本文へ移動

仏教美術

ちょっと気になる逸品の世界

空也上人立像はなぜつくられた?

2022-04-05
重要文化財 空也上人立像 康勝作 鎌倉時代・13世紀 京都・六波羅蜜寺蔵 (写真=城野誠治)
*特別展「#空也上人 と #六波羅蜜寺 」は本館特別5室にて5/8まで

空也上人立像。僧侶の肖像彫刻として、こんなに多くの人に愛されているお像は、他にはなかなかないのではないでしょうか。
人びとを救うために行脚しながら、南無阿弥陀仏の念仏を唱えている様が表され、
その念仏の一語一語がほとけ様となって、口の中から現れて出て来ているという奇跡を、立体として具現化しています。
一度見たら忘れられない、抜群のインパクトです。
この像が作られたのは、空也上人が生きた平安時代から250年近くを経た鎌倉時代のはじめ。 作者は、鎌倉時代の大仏師運慶の四男、康勝(こうしょう)。像内に「僧康勝」という署名と花押(サイン)が記されており、康勝が20歳そこそこの時につくったとみられます。
「僧康勝(花押)」の墨書銘(空也上人立像の像内腹部) 写真提供:奈良国立博物館

· 永観堂の見返り阿弥陀如来

2022-02-27
Facebook 藤賀隆章さん曰く
みかえり阿弥陀 永観堂禅林寺

   和歌
 
 この歌は、平安時代初期に、永観堂(禅林寺)を創建された弘法大師の弟子真紹僧都(しんじょう 797-873)の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌です。永観堂は仁寿三年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、親しまれて、“モミジの永観堂”として千百有余年のかがやかしい歴史を持った京都有数の古刹です。 真紹僧都は真言宗の僧侶であったため、禅林寺は真言密教の道場として始まります。創建にあたって、真紹僧都は「仏法は人によって生かされる、従って、我が建てる寺は、人々の鏡となり、 薬となる人づくりの修練道場であらしめたい」との信条のもと『禅林寺式』を著し、照り映えるモミジ葉の輝きにも負けぬ、智徳ともにすぐれた人材養成を理想の旗印に掲げられたので、 風光の美しさとともに、伝統的に各時代の指導的人材の輩出を数多く見ることとなりました。
 永観堂の歴史は、大きく三つの時代に分けられます。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし 1033-1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代です。次は永観律師から静遍僧都(じょうへんそうず 1166-1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院でした。その後は浄土宗の寺院となりました。
永観堂(Eikando,Kyoto)

永観堂の正式名称
聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺
しょうじゅらいごうさん むりょうじゅいん ぜんりんじ
 第七世永観律師にちなみ''永観堂''と通称される。
創 建
貞観五年(863)
清和天皇より「禅林寺」の勅額を賜う
宗 派
浄土宗西山(せいざん)禅林寺派
宗 祖
法然上人(源空)
派 祖
西山上人(證空または証空)
法 主
第九十一世 久我 儼昭猊下
(平成30年6月1日就任)
永観律師(ようかんりっし 1033-1111)
  和歌

 と詠まれた永観律師(ようかんりっし 1033-1111)はことに高名です。律師は、自らを「念仏宗永観」と名のられる程、弥陀の救いを信じ、念仏の道理の基礎の上に、当時、南は粟田口、北は鹿ケ谷に到る東山沿いの広大な寺域を持った禅林寺の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努力せられたことは、多くの史書にみえるところです。永観律師は幼少より秀才の誉れが高く、三論宗の学匠として名声を得るまでになりましたが、地位も名声も捨てて東山禅林寺に隠遁することを選びます。18歳から日課として一万遍の念仏を称え、後には六万遍もの念仏を称えたといわれています。禅林寺を永観堂と通称するのは、永観律師に由来しています。
 永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都です。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人(1133-1212)の死後、その著「選択(せんちゃく)本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依されました。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代としました。そして、法然上人の高弟西山証空上人(1177-1247)に譲りました。その後、証空上人の弟子、浄音上人(1201-1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となりました。以来今日まで、約八百年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げています。
 歴史の変遷とともに永観堂も隆盛・衰退を見ますが、近代を迎えると、71世の徹空俊玉僧正(?-1881)は社会福祉事業に貢献されました。師は京都府立病院の前身にあたる療病院の設立に尽力されました。
 永観堂が浄土宗の寺院へ変わったのは、すべての人々が救われる道をそこに見いだしたからです。今も阿弥陀如来の慈悲に導かれ、永観堂は多くの人々の篤い信仰に支えられています。

歴史の詳細年表はこちらへ

中々大胆な設えです。

2022-06-19
真宗大谷派金沢別院での宗祖親鸞聖人750回御遠忌に採納つれた打敷の仕様です。
大谷婦人会からの御懇念が運ばれました。
750回バージョン、本廟は、こんなでした。
別院、末寺は、こんなでした。
700回忌は、こんな感じでした。
TOPへ戻る