ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
聞のほかには、何もないのです。
677
「聞即信」ということを言います。
聴聞ということをいって
聴は耳で聞くかもしれないけれども、
聞は信心でしょう。
「如是我聞」というように
これは非常に大事なことです。
迷っている人間が覚るようになるには
聞の一字しかないのです。
聞のほかには、何もないのです。
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
676
信を獲(え)るまでは耳に良い加減に聞いていたけれども、
信を獲(え)た時にはわが身に聞いたのです。
わが身にひきかけて聞いたのだから、
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
聞ということがそういうように転じてくるでしょう。
信心というものは
675
信心というものは、
名号にたまわった自覚です。
名号を聞いて自覚の眼がひらけた。
実はその開かれた自覚が聞くのです。
そのように逆を言わないとね。
分からないから聞くというけれども、
それなら分かったら聞かないようになってしまう。
そうではないでしょう。
信を得るために聞くというのなら、
得てしまったらもう聞かなくてもいいということになる。
けれどもそうではないのです。
信を得て初めて、無限に聞きたいと。
時機相応
674
無量寿経に聞くというようなことを言えば、
「に」まで聞いたら「を」まで注意をしなければならない。
そうすればはっきりしてくるでしょう。
つまり聞くのは偶然に聞いたのだが、
聞こうと計画して聞いたのではない。
いろいろな縁に触れて聞いたのだが、
聞いてみたら、
まさしく聞くべき時に聞いたのです。
それが時機到来です。
つまり偶然ではなく必然だったのです。
聞くまでは偶然だけれども、
しかもそこに見出された意味からみると
聞くべき時に聞いたのです。
時が熟したのです。
頭が良かったから聞いたわけではないのです。
頭が良かろうが悪かろうが
善人であろうと悪人であろうと、
そういうことと無関係です。
自己ということ
673
法によって初めて知られた自己というのは、
いつか地獄に堕ちはしないかというような自己ではない。
すでにして堕ちている自己です。
これを知ったのです。
もうこれは堕ちようがない。
一番底に着いたのです。
そういう自身だけがついに本願に乗托することができるのです。
この、機の深信が無ければ法に乗ることができないのです。
そうでしょう。
機の深信が大事なわけです。
法の深信は無限に展開しても、
その法の深信を信ずる自己は機の深信でしょう。
機の深信というものが大事です。
672
親鸞は「自身を深信す」というのですが、
このまとめ方が面白いわね。
善導は「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫云々」と、
自身が主語です。
それを目的語にしてしまうのです。
「自身を深信す」と。
自身は何々であるという、
そういう自身を信ずる。
自己を信ずると。
つまり自己を初めて知ったという意味でしょう。