闘いの歴史
闘いの記録 (戦争と人間)
安倍昭恵さんが夫の葬儀のあとに「涙目で見つめていたもの」
「あんたが私の弔辞を読むことになっていたんじゃないのか」
と故人の死を悼んだ。喪主を務めたのは妻の昭恵さん。夫の衝撃的な死からわずか4日、彼女もまた現実を受け止めきれていないようだ。
「昭恵さんは喪主の挨拶で安倍さんについて『これほど優しい人はいなかった。いつも私のことを守ってくれた』と語ったそうです。参列者が花を手向けるときには、昭恵さんが別れを惜しむように、安倍さんに数分間、頬擦りをしていたそうです」(自民党関係者)
予定より少し遅れ、14時半すぎに出棺となった。昭恵さんは棺を乗せた霊柩車の助手席に座り、車は永田町の自民党本部、衆参議員会館、総理官邸と順に回っていった。夫の位牌を抱いた昭恵さんは憔悴した様子で、うつむいていることが多かった。
すると、ある地点で昭恵さんがふっと何かに目をやった。車の助手席から、じっと国会議事堂を見つめていたのだ。その目には涙が浮かんでいるように見える。国会議事堂を通りすぎると、またうつむいたり、沿道の人に頭を下げるようになった。国会議事堂を見つめていたのは、ほんの一瞬だったが、昭恵さんは何を思っていたのか。
「この日、霊柩車が巡った場所は、もちろんどこも安倍さんとゆかりが深いところです。ただ、昭恵さんはよく安倍さんが総理時代に国会で野党などからの質問攻勢にさらされていることを心配していたようです。もちろんそれは総理として、絶対に果たさなくてはいけない責務ではありますが、本人の体力的、精神的負担を気にかけていた。国会での夫の姿が『辛くてテレビが見られない』と冗談交じりに話していたこともあったそうです。そんな記憶がふと頭をよぎったのかもしれません」(前出・自民党関係者)
今はただ安倍元総理の冥福を祈りたい。
安倍元首相 なぜ急きょ奈良演説の経緯「京都決まったので奈良まで」高市氏が優勢伝えるも、2紙予想厳しいと
これまでも安倍氏の遊説日程は直前に変更となり、当初は奈良での演説は予定されていなかったとされていた。
高市氏は「安倍元総理と最後にメールをやり取りしたのは事件前日夕方」とし、事件前日の7月7日夕方のことと説明。
奈良が地元の高市氏は、「急な奈良県入りを知り、党情勢調査で奈良県は優勢の旨を送信した」と安倍氏にメールを送ったという。
安倍氏から「問題ないとは思うけど、京都に行くことが決まったので、奈良まで行きます。毎日と日経が厳しく出ているので」と返信があったことを明かした。
高市氏は「京都も奈良も当選したことを御霊前に報告しました」と記した。
安倍晋三元首相 昭恵さんと仲睦まじく食事、結婚式で緊張
衝撃の銃撃事件から2日。安倍晋三元首相は、治療を受けていた奈良市内の病院から“無言の帰宅”をはたした。自宅には、閣僚のほか党、メディア、財政界関係者など、生前、安倍元首相と交流のあった多くの人々が弔問に訪れている。
戦後最年少の52歳で総理大臣に就任し、憲政史上最長の政権を率いた安倍氏の素顔とはどんなものなのだろうか。
安倍氏は1954年、当時、毎日新聞の記者だった故・安倍晋太郎氏と妻・洋子さんの間に次男として誕生した。成蹊小学校に入学後は、エスカレーター式で成蹊大学を1977年に卒業。南カルフォルニア大学への留学を経て1979年、神戸製鋼に入社した。語学力が買われ、まずニューヨーク事務所、その後に加古川製鉄所、最後に東京本社へと異動している。