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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

「ありがとう」で終わる人生

2020-06-24
「浄土を求めさせたもの─『大無量寿経』を読む─」52

空しく過ぎるひとなし

親鸞仏教センター所長 本多 弘之

 「身独り空しく立ちてまた依るところなし」(『真宗聖典』72頁、東本願寺出版、以下『聖典』)。「空しく立ちて」というのは、周りに頼るべきものがないということ。天親菩薩の『浄土論』では「空過」、空しく過ぎるという言葉があります。この人生はどうやって見ても空しく過ぎるという面をもつ。だから空しく立つというのは、「ああ、この人生は一体なんだったのだろう」と、時には思わされる。これが人生だったのだと頷けるようなものが感じられない。

 ところが、阿弥陀如来の大悲に遇うということの意味を、親鸞聖人は空しく過ぐる者はないと言われる。つまり出遇ったことがもう十分意味を与えてくださっている。それは天親が不虚作住持功徳と名づけている浄土の功徳です。我々は「空しく過ぎているな」と自分の人生を感じたときに、「南無阿弥陀仏」というひと言で、「ああ、空しくなかった」と思えるか。そう教えが聞けているかというと、人前ではこのような偉そうなことを言っているけれど、自分自身は「ああ、空しく過ぎたな」と感じてしまう面もあるのです。しかし、「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき」(『聖典』490頁)と和讃で親鸞聖人は語っているわけだから、「ああ、そうか、やはりそういう出遇いをしなければいけないのだな」と。

 そういう出遇いをするということは、「現生に十種の益」(『聖典』240頁)、利益を感ずるということでもあり、「願生彼国、即得往生」(『聖典』44頁)、願生すれば即往生すると言える人生なのだと、そういう頂き方をするということなのです。必ず往生するぞと信ずるのではなくて、『無量寿経』で語っている往生するということは、浄土に生まれたら正定聚だと語っているわけですから、正定聚を現生で得るということは、浄土に生まれた功徳を得るということです。そういう出遇いをしなければ、親鸞聖人が言うお言葉にふさわしいとは言えないわけです。それはなかなか大変なことです。それでも親鸞聖人は、やはり煩悩の身、無慚無愧の身であると、そう言うのです。それと何ら矛盾しないはずなのです。そのくらい阿弥陀の光が明るいことを実感しておられるわけです。

 これが若いうちはほとんどわからなかったですね。この歳になってわかるかというと、相変わらず何だかちょっとわからないのですけれども、それでも親鸞聖人がおっしゃる本当の信念の内実というものに近づいてみたいという思いがあるものだから、この人生で満足成就したと言える、そういう思いが本当に与えられるのならば出遇ってみたいと思うのです。金子大榮先生はそれを言っておられました。自分の人生は完全燃焼の人生でしたと。あそこまではなかなか言えませんけれど、少なくとも親鸞聖人は、心は愚かである、そして光は十分に与えられてある、自分の煩悩からは見えないけれど、向こうは見てくださっていると信ずるのだと。願力に遇いぬれば空しく過ぐる者はないと頂かれたということは、こういうことなのです。不思議な言い方だと思うのです。
(文責:親鸞仏教センター)
 

真如ということ

2020-07-04

709
真如とは知的直観としての意味なのです。そういうことを失ってしまうと言葉に酔う。ただ文学的ムードに酔ってしまうことになるのです。やはり道理と。意味とか意義にするのは道理なのです。そこに理がある。論理ではないのですけれども道理という。道理が意義なのでしょう。また道理の味なのでしょう。道理を感ずる。こういうものがないと思想にならないと思います。人間が救われるというのは、道理に救われるのです。

706
思想の堕落とは、文学的な、ひとつのムードです。「酔う」のでしょう。言葉の文学的な内容だけに、つまり感性的な内容だけに固執すればムードです。それは言葉を尊敬しているのではない、却って言葉に酔ってしまっているのです。だからロゴスということをやかましく言うのです。感覚的な味でなしにロゴスの味です。ロゴスの意味なのです。

横超という一語が真宗、選択本願というものを代表している言葉です。

2020-07-20

725
そこで超越という非常に大事な概念が出てくる。横超という一語が真宗、選択本願というものを代表している言葉です。それが無量寿経の下巻に出ているのです。易往無人という言葉も下巻に出ています。下巻というものは全体として本願成就を語っているのです。

自覚的超越です。

2020-07-19

724
ただ有限を捨てて無限に超越すれば、それは奇蹟でしょう。自覚的ではないでしょう。超越ということも意識ということに立つならば、超越ということが自覚なのです。自覚的超越なのです。奇蹟的超越ではない。こういうことをはっきりしなければならないのです。

726
もっと言えば横超ということは本願を語っているというよりも本願成就を語っているのです。本願成就の教えが横超の教えなのです。そこに即得という字がある。「願生彼国 即得往生 住不退転」と、ここに即得という字がある。この即という字が横超なのです。一歩一歩ではないということです。

超越ということ

2020-07-17
 

722
だから超越といってもただ有限を超越して無限になるという意味ではない。主観を破ることを超越というのです。主観の固執を破ることを超越という。超越という言葉も思想が変わればみな変わってくる。有限を超えて無限にいくということは超越とは言わない。有限の固執を破るのです。

723
有限をやめるというのではないのです。有限の固執を破れば、有限のままが無限なのです。有限を捨てて無限に超越するのではないのです。有限の固執を自覚すれば有限のままが無限なのです。固執という妄想を破って道理に目覚めると。ですから超越が自覚的なのです。

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