本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

宿業に随順できるようなものを見出すこと

2020-07-12

717
好き嫌いで人間は悩み、ノイローゼになるわけです。なにも宿業の道理で悩みはしないのです。宿業が分かれば随順できるのです。宿業を蹴飛ばすのが宿業の解脱ではない。宿業に随順できるようなものを見出してくるということです。

718
みな宿業、宿業と言ったりしていますけれども、それは「嫌なものだ」という主観的解釈でしょう。それは宿業が分かったのではない。分からないからそういうことを言っているのです。宿業という言葉も容易に使えないでいる。

2020-06-12

688
言葉は思惟の結果ではない。
原因なのです。
それによって一人ひとりの思惟が、
言葉というものをとおして初めて、
誰にでも通じるようなものになるのです。
つまり妥当性が出てくる。
独り言は他人には通じないでしょう。
それは独り善がりだからです。
だから何でも座談ということが大事なのです。
ディスカッションということをいうでしょう。
やはり胸の中にためていたのでは話にならないのです。

聞思ということ

2020-06-05
命あらん限り、というのが「思」です。

679
聞思と。
つまり言ってみれば、
「思」という字が付かないというと、
信心を獲たらやめてしまう。
やぁ、ありがたいと。
これでもう終わったと、
こういうことになるのです。
ところが
思という字が付くと


終わらせないのです
命あらん限り、というのが「思」です。

聞のほかには、何もないのです。

2020-06-04
「聞即信」ということ
 

677
「聞即信」ということを言います。
聴聞ということをいって
聴は耳で聞くかもしれないけれども、
聞は信心でしょう。
「如是我聞」というように
これは非常に大事なことです。
迷っている人間が覚るようになるには
聞の一字しかないのです。
聞のほかには、何もないのです。

聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。

2020-06-01

676
信を獲(え)るまでは耳に良い加減に聞いていたけれども、
信を獲(え)た時にはわが身に聞いたのです。
わが身にひきかけて聞いたのだから、
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
聞ということがそういうように転じてくるでしょう。

TOPへ戻る