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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

落在者

2022-11-25
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
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落ちてないから怖れる。
落ちはしないかとね。
落ちた人間は怖がりはしない。
地獄を背負うて立つ。
地獄が我だというのが落在者です。
そういうものでないとこの資本主義の中にあってしかも資本主義から逃げずに、資本主義を超えて資本主義に随順していく道は無いのです。
それだけのハラがないとね。
人間の考えたハラくらいでは資本主義は破れないのです。

仏を仏たらしめた法というものは

2021-04-21
釈迦仏が発明したのではない。

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


994
仏を仏たらしめた法というものは
釈迦仏が発明したのではない。
発明したのなら法とは言わないのです。
釈迦仏が出遇った。
見出した。
作ったのではないのです。
そういう真理がある。
真理といっても理論的な真理という意味ではない。
本来的な真理です。
われわれが忘れていた真理です

自覚するものがあって 自覚しているのではないのです。

2021-04-15
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
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鏡がなければ自分を映してみることはできないでしょう。
自分が自分を知っているというのは独断でしょう。
自分に自覚するものがあって
それを自覚すると考えたら
独断になるのです。
自覚するものはないのです。
自覚ということも自覚される。
自覚されるということも自覚していうことである。
自覚するものがあって
自覚しているのではないのです。

曽我先生の『救済と自証』は金子先生がまとめられた。

2021-06-15
Facebook Yasuda Rizinさん曰く
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曽我先生の『救済と自証』は金子先生がまとめられた。
その後に『地上の救主』が出ましたね。
一番はじめに『救済と自証』が出て、だいたい三巻でまとまっています。
生前の全集です。
暁烏さんは「生きているあいだに全集を書くものではない」と言ったけれども、生前の全集ということも成り立ちます。

本多弘之「「願に生きる」ということ」

2020-09-08
[9月HP更新] 本日は本多所長書下ろしコラム「濁朗清風」をお届け!

■本多弘之「「願に生きる」ということ」(3)

親鸞による本願の受け止めとしての信心は、
「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(聖典430頁)に、見事に結実している。
その背景には、『教行信証』「信巻」の厳密な内省的考察があることは言をまたない。
真実信心の発起する根本原因を、第十八願にあると見定めた親鸞は、
それに対応する機の願(第十九・二十願)によって、「化身土巻」の内容を考察していかれた。
その発想の気づきは、願自身を表現している「言葉」の重視とその熟察からきていると思われる。

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