ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」➂
諸仏国土の共通の善根には、阿弥陀の一切衆生を救済せずにはおかない誓願が響いている。一切衆生の無上仏道への道筋が、阿弥陀の誓願によって、平等の大道として開示されているからである。大道であるからには、衆生の条件や状況を問わず、苦悩の有情(諸有として現実に存在している生存者)がある限り、平等に歩むことができる道でなければならない。その一切衆生に平等に呼びかける方法が、「諸有の衆生が名を聞く」(聞名)という方向性において開示されているのである。
名とは一般的には言葉であり、いわゆる名詞である。本願において呼びかける名は、単なる名詞でなく、「聞かれるべき名」として、救われるべき衆生に対し、救い得るはたらきを内に蓄えている願心の言葉である。その言葉としての名の意味が衆生に聞き届けられるとき、名の具足する意味がはたらいて、衆生に本願の功徳が施与されるのである。本願の名は単に固有のものを指す名詞ではなく、本願によって「名が行である」とされる所以なのである。
こういうことであるから、「名」が本願の選択摂取した「行」であるということには、名の意味が衆生によって聞き届けられる必要がある。そこに、親鸞が「行・信」という課題を展開された意味があるのである。すなわち、本願の誓う行とは、有縁の衆生が自分の意欲で行う行為という意味ではなく、諸仏によって平等に讃嘆される名となった行であるとされているのである。そのことをしっかりと聞いて信じ受け止めることが、衆生の救われる条件として待たれているのである。
天親菩薩は『浄土論』に、この本願の聞名の道理を菩薩道の道理として展開している。『無量寿経』にある法蔵願心の因果の道理を、『浄土論』における菩提心の因果に照らし合わせると、どうなるのであろうか。『浄土論』では、菩薩道の五念門(自利・利他)は、利他の「回向門」において極点に達する。このことを、論主は「回向を首として大悲心を成就するを得るがゆえに」(「回向為首得成就大悲心故」)と述べている。
この回向の因果の展開に、浄土を建立するという『無量寿経』の展開を差し挟むわけだが、それはどういう意味なのであろうか。ここに実は、曇鸞の『論註』の解釈において、回向には、「往相・還相」の二回向という菩提心の方向性を表すが如き言葉が出される必然性がある。この回向を往還の「二回向」に展開するという曇鸞の了解をくぐって、本願の仏道を「行・信・証」として解明することができると気づかれたのが、親鸞であった。こういう次第で、親鸞の『教行信証』の著述が誕生したのである。この天親の語る菩薩道は、『無量寿経』に照らせば、法蔵願心の菩提心の展開であり、その回向成就は、阿弥陀の大悲の回向成就であるというのである。
(2022年11月1日)
「家」という日本の制度
facebookYasuda Rizinさん曰く
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」②
諸仏の国土とは、大乗仏道の歴史が見出した大いなる法界(大乗無上の菩提の内容)に、僧伽を支えてきた無数の求道者が値遇したことを現わそうとしているのであろう。そこには、果徳の平等性と共に、因位の差異を表している様々の名前によって、諸仏それぞれの因位の過程や求道課題の差異が認められているのである。
『大無量寿経』に説き出される本願の主人公は、法蔵菩薩という名前であるが、その法蔵菩薩の物語は、師である世自在王仏の前で自己の願心を表白し、師仏に証を請うという形をとっている。その願心は、自己の仏国土を建立せんとし、その国土建立のために諸仏の国土の善悪を覩見(とけん)して、その善なるものを選びとり悪なるものを選び捨てて、十方衆生の平等の成仏の方法を五劫に思惟して選択摂取したとされている。
これによって、諸仏の願心に共通する最善の願として、法蔵願心が成就する条件として、諸仏によって証誠讃嘆されること、もし讃嘆称名されないなら正覚を成就しないことが誓われているのである。その誓いは、親鸞によって「諸仏称名の願」と名づけられた第十七願である。この願によって諸仏の因位の願心に共通する願として、阿弥陀の御名を称讃し称名する願が「選択摂取」されたとされているのである。
