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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

まあ、こんなことを、今度の火事で学びました。

2020-05-12
亀井先生は次のような安田先生のお話を聞かれたと書かれておられました。
  • 「焼かれた」のでもない、「焼いた」のでもない。
    ただ「焼けた」と。
    そうすると事実を事実のまま淡々と受けていけるのではないかね
    自も他も損なわんで済む。こんなことを今度の火事で学びました。
      
      
                   ( 安田理深 ) 

 


 

名古屋の亀井先生が書かれたもので拝見したのですが、安田先生のお宅が隣家の火事で類焼して、蔵書やノート類など、全て燃えてしまわれた時のことだそうです。その直後の学習会で亀井先生は次のような安田先生のお話を聞かれたと書かれておられました。

 


 

こんどの火事でね。まあいろんなことを学ばされたんだが、私の場合、一応、隣りからの類焼だわね。だから、”焼かれた”と思う。と、どうしても復讐心が起こるわね。腹が立つ。
 
じゃ、そうでなく、”焼いた”と。自分が焼いたということになれば、心が暗いやね。やりきれない。そうでないかね。
 
だけどね、”焼かれた”のでもない。”焼いた”のでもない。ただ、”焼けた”と。そうすると事実を事実のまま、淡々と受けていけるのでないかね。自も他も損なわんですむ。まあ、こんなことを、今度の火事で学びました。
 

 


 

”ああされた”でもない、”こうした”でもない。”こうなった”。

”なくされた”でもない、”なくした”でもない。”なくなった”。

安田理深先生の語録

2020-05-12
http://www.asahi-net.or.jp/~YI9H-URYU/tera/word/h-rizin.htm   検索サイトです。

信頼ということ

2020-04-03
【試聴】「浄土の教学」安田理深/法話CD「本願に生きた念仏者シリーズ」③|東本願寺出版
1980年真宗本廟同朋会館において行われた「同朋会運動の願いに聞く集い」での音声を収録。生涯、聞法の生活一筋で歩まれた安田理深師の熱のこもった講義。

法然上人という人

612
信頼、これは大事なことです。
教育というようなことは皆、そうなるのではないかね。
しゃべっていないと人が教化できないというのではない。
その人が居ることで人が救われてしまうと。
そういう、沈黙していても、会った者がなにかそこに力を得てくると。
こういうのが本当ではないかと思うのです。

 

613
親鸞は法然に会ってはじめて、
これは知識人ではないと。
本当の人だと。
だからそれを逆に言えば、弁解しない人です。それは
「あなたの間違いではないか」と言われて
「いや、そうでない」と言い返さないのです。弁解しない。
「その通りです」と言うのです。
そういう、自己を弁解しない人というのが、
初めて信頼できる人ではないかと思います。
法然上人はそういう人だったのです。
単に噂を聞いているあいだは分からなかったのです。
親鸞は法然上人の噂は聞いていたのでしょう。その噂を通してみるとあまり法然上人の生き方を親鸞は好まなかったのでしょう。
むしろ好むのは源信僧都です。


 

人間が完成する

2020-05-04

646
信心の問題といっても宗教の問題といっても
人間と別にそういうものがあるわけではない。
人間が完成するというところに
宗教というものの問題があるのでしょう。
宗教は人間について「付け足し」の問題ではないのです。
宗教というものがなければ人間は完成しないのです。

647
人間だけで人間が完成するものではないと。
宗教問題と人間問題というものは一つだと。
こういうようなことが
基礎になっているのではないかと思うのです。
「いや人間の問題は人間だけで十分だ」と、
そういう考えも一つの考えだけれども、
そうではないでしょう。
人間というものは、
人間では解決できない問題を自己の問題とする。
それが人間なのだと。
こういうわけです。

648
神というものを立てるときに、
神は不思議だというけれどもそうではない。
人間のほうが不思議であると。
この不思議な存在、それが人間であると。
人間というものは、
人間にわからないような問題を持っているのです。
人間以上の問題を持っている。
それが人間である。

649
人間の問題は人間でやる、
人間以外の力は要らないと。
こういう一つの「人間で人間を決めた」考え方です。
しかし人間の持っている問題は、
人間の能力を超えた問題なのです。
それが却って人間の問題であると。
であるからして
宗教問題と人間の問題が一つになってくる。
だから
宗教問題は
人間にとって贅沢な・要らない問題ではない。
隠居した問題ではない。
隠居になると
これはどうなるかというと、
風習になってしまう。
風習です。
習慣になってしまうのです。

創作ということ

2020-04-26
642
自分の造ったものが自分の中に入るのなら、
その創作品はまだ未完成だと。
自分の造ったものに

分が驚くと。
あぁ…、と作者自身が作者を忘れた。
造ったものによって
作者自身がびっくりすると。
こういうところに
創作というものがあるのです。


644
作るものは因であり、
その因によって作られた結果のほうは、
逆に因の意義をもってくると。
だから
親が子をつくれば親は因であるし
子は結果です。
しかし

子がなければ親ではない。
ただの男女です。
そうすれば
逆に親のほうは果になるわけです。
子どものほうが因になる。
因果が逆倒してくる。
この因果の逆倒ということが
非常に大事なことです。
知とか行ではまだ逆倒が無いけれども、
作るということになると
因果が逆倒してくる。

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