の智慧の言葉で言いあてられた自分の相(すがた)に、「本当にそうだな」、「言われる通りだ」と受け取れることが「本当に聞こえた」ということです。
     「分かりたい」と思って聞いているのは、仏法という圧倒的に大きなものを自分の理解できる範囲の箱の中に取り込もうと努力をしているのでしょうが、理論的に不可能なことなのです。なぜなら、次元や質が高いものを低い次元で把握しようとしているからです。しかし、人間の理知分別の理想主義というのは、今は無理でも将来は自分の努力で理解できるようになると思い込んでいるのです。
     日本語の原則として「大きなものは述語になれない」という哲学者の西田幾多郎先生の言葉と聞いたことがあります。例えば「私は親を大事にしています」ということを言う人がいます。親を大事にしているということは、財力など扶養する能力、体力や親を思う慈愛の深さが十分にある子が言えることです。親に心配をかけたり、経済的な負担をかけて種々の援助を受けているような「親におんぶに抱っこ」の子どもが、言葉だけで「私は親を大事にしています」と言っても、事情をよく知っている人は「何を言っているの」と発言をたしなめることでしょう。これは卑近な例ですが、「私は仏様を大切にしています」という発言にも同じことが言えると思います。
     仏教においては自分を中心に外側を対象化して観察するという視点が迷いの本(もと)です。自分自身の全体像が見えてないから、決定的に全体が見えてないのです。それなのに、私たちは「自分のことは自分が一番よく知っている」という前提を無意識のうちに自明の理としているのです。
     法話や仏書の教えが、普段は思いもしなかった自分のことを、言い当てた時に、驚くことが大切です。それが「私を超えたものに触れる」ということです。仏の光(無量光、智慧)によって私の相が照らし出された瞬間なのです。しかし、人間の思考は自分の経験をいつの間にか私有化して、それを「私は分かっている」と知識化してしまうのです。仏教ではこれを、なんでも取り込もうとする餓鬼根性といいます。これが私の実態なのです。ただの表面的な反省ではなく、自分の心の在り様にまで深く気付き、それに目覚める事はとても難しいのです。

おまかせする

2022-06-29

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1400

おまかせする、ということです。
それで、おまかせするというのは信心をやめておまかせするのではない。
おまかせするということが信です。
信ずることまでまかせるわけにはいかない。
全てをまかせる。
けれども「まかせる」ことだけは、まかせることは出来ない。
それが信心ではないかね。

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