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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

土門拳の『ヒロシマ』

2020-09-20
昭和32(1957)年、原爆投下から12年を経て初めて広島に行った土門拳は、その実態をまのあたりにし、あらためて原爆被害の深刻さに衝撃を受けました。
報道写真家としての使命感に強く駆られ、広島に通い詰めた土門は、原爆病院の患者たちをはじめ、被爆者たちの悲惨な日々、「魔の爪跡」を約7,800コマのフィルムに記録しています。
写真集『ヒロシマ』(研光社)は、昭和33(1958)年刊行され、日本はもとより、広く海外でも反響を呼びました。
また、さらに10年後、広島を再訪し、後遺症に苦しむ被爆者を追った『憎悪と失意の日日−ヒロシマはつづいている』を発表。土門拳のドキュメントの傑作となっています。

終わらない物語の主役は、JFKです。

2020-05-05
 

選手会の乱

2020-04-27
 日本プロ野球の再編問題は、戦後、大きく分けて3度数えられる。

【21th Century / 2004(h16)年】-4
  

◎プロ野球界の再編
*2004.9.18/ プロ野球選手会が12球団の維持などを求めストライキ
*2004.11.2/ プロ野球 パ・リーグに楽天が新規参入
*2004.12.1/ オリックスと近鉄が合併した新球団「オリックス・バファローズ」が発足
*2004.12.24/ ソフトバンクのダイエー球団買収を承認
  

 日本プロ野球の再編問題は、戦後、大きく分けて3度数えられる。戦後最初の再編は、1949(s24)年の二リーグ分裂問題であった。戦前は学生野球が人気でイロモノ扱いだった職業野球が、敗戦後のGHQの奨励もあり、一気に人気が盛り上がった。
  

 急激に人気興業化したプロ野球には加盟申請が殺到し、一方、未成熟な既存プロ野球球団側も対応が分裂し、結果、セ・パの2リーグに分裂することになった。セ・リーグとパ・リーグの間での熾烈な引き抜き合戦など、大きな混乱を生みながら、やがて2リーグ12球団体制に落ち着いていった。
  

 1973年のプロ野球再編問題は、1リーグ制移行を視野とした日拓ホームフライヤーズとロッテオリオンズとの合併問題が契機となったが、その背景には、パ・リーグの長年の観客動員不振とオーナー企業の経営不安定があった。そんな中で、1969年から1971年にかけて、西鉄ライオンズを中心に、いわゆる「黒い霧事件」で球界は大揺れとなる。
  

 西鉄ライオンズは身売りして「太平洋クラブライオンズ」→「クラウンライターライオンズ」と次々と名称が変わっていったし、東映フライヤーズも身売りして「日拓ホームフライヤーズ」に改称していた。結局、日拓が日本ハム株式会社に球団買収されることにより、1リーグ構想は破綻し 2 リーグ制は維持されたが、その後もパ・リーグの球団経営問題は続いた。
  

 パ・リーグでは観客動員策として、指名打者制・予告先発制・プレーオフ制度導入など幾つもの工夫をしたが、セ・リーグとの格差は縮まらず、2004年6月、近鉄バッファローズは、経営不振からオリックス・ブルーウェーブとの合併を発表した。
  

 この合併構想には、1リーグ制移行を前提にした球団数の削減が含意されていたため、選手数の削減を憂慮したプロ野球選手会は、この合併に強く反発し、ストライキも辞さない決議を含めて、プロ野球全体の改善策を提言した。
  

 一方ではサッカー界でJリーグが誕生し、強力なライバルのプロスポーツに育ちつつあったため、危機を感じたプロ野球界でも、多すぎる球団を再編成して、8チームでの1リーグ制に凝縮しようという動きがあり、球界のリーダーを自負する読売ジャイアンツのオーナー渡邉恒雄を筆頭に、一部球団オーナーたちが強引にこの構想を進めようと画策し、反対するする他のオーナーや選手会との軋轢が高まった。
  

 選手会側がオーナーたちとの対話を求めている、という情報を耳にした読売オーナーの渡邉が、「たかが選手が、無礼な」などという高圧的な発言をして、選手やファンの声を無視するオーナー側に対して猛反発する感情が強まった。
  

 水面下では第2の合併構想も進められており、さらにライブドアや楽天が新規参入を表明したりする流動的な状況下で、オリックスと近鉄との合併は一方的に決定された。選手会は「2リーグ12球団維持」を求め、プロ野球機構(NPB)との交渉を持ったもののまとまらず、選手会はついに9月18・19日の2日間にわたって日本プロ野球史上初のストライキを決行した。
  

 その後の交渉によって、新規参入の確約など12球団維持の合意を得ることとなり、やっとストライキは停止された。一方で新規参入問題も右往左往して、先行して手を上げていたライブドアと、その行き詰まり状況をみてから名乗り出た楽天とが競う形となり、混迷するプロ野球界の突破口を開く形を作ったライブドアが、世論の支持を受けていたにも関わらず、オーナー同士の人間関係など目に見えない繋がりから楽天が選ばれるなど、プロ野球界の旧来の体質は温存されたままであった。
  

