本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

人間像としての菩薩

2020-05-15

659
如来の働きを表わす人間像、
働くものなき働きを表わす人間像を菩薩といい、
その行を不行の行という。
これは
存在の根底の構造を反映する概念である。
菩薩は英雄的なものと考えられるが、
そうでなく、
真に有限なものの面目であろう。
人間像である菩薩は、
有限な限定を持つことによって謙譲である。

菩薩とは

2020-05-15
法蔵菩薩とは?
Yasuda Rizin
661

法蔵菩薩。
これは人間像である。
特定の、ある一人の人間ではないが、
どの菩薩よりも真の菩薩である。
人間というのは弱い者である。
たえず自己をあやまつのも人間、
外に出ることも人間、
しかしながら
外にでても、
出たことを知るのも人間である。
それは永遠の裏があるからである。
あやまちをあやまちと知るのも人間。
たえずあやまつことをひるがえして、
根源の真理に還り、
そこにまたあゆみを新たにして、
一歩一歩永遠を映して行く。
菩薩とは
真に人間らしい人間のことである。
誤ったり、ひがんだり、誇大妄想をいだかぬ人間のこと。
真に健康な人間らしい人間。
そういう像として大乗仏教が生み出した人間である。

不安ということ

2020-05-20

665
人間というものは
地獄に堕ちていないから不安になるのです。
堕ちている人間に不安はありはしない。
そうではないかね。
堕ちた人間、
堕ちきった人間にあと残っているのは
立ち上がることだけが残っているのです。
そうではないかね。
堕ちていない人間が堕ちはしないかと。
それはどうしてそうなるかというと、
人間というものは
自分の分別に生きているからです。


666
分別を固執して、
分別の中に生きているのだけれども、
そこにやはり何か、
現実に触れて生きていない、
何か分別の中に浮かんで生きている、と。
こういう自覚症状があるのです。
嘘をついて、
自分自身を騙している人間、
人も騙しているけれども
自分で自分も、
自分の分別で騙している。
それでもやはり
自覚症状はあるのです。
それが不安というものです。

667
不安。
なんとも言えないこの、
気持ちの悪い気分です。
それが
自分の分別に立っている人間の自覚症状です。偽れないのです。
非常に大事な手がかりになるのではないかね。また
これは、或る人間には有り、
或る人間には無いというものではない。
人間に普遍的な感情です。
そういう
不安というものが無いというのは、
ただガサツなだけです。

如来の使命

2020-05-15

658
如来は
人を救うことに使命がある。
しかし
仏の本来の面目は、
働かぬことにある。
無学の徳を持っているといわれるゆえんである。
その仏を仏たらしめるといえば、
働きなきものの働きを表わさねばならぬ。
如来は菩薩として働くとも言える。
如来の働きは菩薩としてある。
菩薩の働きといって特別にないのであって、
如来が「衆生として」働く。

菩薩と如来

2020-05-15

657
人間像として、菩薩像がある。
菩薩は、
菩薩の段階として『十地経』には、
七地以前と八地已上とあるが、
菩薩は如来の背景、
如来をして如来たらしめる意義をもっている。
そこに菩薩の意義がある。
その場合、
菩薩が如来になると言ってもよいが、
如来を如来たらしめるのであるから、
如来の如来たる働きを、
また菩薩であらわす。

TOPへ戻る