ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
宿業に随順できるようなものを見出すこと
717
好き嫌いで人間は悩み、ノイローゼになるわけです。なにも宿業の道理で悩みはしないのです。宿業が分かれば随順できるのです。宿業を蹴飛ばすのが宿業の解脱ではない。宿業に随順できるようなものを見出してくるということです。
718
みな宿業、宿業と言ったりしていますけれども、それは「嫌なものだ」という主観的解釈でしょう。それは宿業が分かったのではない。分からないからそういうことを言っているのです。宿業という言葉も容易に使えないでいる。
688
言葉は思惟の結果ではない。
原因なのです。
それによって一人ひとりの思惟が、
言葉というものをとおして初めて、
誰にでも通じるようなものになるのです。
つまり妥当性が出てくる。
独り言は他人には通じないでしょう。
それは独り善がりだからです。
だから何でも座談ということが大事なのです。
ディスカッションということをいうでしょう。
やはり胸の中にためていたのでは話にならないのです。
聞思ということ
679
聞思と。
つまり言ってみれば、
「思」という字が付かないというと、
信心を獲たらやめてしまう。
やぁ、ありがたいと。
これでもう終わったと、
こういうことになるのです。
ところが
思という字が付くと
終わらせないのです
命あらん限り、というのが「思」です。
聞のほかには、何もないのです。
677
「聞即信」ということを言います。
聴聞ということをいって
聴は耳で聞くかもしれないけれども、
聞は信心でしょう。
「如是我聞」というように
これは非常に大事なことです。
迷っている人間が覚るようになるには
聞の一字しかないのです。
聞のほかには、何もないのです。
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
676
信を獲(え)るまでは耳に良い加減に聞いていたけれども、
信を獲(え)た時にはわが身に聞いたのです。
わが身にひきかけて聞いたのだから、
聞けば聞くほど聞かざるを得ないのです。
聞ということがそういうように転じてくるでしょう。