(この年の出来事)
*2004.2.27/ オウム真理教 松本智津夫元死刑囚 死刑判決
*2004.5.22/ 小泉首相2度目の訪朝 拉致被害の子どもたち5人が帰国
*2004.8.13/ 米海兵隊ヘリ 沖縄国際大学に墜落
*2004.10.3/ 大リーグ マリナーズ イチローがシーズン最多安打
*2004.10.23/ 新潟県中越地震
*2004.11.17/ 奈良 小1女児誘拐殺人事件
 *2004.12.26/ インドネシア・スマトラ沖地震

 

映画『人間の條件』六部作

2020-05-01
五味川純平による1300万部を突破したベストセラー反戦長編大河小説
当時新進気鋭だった小林正樹監督が映画化
第一部『純愛篇

「響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)」です。

2020-05-03
Facebook 矢ケ崎浩一さんの投稿より

1945年8月15日以降も、やんごとなき事情で戦闘を継続せざるを得なかった日本軍部隊は複数あり、以前投稿した占守島での第91師団及び第11戦車連隊の戦闘が有名ですが、大陸でも在留邦人の脱出時間を稼ぐため、実に10倍以上の兵力差の中奮戦し、4万名ともいわれる在留邦人の脱出を成し遂げた部隊がありました。

「響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)」です。

 1945年8月9日、突如日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍は、日本軍に対する攻勢を開始します。

 日本軍駐蒙軍が守る内蒙地区にも、、ソ連軍及び外蒙軍合わせて4~5万名規模の機械化及び騎兵部隊がなだれ込みました。

 ソ連参戦の情報を受けた現地特務機関は、奥地での治安が急激に悪化する中、一般邦人の撤収を決定、内蒙地区の自治区である張家口には、一般邦人4万人がひしめく状態となっていました。また、満州等ソ連軍占領地での一般市民に対する暴虐が報告されるに従い、張家口自治区の市民の間でも、不安が高まっていました。

 そして8月15日、終戦の詔勅が下り、支那派遣軍司令部は、管下の全部隊に対し「即時停戦・武装解除」を司令、張家口の防衛を担っていた丸一陣地の響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)はそれを受けて、ソ連軍へ軍使を派遣しましたが、ある時は銃撃を受け、また、市民の避難までの時間的猶予も許可されない、という状況下、内蒙軍根本司令は司令部に対し「市民の避難が終了するまで防衛戦闘の実施やむなし」と訴えるも、司令部から再度の「即時停戦・武装解除」の指示が下ります。そして根本司令は8月20日、「八路軍及び外蒙ソ軍侵入は敢然これを阻止する決意なるも、もし、その決心が国家の大方針に反するならば、直ちに本職を免職せられたく、至急何分のご指示を待つ」と司令部に返信、管下部隊に対しては「理由の如何を問わず陣地に侵入するソ連軍は断固これを撃滅すべく、これに対する責任は一切司令官が負う」と断言し、市民脱出のための防衛戦闘を決断します。

 張家口を防衛する響兵団は、丸一陣地に籠る2千5百名、ソ連側は優にその10倍を超える人数と、大量の装甲車などの重装備をもって猛攻を仕掛けますが、辻田参謀の指揮の元、90式75㎝砲等強力な火力を持ち、戦車第3師団の一部も合流していた響兵団の粘り強い防戦の前に、なかなかソ連軍は陣地を制圧できません。最後には数にものを言わせた白兵突撃まで敢行しますが、日本軍の白兵戦での強さはここでもいかんなく発揮され、大損害を受けたソ連軍は遠距離からの制圧射撃と武装解除の交渉(毎回決裂)を繰り返す形となり、響兵団はここで貴重な時間を稼ぐことに成功します。

 また、事務方の活躍もありました、内蒙軍司令部は、鉄道管理者へ指示を出し。終戦前後から、上海から張家口に来た貨物列車の車両を片っ端から張家口の駅構内にとどめ、何度中央からの返却命令を受けても無視する、という挙に出ました。結果的にこの行動により、大量の貨車を使った迅速な避難が可能になっています。

 激しい防衛戦闘と停戦交渉における巧妙かつギリギリの時間稼ぎにより、響兵団は当初市民の避難に必要とされていた2日間を耐えきり、実に4万人の市民の脱出に成功、自らも夜陰に乗じて張家口を脱出、蒋介石率いる国民党軍へ投降し、生き残った全員が無事帰国しています。

 この戦闘で戦死した響兵団の兵士は約80名、この尊い犠牲の元、4万人の一般邦人はほとんどが、上海経由で無事の帰国を果たしています。即時の武装解除・投降を実施した関東軍と満州居留民がたどった悲惨な運命を顧みる時、軍規に背きながらも戦った彼らの判断が正しかったと思わざるを得ません。

 余談ですが、この防戦を決断した根本司令は、戦後台湾に渡り、中国の台湾進攻に対し、金門島での防衛戦を指揮、人民解放軍の上陸部隊を撃退する、という殊勲も挙げています。

辻田参謀
響兵団(駐蒙軍独立混成第二旅団)
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