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動画のページ

闘いの記録 (戦争と人間)

「結論急ぐな!」自民TPP作業部会が大荒れに・・・(13/03/11)

2022-08-21
2013/03/11 TPP=環太平洋経済連携協定の交渉の参加を巡って、自民党では、医療などに関する作業部会が開かれましたが、会の冒頭から激しいやり取りになりました。

溥儀の映像と肉声 (東京裁判での証言から、1946年8月16日) 中日双语字幕

2022-08-12
清朝の最後の皇帝(ラストエンペラー)、満州国の皇帝だった愛新覚羅・溥儀の極東国際軍事裁判(東京裁判 )での証言(1946年8月16日)から 中国語が聞き取りやすいです。蒋介石や毛沢東とちがい、北京語ペラペラみたいです。 三カ国語が飛び交ってぐちゃぐちゃな「なんか大丈夫かこれ」的な裁判の様子をお楽しみください。

宮内庁:玉音放送の原盤を初公表 音声も公開

2022-08-12
2015/08/01 戦後70年に当たり宮内庁は1日、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤を初めて公表し、併せて音声を公開した。 玉音放送は、1945年8月15日正午からラジオ放送された昭和天皇による終戦詔書の朗読(約4分30秒)。前日の14日深夜、当時の宮内省内で録音された。昭和天皇はとり直しを希望して2回読み上げ、2種類の原盤が完成した。今回公表されるのは、実際に放送された2回目の録音の原盤
「聖断」舞台の防空壕 天皇が終戦決意 宮内庁が公開
2015/08/01 宮内庁が1日付で、太平洋戦争中に昭和天皇の防空壕として使われた皇居・ 御文庫(おぶんこ) 付属室の写真や映像を公開、現在の様子が明らかになった。70年前の夏に、天皇が戦争終結を「聖断」した歴史の舞台。御前会議が行われた地下の会議室は、時の経過を示すように床が朽ち果て、分厚い鉄扉にさびが浮かんでいた。

ドキュメント『行き先も、分からずに~20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶~』

2022-08-10
ドキュメント『行き先も、分からずに~20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶~』〈福生市制作:記憶のアーカイブプロジェクトⅠ〉
福生市では、シベリア抑留の体験者である近田明良さん(福生市在住)のドキュメンタリー映像『行き先も、分からずに~20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶~』を制作しました。  近田さんは、太平洋戦争終結後、ソビエト連邦の捕虜として約3年間、モンゴル、ウクライナなどで強制労働を強いられました。マイナス20度を超える酷寒での野外労働に加え、粗末な食糧事情などで、多くの同僚を失いました。  福生市公民館松林分館では、そうした体験の記憶を後世に残し、未来に語り継いでいくため、ドキュメンタリー映像の制作を企画。「記憶のアーカイブプロジェクト」と銘打ち、秘書広報課の協力の下、延べ4時間を超えるインタビューを行い、編集からナレーション録音まで、両課の職員の手で3か月をかけて制作しました。  制作にあたり、かねてより企画者と交友のあった京都府舞鶴市にある「舞鶴引揚記念館」から、資料画像などをご提供いただきました。それらの画像を盛り込みながら、よりシベリア抑留の実相が伝わるような映像に仕上げました。  戦争の体験者が高齢化していく中、こうした記録映像を残すことは、福生市のみならず社会全体にとって意義のあることと考えています。  そうした観点から、この映像はご協力いただいた「舞鶴引揚記念館」に提供するほか、今後、関係する団体などにも提供を呼び掛けていきます。 
『行き先も、分からずに~20歳の初年兵、シベリア抑留の記憶~』 【出演者】 近田明良、近田美江子 
【ナレーション】 森田典子(福生市公民館松林分館) 
【製作協力】 舞鶴市 舞鶴引揚記念館 
【資料提供】 舞鶴市 舞鶴引揚記念館、福生市 郷土資料室 
【製作スタッフ】 
〈企画〉森田典子(福生市公民館松林分館) 
〈撮影〉森田剛(福生市秘書広報課) 
〈撮影補助〉根津正德(福生市秘書広報課)、森田剛(同上) 
〈構成・編集・監督〉池田悟(福生市秘書広報課)
「忘れられた戦争~シベリア抑留の記憶」JNNドキュメンタリー ザ・フォーカス
1941年12月8日に始まった太平洋戦争は、その3年8か月後に終わった。 だが、終戦を迎えた中国大陸で、戦争が終わっても、日本に帰れなかった人たちがいた。 60万にも上る人が、ソ連に連行され、強制労働を強いられたのだ。 シベリアの大地で彼らは何を思い、どのように生き延びたのか。 多くの仲間の死を目にした彼らは、戦後をどのように生きたのか。 90歳を超えるシベリア抑留体験者の言葉に耳を傾けながら、国家と戦争、そして人が生きるということについて考える。 (2019年12月15日放送)

満蒙開拓団 “戦争と性暴力”の史実を刻む【1】(19/03/13)

2022-08-10
2019/03/14 戦争は狂気になる。戦時中に満州で起きた「性暴力」の史実。誰もが口を閉ざすなか、女性たちが勇気と覚悟でその事実を明かしました。そして、その史実を碑文に刻んだのです。 岐阜県旧黒川村。第2次大戦中、黒川村は国策で中国・旧満州に600名余りが入りました。満蒙開拓団です。
【戦後76年】旧満州に送り込まれた10代の若者たち 「見捨てられたという一言に尽きる」 
2021/08/13 終戦から76年。 その日から日本が復興に向け動き出す一方で、さらなる苦境にさらされた人たちがいます。 中国の旧満州には、国策のもとで多くの人が送り込まれ、終戦後に、ソ連や現地の暴徒による虐殺、病気、集団自決などで約20万人が命を落としました。 90歳を過ぎた今も、生存者はその記憶を伝え続けています。 京都市に住む村尾孝さん(92)は、1945年に16歳で大学に入学した直後、大学が満州に開設した農場に送られ、ソ連の侵攻後、過酷な逃避行や難民収容所での生活を強いられ、多くの同級生が命を落としました。 大阪府富田林市に住む藤後博巳さん(92)は、「満蒙開拓青少年義勇軍」に自ら志願し、16歳で終戦を迎えた後、中国共産党の八路軍に半ば強制的に入隊させられ、衛生兵として国共内戦を戦いました。 生存者が伝える、終戦後の苦難の記憶です。 カンテレ「報道ランナー」2021年8月11日放送
消えた大学 幻の満州の夢「五族協和」を理想に集ったエリートたち 【戦争証言】
2020/12/29 かつての満州国にあった建国大学。それは歴史の闇へと消えた幻の大学。「五族協和」のスローガンのもと、日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアから若きエリートが集った。私(記者・丘文奈)の祖父・邱来伝もそのひとりだった。しかし、理想を胸に入学した彼らを待ち受けていたのは満州国の厳しい現実と悪化する戦況。祖父にとって特別な場所だったその大学はどんな存在だったのか?孫として、記者として90歳を超える証言者たちの思いを取材した。 (2020年11月15日放送)
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