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支える人

この人(縁の下の力持ち的存在・・・)

お上です。

2020-10-16
Facebook永井由紀夫さんの投稿より

小林一三

2020-10-15
阪急、東宝・・・・。
Facebook佐々木信雄さんの投稿
【20th Century Chronicle 1929年(s4)】
◎小林一三と阪急電鉄
*1929.4.15 大阪の梅田に阪急電鉄経営の初の本格的ターミナルデパート「阪急百貨店」が誕生する。
 従来のいわゆる老舗百貨店は、江戸時代からの呉服店など「暖簾(のれん)」を誇り、旧市街の中心地に大店舗を展開するのが常識だった。そこへ、阪急電鉄の総帥小林一三は、大阪梅田駅の新ターミナルビル竣工に合わせて、「阪急百貨店」を開店させた。鉄道会社が百貨店を経営する事例は海外にもなく、疑問の声に対しては「便利な場所なら暖簾がなくとも客は集まる」と言って、「ターミナル・デパート」というカテゴリーを作り出した。
 小林一三は山梨県に生まれ、福澤諭吉塾長の慶應義塾に学び、三井銀行東京本店に勤務するなど、本来関西に無縁だったが、大阪北浜で銀行を立ち上げた岩下清周に誘われ大阪へ赴任。当初の目的であった証券会社設立の話は立ち消えになったが、たまたま行き詰っていた「箕面有馬電気鉄道」の話を聞き、岩下から資金を調達すると、1907(明40)年)、「箕面有馬電気軌道」と社名を改め、小林は同社の専務として経営の実権を握る。
 しかし当時は何もない野山に線路を通すわけで、わずかな観光客以外は乗客も期待できない。小林は、乗客がないならば乗客が住む街を作ればよいと、沿線に宅地を開発し、大阪へ通うサラリーマンでも購入できるようにと、まだ珍しい割賦販売などをも取り入れた。山地をただ同然の価格で買収し、付加価値を付けて分譲するという技は、線路をもつ鉄道会社ならではの発想、この手法は、関東の東急の五島慶太や西武鉄道堤康次郎などが丸ごとまねして、私鉄事業の基本的な事業展開となった。
 鉄道を「線」としてではなく、その沿線を含めて「面」と捉え、その面にアメニティを創出することで、さらなる事業収入を拡大する小林の発想は画期的であった。沿線宅地の開発分譲だけではなく、宝塚には宝塚歌劇団劇場や宝塚遊園地という娯楽施設を開設、さらには六甲山ホテルの開業でホテル事業も展開、プロ野球球団阪急ブレーブスをも創設し、その極め付けとしてのターミナルデパート阪急百貨店であった。阪急沿線の分譲地に住まった住民は、その沿線で生活を完結させてしまうことができた。
 大正の初めの有名なキャッチコピー「今日は帝劇、明日は三越」は、帝劇の開設時に配布されたプログラムに掲載された三越の広告に添えられたものであった。これは「大正ロマン」の時代を彷彿とさせるが、このコピー対象とされたのは「山の手有閑マダム」であろう。
 一方、阪急百貨店が誕生した昭和の初めは「昭和モダン」と呼ばれ、「モガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)」が街中を闊歩する時代、若い男女がファッションリーダーとして登場する。若い彼・彼女は、今でもファッションセンスに定評のある阪急百貨店でショッピングをし、宝塚大歌劇場でレビューを楽しむという姿が想像される。
(この年の出来事)
*1929.2.23/ 約3年間にわたって、強盗に入っては説教をするという「説教強盗」が逮捕される。
*1929.5.-/ 小林多喜二「蟹工船」が「戦旗」5・6月号に発表されるも、発禁となる。
*1929.6.3/ 日本政府が、中国「国民政府」を正式に承認する。
*1929.6.-/ 秋田県の元教師成田忠久が、教育の地方分権などを提唱し「北方(きたかた)教育社」を創設。翌年には雑誌「北方教育」を創刊し、「生活綴方運動」を始める。
*1929.8.19/ 世界一周飛行中のドイツのツェッペリン伯号が、茨城県霞ヶ浦の飛行場に着陸する。
*1929.8.-/ 雑誌「改造」の懸賞文芸評論で宮本顕治「敗北の文学」が当選、2等に小林秀雄の「様々なる意匠」。「改造」8月号に「『敗北』の文学」、9月号に「様々なる意匠」が掲載される。

佐々木信也

2020-10-12
Facebook村上 なおみさんの投稿
今日は佐々木信也さんの誕生日です。おめでとうございます。
佐々木信也は、神奈川県立湘南高校時代、夏の第31回全国高等学校野球選手権大会に、1年生ながらレギュラーとして出場して優勝。第2回大会の慶應普通部以来、33年ぶりの関東勢優勝のため、「深紅の優勝旗が箱根の山を越えた」といわれた歴史的な大会でした。
慶大卒業後、スカウトされた球団は、幸か不幸かパ・リーグのお荷物球団、高橋ユニオンズ。「幸」は、選手層が薄かったため、新人ながらチャンスを貰い、それに応えてルーキーイヤーながら154試合全イニング出場。シーズン出場の日本記録(タイ)で、もちろん新人は初めてです。
「不幸」は、所属球団が次々合併してしまったこと。佐々木信也も、1年目にそれだけ実績を残したのに、繰り返される合併で年々出番が減り、なんと4年目のオフに余剰戦力扱いで自由契約になってしまいました。
しかし、その後、解説者、スポーツキャスター、さらにタレントとしての市場を開拓しました。

日本選手団入場

2020-10-10
第18回オリンピヤード東京大会の開会式です。
選手宣誓 小野喬

1964年の今日は・・・・。

2020-10-10
Facebook東京都庁広報課

 

#東京思い出写真 56年前の今日の東京
今日、10月10日は1964年(昭和39年)東京オリンピック の開会式が行われた日です。
1枚目の写真は10月10日の開会式、2枚目の写真は10月7日に当時の有楽町都庁舎に到着した聖火、3枚目は10月5日に撮影された代々木選手村の様子です。
オリンピック開催前後の東京の様子をまとめた記録映像を東京動画に掲載しています。あわせてご覧ください!
※土、日、祝日は、主に昭和から平成10年頃までに撮影された東京都の記録写真を投稿しています。
都政記録写真 https://bit.ly/2Yrowyr
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