『無量寿経』下巻の始めに、第十一願・第十七願・第十八願の成就が次第を追って表記されてくることに注目してみると、十方衆生の上に無上仏道(大涅槃)を成就するために、法蔵願心が展開するときに、まず「大涅槃に必ず至る位としての正定聚」(つまり第十一願成就)が成り立つことが語り出されていることがわかる。
そして、そのために、第十七願・第十八願の成就が表記されているのである。この展開に気づいた親鸞は、『無量寿経』の表す衆生救済の道筋を、本願の語る内容に添って、教・行・信・証という展開を見てとったのである。
この本願の道筋に触れた龍樹菩薩や天親菩薩の表現を、その後の求道者たちは、仏説に随順し、自己の問題意識によって仏説を受け止め直しながら歩んだ方々の指標として見ているのである。この受け止めにおいて、阿弥陀の諸仏称名の願を見るならば、阿弥陀が自分が正覚を成就するには、諸仏に称名し証明してもらいたいという願いに賛同することにおいて諸仏も自己を成就するのだと言うことができよう。これは阿弥陀仏の成り立ちが、諸仏の成り立ちに重なっているということでもある。言い方を変えれば、本願の真実は諸仏が生まれてこそ真実たり得るし、真実は諸仏に依って証明されてこそ歴史の事実となるのだとも言えよう。
(2022年10月1日)
第231回「法蔵菩薩の精神に聞いていこう」①
親鸞聖人のお言葉には、人間存在のもつ実相への深い洞察とそこから染み出てくるような懺悔の心が感じられる。このことには、その背後に『大無量寿経』にまで煮詰められた大乗仏道の菩提心の歴史があるのであろう。総願から別願を開示して、この大乗の菩提心を掘り下げるべく歩みを進めるところに、「法蔵菩薩」なる人間像が生み出されてきている。
私たちは、決して自見の覚悟に陥ることなく、この菩提心の歴史を担った法蔵菩薩の精神に随順して聞思していきたいと思うのである。この精神の根本には、大乗の「涅槃」、すなわち「無上大涅槃」ということがある。この事柄を人間存在の究極の課題であると押さえることが、大乗仏道に生きようとするものにとって、常に憶念されるべき大切な方向性なのであろう。
このことが出発点であると共に、到達点でもある。仏道の極致である無為法としての大涅槃が、「法性・一如・真如」などとも表現され、そこから法蔵菩薩が立ち上がったという親鸞の「法蔵菩薩」の了解が出されてきているのである。物語としての『大無量寿経』は、究極的目的や出発点となる無為法などという概念そのものではなく、一切の衆生を視野に入れた救済物語として語り出されている。人間像としての「法蔵」なる菩薩のもとに、自利利他の菩提心の吟味が説き出され、その時に大乗仏道の歴史的な背景が「久遠無量」という超時間的な言葉で表明されてくる。大乗の菩提を求める要求は、人類の存在と共に古い要求であり、その目的たる大涅槃は、人間存在にとっての故郷とも表現されるような根源的意味があるとされているのである。
法蔵菩薩の菩提心は、別願であるという。菩薩の総願は、四弘誓願に総括されているが、その中から、ことさらに「生きる」ことの根本にある環境的課題を解明するべく、仏土を建立するということが提示され、その仏土のあり方への要請が弘誓として展開されているのである。
その国土の建立に当たり、諸仏国土の覩見(とけん)ということが出されている。仏陀の自内証とは、大乗の仏道においては諸仏平等であるとされる。正覚とも言われる「菩提」の内実は、諸仏においてすべて差異や上下が見出されず、平等なのだという。それは「無我」とか「空」といわれる根本の智慧が、みな同等であるということである。
それに対して、諸仏国土の善悪を覩見するとは、いかなる事態を言い当てようとするのか。果位の諸仏の自内証が平等の智慧であるのに対して、諸仏国土の違いとは、因位の願心の差異であろうと教えられている。法蔵菩薩は諸仏の願心の差を見通して、国土の因の問題を考察することに、「五劫思惟」という超時間的時間を掛けていくのである。
(2022年9月9日)