ちょい話【et cetera】
ちょっといい話
日本のムーラン・ルージュは、新宿にあった。
『Get Back! 30's / 1931年(s06)』
(新宿ムーランルージュ)
○12.31 [東京] 新宿にムーランルージュが開場。12月16日に開場した浅草オペラ館とともに、コメディを売り物にする。
この年の暮に、「ムーランルージュ新宿座」が開館した。本家パリのモンマルトルにある「ムーランルージュ」から名前をとった「赤い風車」という意味で、本家同様、建物の上に大きな赤い風車があった。浅草では「浅草オペラ」が隆盛していたが大震災で壊滅、震災後復興した浅草ではレヴューや軽演劇が中心となり、榎本健一らの「カジノ・フォーリー」や古川緑波らの「笑の王国」が花開いていた。その浅草オペラでテナー歌手として活躍した佐々木千里が、浅草オペラを継承する形でムーランルージュ新宿座を開いた。
映画『ムーランルージュの青春』 https://www.youtube.com/watch?v=3uh52M8OAwg
当時の新宿の街は、震災で大きな打撃を受けた浅草に代って、山の手を代表する歓楽街になりつつあった。当初は浅草軽演劇の焼き直しでしかなかったムーランルージュも、昭和モダンの流れを取り入れた軽演劇・レビュー・コメディで独自のタレントを輩出し、独自のカラーの演劇を確立して、1933年あたりから全盛期をむかえる。ムーランは、早稲田大学の学生や近辺に住む文化人にも親しまれ、新宿の芸能文化に触れる上で欠かせない存在となった。
ムーランルージュ新宿座は、戦争末期には敵性語として改名させられ、さらに空襲で劇場が消失、戦後再建が試みられるも、焼け跡での軽演劇の復興はむつかしく、1951年に閉館となる。だがここで育った人材は、戦後の映画・放送界に流れ、草創期のテレビ界では、コメディドラマやバラエティショーを築いたタレントを多く輩出している。以下、かつてムーランに所属した俳優・歌手で、私自身がテレビや映画で観たタレントをランダムに挙げてみる。
左卜全・有島一郎・宮城けんじ・由利徹・益田喜頓・春日八郎・水谷八重子(初代)・若水ヤエ子・三木のり平・藤原釜足・楠トシエ・森繁久彌・谷幹一
*この年
労働争議件数998件で戦前最高を記録/産業界の操業短縮相次ぐ/映画トーキー化のために失業した楽士たちがチンドン屋に転業/学生の左傾思想事件がピーク
【事物】賃貸デスク/コンテナ輸送/ブラスバンド応援/チェーンストア
【流行語】いやじゃありませんか/テクシー/生命線
【歌】侍ニッポン(徳山蓀・藤本二三吉)/丘を越えて(藤山一郎)
【映画】瞼の母(稲垣浩)/東京の合唱(小津安二郎)/巴里の屋根の下(仏)
【本】金田一京助「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」/野村胡堂「銭形平次捕物控」(オール読物)/平凡社「大百科事典」全28巻
ケネディ家のひな人形 - Hina Dolls Return to Japan
アメリカ大使館・領事館
US Embassy Tokyo & Consulates in Japan
https://youtu.be/wrUZ-TdvWpk
大東亜戦争への足跡
『Get Back! 30's / 1931年(s06)』
(満州事変)
○9.18 [中国] 奉天の郊外、柳条湖で、関東軍の陰謀により満鉄の線路が爆破される。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道が爆破された。日本の関東軍は張学良軍の犯行であると断定、鉄道防衛の目的と称し軍事行動を拡大した。真相は戦争中は伏せられたが、戦後になって関東軍の謀略であることが明らかになっている。蒋介石国民党軍は、抗日よりも共産党との内戦に主力を割いていたため、関東軍はわずか5か月の間に満州全域を占領した。
満州事変は、政府や軍中央の承諾なく、関東軍中枢の一部軍人によって計画された謀略であった。 関東軍はこれを張学良の東北軍による破壊工作であると発表し、これを口実に直ちに軍事行動に移った。これらの一連の計画は、関東軍参謀の石原莞爾や板垣征四郎らが推進したものであることが、戦後のGHQの調査などから明らかにされている。
帝国陸軍の異端児と呼ばれた石原莞爾は、後年に『世界最終戦論』で展開されたような独自の軍事思想と世界観を持っていた。「世界最終戦」とは、高度に発展した大量破壊兵器により、一気の殲滅戦が引き起こされ短期に決着がつき、世界は統一され戦争は消滅するというものであった。そしてその最終戦を戦うのは、ヨーロッパを凌駕したアメリカと、日本の天皇を盟主とする東亜連盟とされた。
満蒙は日本の生命線であるという陸軍伝統の発想に加え、石原は満州を核として、大東亜連盟の盟主として、来るべき最終戦に備えるという構想をもっていた。中国本土まで支配する発想はなく、やがて突き進んだ泥沼の中国侵略戦争には大反対した。かつて孫文の辛亥革命の一方を聞いて歓喜したように、中国本土には孫文の「中華民国」のような連盟できる安定政権を望んでいたが、事実上は軍閥割拠、共産軍も入り混じる内戦状態となっていた。
日本政府は不拡大方針を発表し、「満州事変」と称して侵略戦争ではないとしたが、関東軍は軍中央や政府の方針を無視して戦線を拡大し、軍首脳もこれを追認するなどで、若槻内閣はもはや関東軍を統制できないところに追い込まれ総辞職、犬養毅内閣に代わった。これ以降、関東軍は満州問題について専行して国策を進め、やがて満州国傀儡政権を成立させることになる。この満州事変は、1937年には全面的な日中戦争に突入し、太平洋戦争終結まで続く「十五年戦争」の始まりとなった。
満州国成立以降、石原は中国戦線の不拡大方針を主張し続けたが軍強硬派を抑えられず、太平洋戦争に突入する年には東条英機と対立し、現役を退任させられることになる。大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦に反対し、戦争末期には東条暗殺計画や早期終戦工作に関わった。これらの東條との対立が有利に働いたのか、石原莞爾は極東国際軍事裁判において戦犯指名から免れた。戦後は病にふせることが続き、1949年8月15日死去する。
*この年
労働争議件数998件で戦前最高を記録/産業界の操業短縮相次ぐ/映画トーキー化のために失業した楽士たちがチンドン屋に転業/学生の左傾思想事件がピーク
【事物】賃貸デスク/コンテナ輸送/ブラスバンド応援/チェーンストア
【流行語】いやじゃありませんか/テクシー/生命線
【歌】侍ニッポン(徳山蓀・藤本二三吉)/丘を越えて(藤山一郎)
【映画】瞼の母(稲垣浩)/東京の合唱(小津安二郎)/巴里の屋根の下(仏)
【本】金田一京助「アイヌ叙事詩ユーカラの研究」/野村胡堂「銭形平次捕物控」(オール読物)/平凡社「大百科事典」全28巻