願正寺からの発信
コロナと向き合う:願正寺からの情報発信
田畑先生より
2020-12-24
「医療は誰のため、高齢者のがん医療を考える」唐澤久美子(東京女子医大、放射線科教授)
医療の目的は、健康の増進により、その人の人生を良くすることである。
医療によって自分の人生が良くなるかを決めるのは本人であり、narrative based medicine (ナラティブ・ベイスド・メディスン) が注目されるようになってきた。エヴィデンス・ベイスド・メディスン( evidence based medicine ) では,人間を生物一個体として捉え、客観的なデータにより治療法を決めている。しかし,ナラティブ・ベイスド・メディスンでは、その人の考え方や生活を尊重して治療方針を決定する。患者の生き方、考え方、社会的立場、家族関係などの物語を伺い、医師の物語(診断や推奨する治療法)患者にお伝えする。
その上で、患者と医師の物語をすり合わせ、「それぞれの方法には意味がありますが、どうしましょうか、あなたはどう思いますか」と対話をして患者の意思に従って治療を決めていく。(中略)
医療は、医療を受ける本人のためのものである。Doctors magazine 2020年12月号p2
医療者の一人として深く反省とさせられる内容であると同時に時間的余裕があるだろうか??
チーム医療を作って、進めていかなければ医師の負担が増えるように思われる。
田畑先生からの発信
2020-12-24
大分合同新聞医療欄「今を生きる」第387回
(令和2年9月21日掲載)医療文化と仏教文化(213)
「渡る世間は鬼ばかり」と見る分別思考から、「渡る世間は菩薩ばかり」と見る仏の智慧の視点への変化に導くのが仏教です。
私のいとこが父親を「人が良くて、損な役回りばかりして」と見えたのは、その内面の変化が外に現れた相でしょう。
「渡る世間は菩薩ばかり」と考えて世間を生きると、多くの人は「バカ」だなあと言うでしょう。漫画家の赤塚不二夫氏の「天才バカボン」。「バカボン」は漢字で「婆(薄)伽梵」と書きます。意味は「煩悩を超越した徳のある人」ということです。バカボンのパパの決めゼリフ「これでいいのだ」という言葉は、「すべてをありのままに受け入れる」悟りに近い境地を示しているといえるでしょう。
タレントのタモリさんが赤塚氏の葬儀で弔辞を述べられています。その一部を紹介します。「あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、『これでいいのだ』と。」
生身を持って現実の時代、社会、文化、世界状況の中を生きるためには、理知分別をはたらかせて人知を尽くすしかありません。幸いにも仏教にご縁ができ、その異質性に触れて、私の理知分別の人知を生きることの愚かさ、煩悩性を照らし出され、それを超える世界の有ることに目覚めさせられました。
小ざかしい分別の思考では幸せのためのマイナス要因、すなわち悪、損、負け、嫌い、苦、不安、障害、老病死などを受け取れず、迫りくるマイナス要因に愚痴を言うしかありません。そういう私を見透かして「汝、小さな殻(分別)を出て、大きな世界(仏智)を生きよ」と呼びかけ、呼び覚ます言葉が「南無阿弥陀仏」です。
呼び覚まされ、仏の世界へ呼び戻されたところに「これでいいのだ」の世界が広がるのです。
田畑先生の投稿
2020-12-06
人間、人生の全体を考える
日本医事新報2020年9月19日号No.5030. p.58 掲載
♯医療と仏教 「人間、人生の全体を考える」田畑正久
新型コロナウイルス、安楽死、尊厳死など、人間の生命に関わることがマスメディアに出ない日はありません。これらは「人間をどう見るか」「人生をどう考える」の課題が現れていることだと思います。
医療関係者の傾向として、現代科学を総動員して治療にあたろうとします。これは尊いことで、患者はその恩恵を受けることになります。しかし、医療者が最善を尽くしても患者が力尽きて「死」に至ることも避けられません。医療者の多くは科学的思考で訓練されてきています。そのために「死んでしまえばおしまい」と考えて取り組んでいるのです。
十数年前、「モリ―先生との火曜日」(ミッチ・アルボム著、NHK出版)という本が話題になりました。モリーさんは筋萎縮性側索硬化症(ALS)だったのです。忍び寄る死の影。しかし師の顔には昔と変わらぬ笑顔がありました。「この病気のおかげで一番教えられていることとは何か、教えてやろうか?」 。そして、老教授の生涯最後の授業が始まります。
モリーは海のエピソードを教えます。「小さな波は海の中でぶかぶか上がったり下がったり、楽しい時を過ごしていた。気持ちのいい風、すがすがしい空気……ところがやがて、ほかの波たちが目の前で次々に岸に砕けるのに気がついた。『わあ、たいへんだ。ぼくもああなるのか』。そこへもう一つの波がやってきた。最初の波(小波)が暗い顔をしているのを見て、『何か、そんなに悲しいんだ?』とたずねる。 最初の波は答えた。『わかっちゃいないね。ぼくたち波は皆、砕けちやうんだぜ! 皆なんにもなくなる! ああ、おそろし』。すると二番目の波がこう言った。『ばか、分かっちゃいないのはおまえだよ。おまえは波なんかじゃない。海の一部分なんだよ』」
穏やかな小波の状態であるのを「私」と思い、その状態を当たり前、当然の事と思っていたのです。そして、刻々と変化する自然現象(自然な姿、縁起の法による変化)によって起きた強い波を見て、「ぼくもああなるのか」と混乱が引き起こされたのです。小波にとって、穏やかな海を本来の姿と考え、その状態を局所的、近視眼的に見て、海の全体像が見えていませんでした。
我々医療者は、人間、人生の全体を考え、「老病死」に対処することが求められています。それには、仏教文化を含めて、人類の文系文化を総動員する必要があります。
報恩講2020
2020-11-24
東本願寺Hp
報恩講4日目。大寝殿では「お斎」接待が行われています(~28日)。
「お斎」は仏事として、御同朋が食材を持ち寄って宗祖のご遺徳を偲びながらいただいたことに由来しています。真宗本廟では現在もその伝統を受け継ぎ、全国各地の「講」から持ち寄られた食材によって調理されています。
今年は、新型コロナウィルス感染対策のため、席数を減らし、ソーシャルディスタンスを確保し、飛沫防止パーテーションを設置しての実施となりました。また、これまでのお膳形式ではなく、折詰お斎、温かいけんちん汁、東本願寺の水、(お土産に輪島漆塗箸、報恩煎餅)といった内容での接待となりました。それでも来場された方々からは「とても美味しかった」という声が聞かれました。
「お斎」は仏事として、御同朋が食材を持ち寄って宗祖のご遺徳を偲びながらいただいたことに由来しています。真宗本廟では現在もその伝統を受け継ぎ、全国各地の「講」から持ち寄られた食材によって調理されています。
今年は、新型コロナウィルス感染対策のため、席数を減らし、ソーシャルディスタンスを確保し、飛沫防止パーテーションを設置しての実施となりました。また、これまでのお膳形式ではなく、折詰お斎、温かいけんちん汁、東本願寺の水、(お土産に輪島漆塗箸、報恩煎餅)といった内容での接待となりました。それでも来場された方々からは「とても美味しかった」という声が聞かれました。