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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

◎僧徒(僧兵)の強訴

2021-07-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【11th Century Chronicle 1081-1100年】
【11th Century Chronicle 1081-1100年】
◎僧徒(僧兵)の強訴
*1081.3.5/ 興福寺の僧徒が多武峰を襲い、多武峰の僧徒が入京して強訴。
*1081.6.9/ 延暦寺僧徒が園城寺を焼き討ち。9.15にも再度焼き討ちする。
*1082.10.17/ 熊野の僧徒が神輿を奉じて入京、尾張国司による僧徒殺害を訴える。
*1087.12.29/ 宇佐神宮の神人らが、神輿を射た大宰大弐藤原実政を訴える。翌11月、実政は伊豆へ配流される。
*1092.3.6/ 興福寺の僧徒が賀茂荘に乱入、民家200余戸を焼く。
*1093.8.26/ 興福寺僧徒が近江守高階為家の非法報を強訴し、為家は土佐へ流される。
*1094.10.24/ 延暦寺僧徒が、美濃守源義綱が僧徒を殺害したと入京し強訴。迎撃した源頼治が、のちに佐渡に流される。
*1100.6.8/ 園城寺僧徒が、長吏(最高僧位)隆明の房舎を焼く。
 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、僧形の武装集団が横行した。京都・奈良などの大寺院に所属する武装集団で、僧衆、悪僧などと呼ばれたが、のちに「僧兵」と呼称されるようになった。これに対し、神社に所属する武装集団は「神人(じにん)」と呼ばれた。
 藤原氏などの大貴族とともに、奈良や京都などの大寺院や神社は、寄進などで荘園などの私有地を拡大していった。そのような寺社は、社会が乱れるなかで、盗賊などから自主防衛する必要が生じるとともに、在地領主らの武装勢力や、国府などの権力を背景にする官吏など、さまざまな勢力と対抗する必要が生じてきた。
 平安時代末期には強大な武力集団となり、興福寺・延暦寺・園城寺(三井寺)、東大寺などの寺院を拠点として、寺院同士の勢力争いや、朝廷や摂関家に対して強訴をくりかえした。特に、興福寺と延暦寺は「南都北嶺」と呼ばれ、宗教的権威を背景とする強訴は、僧兵の武力以上の威力をもった。
 興福寺は春日大社の神木、延暦寺は日吉大社の神輿を担いで、洛中の内裏や院に押し掛けて強訴行い、白河法皇をして「心にままならぬもの、賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)」と嘆かしめた。
 朝廷や院の権威に基づく公家権力、新興の武家権力、そして宗教的権威を押し出す寺社権力、これらが相互に補完しながらも争うという形が、平安時代末期から鎌倉・室町時代と続いたが、応仁の乱で荘園制が事実上崩壊すると、武士の現実的な武力が優先する戦国時代となってゆく。
 寺社勢力は戦国末期においても、織田信長、豊臣秀吉などに激しく敵対し続けたが、信長の延暦寺焼き討ち、秀吉の刀狩令などで、約五百年間続いたさしもの寺社勢力も、日本の権力構造から消えることとなった。
(この時期の出来事)
*1086.11.26/ 白河天皇が8歳の皇子善任親王(堀河天皇)に譲位し、上皇として院政を始める。(院政の開始)
*1090.1.22/ 白河上皇が熊野参詣に出発する。
*1091.6.12/ 源義家と弟義綱が争う。義家の入京が禁止され、田畑寄進も禁止される。
*1093.3.3/ 白河上皇が、諸国の荘園乱立の制止を内大臣藤原師通に諮問する。
*1096.6.-/ 田楽が大流行する。(永長の大田楽)

100年の国家指導

2021-07-02
国家指導のへ変遷

鄧小平の復活

2021-07-02
天安門事件

外務省が23日に公開した外交文書に、中国共産党政権が民主化を求める学生らを武力弾圧した1989年6月4日の天安門事件について、当時の最高指導者・鄧小平氏が日本経済界の訪中団に「国権が人権を圧倒する」などと弾圧を正当化する発言が記されていた。

 鄧氏は党中央軍事委員会主席を辞任直後の89年11月13日、斎藤英四郎経団連会長ら日中経済協会訪中団と北京の人民大会堂で会談。「先般の動乱で我々は学生に極めて寛容だったが、この動乱は思想の混乱によって生じた」と天安門事件について切り出した。

 欧米と日本が天安門事件を「人権抑圧」と非難した同年7月の仏アルシュ・サミット主要国首脳会議)にも触れ、「人権と国権があり、国権は国の人格・国格の問題だ。人権が重いか、国権が重いかといえば、国権は独立、主権、尊厳に関わるもので、すべてを圧倒する」と述べ、価値観の違いを強調した。

文化大革命の予兆

2021-07-02
1966年7月18日、毛沢東はとつぜん9か月振りに北京に帰還してきた。劉少奇は慌てて北京駅まで毛沢東を出迎えようとしたが空振りに終わった。
 1966年7月18日、毛沢東はとつぜん9か月振りに北京に帰還してきた。劉少奇は慌てて北京駅まで毛沢東を出迎えようとしたが空振りに終わった。
 その後、自宅の隣にある毛沢東の住居を尋ねたが、ここでも面会できずに翌19日に漸く鄧小平と共に、周恩来に引率されて毛沢東と面会を果たした。
 毛沢東は会見の席で劉少奇と鄧小平に対し厳しく叱責した。
 毛沢東は「『工作組』を各学校へ派遣したことは完全に誤った行いである。彼らは学生運動を鎮圧しようとした。過去に反動的な軍閥や蒋介石国民党らが学生運動を鎮圧したと同じようにね!そうした反動的な連中は誰一人として良い結末を得られていないのだ。もうこれ以上、学生や大衆の革命的な運動を阻害せずに、支持する側に立場を置き換えなさい。」と厳しく語った。
 毛沢東の一連の発言に対し、劉少奇は激しく反論を行ったため、毛沢東は鄧小平に対し、「それなら、速やかに中央委員と候補委員に招集をかけ、党大会を開催してそれぞれの観点を公表し、評決しようじゃないか!」と指示した。

毛沢東の復権

2021-07-02
文化大革命
生贄は劉少奇国家主席
鄧小平
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