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闘いの歴史

闘いの記録 (戦争と人間)

【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)

2021-12-13
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【アメリカの歴史】17.冷戦終結後の世界とビル・クリントン民主党政権(1990-2001)
 冷戦が終わると1990年8月、サダム・フセインのイラクがクウェートに侵攻した。これに対し国連安全保障理事会は、イラクが即時撤退しない場合は武力行使を容認する決議を可決した。翌1991年1月、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は「多国籍軍」の結成を呼びかけ、1991年1月から2月にわたって戦闘を行い、クウェートをイラクから解放した。
 この「湾岸戦争」は、第二次世界大戦後初の国連決議にもとづく多国籍軍の結成であり、安保理での拒否権行使のない決議は東西冷戦の終結を象徴する出来事だった。アメリカ主体の多国籍軍は、最新の電子兵器を駆使し、その様子は刻々と世界中のテレビジョンに映し出された。あたかもPCゲームかと見まがうほどの画像を、世界中が居間にいながら観ることができた本格的な「電子戦争」でもあった。
 1992年1月、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、冷戦終結後のアジア・太平洋地域を巡る外遊を行った。日本も訪れて天皇明仁(現上皇)と会見し、宮澤喜一首相による歓迎会に出席したが、その会食で失神してしまいその様子はテレビで放映された。これでブッシュ健康不安がささやかれ、次期選挙に影を落とした。
 ブッシュは、湾岸戦争の勝利や北米自由貿易協定調印など外交での実績をほこり、1992年アメリカ合衆国大統領選挙に挑んだ。しかし湾岸戦争からは時間が経ち、その後の景気後退や増税はしないという公約を反故にしたことなどから、人気は凋落していた。
 1992年アメリカ合衆国大統領選挙では、若い民主党のビル・クリントンが勝利した。クリントンはアメリカ合衆国史の中でも若く就任した大統領として、ベビーブーム世代としては初の大統領となった。
 ソビエト連邦が崩壊し、自由主義陣営の中心であるアメリカの勝利となったが、レーガン、ブッシュの共和党政権のもとで、アメリカ経済は「双子の赤字」(財政赤字と貿易赤字)に苦しんでいた。民主党のビル・クリントン政権は、こうした経済的不況を解消することに注力した。
 1990年代には、ちょうどITC技術の開花期に当たり、副大統領アルバート・ゴアが提唱した「情報スーパーハイウェイ構想」など、ITC産業を積極的に後押しする事業が展開され、民間でもマイクロソフトやApple ComputerといったIT企業が頭角をあらわし、1995年の「Windows95」の発売は、まさにインターネット時代の幕開けを象徴した。
 アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・ハイテクに重点を移行させ、インターネット・バブルとも呼ばれた好景気をもたらす一方で、上下両院を抑えた共和党が「小さな政府」を主張するなか、共和党のお株を奪うような「財政赤字削減」に転換し、2000年には財政黒字を達成した。
 ビル・クリントンは、アーカンソー州知事としての地方政治経験しかなく、外交に関しては未知数だった。その外交姿勢は、場当たり的だという批判にさらされたが、幸いにも冷戦後で米ソの大国が背後にいるような大きな対立は無く、民族間の紛争が散発する程度でおさまった。
 長年の懸案だったイスラエルとアラブ諸国との対立も、1993年、和平の機運が高まる中でイスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長の間で、歴史的な「オスロ合意」がなされ、クリントンはその立会人となった。しかし現実には、和平反対勢力のテロの応酬や両者の衝突事件が相次ぎ、95年11月にはラビン首相が暗殺され合意は破綻、クリントンはキャンプデービットに両国代表を招いて和平交渉を仲介したが、結局は実現できなかった。
アジアでは
チャイナゲートと呼ばれる中国共産党政府から選挙資金を得た疑惑もあり、親中の傾向が強く、鄧小平の開放路線を受け継いだ江沢民国家主席と強力な貿易関係をもち、一方で貿易摩擦が激化する日本には厳しい態度を取った。北朝鮮の核開発問題では、監視体制などを厳密に構築せず、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。
 クリントンは多くの女性とスキャンダルが噂されていたが、1998年に「モニカ・ルインスキー事件」が発覚し、ホワイトハウス内で淫行が暴露されると、大統領職としての権威を大きく失墜させたと、窮地に陥ったが、妻であり政治的野心があったヒラリー・クリントンの「寛大な援護」によって、これを乗り切った。

大東亜戦争の始まりから今年で80年です。

2021-12-13
Facebook 伊吹文明さん曰く
80年前の昭和16年(1941)12月8日、当時の大日本帝国はハワイ真珠湾の米海軍を攻撃するとともに、英植民地マレー半島に上陸作戦を行い、米英と戦闘状態に入りました。大東亜戦争の始まりから今年で80年です。メディアは開戦に至る国家意思決定の課程、祖国や家族の為に戦争で命を失われた方、死線をさまよいながら命を継ながれた方々の想い出等を報道していました。
 私は開戦時は3歳で、戦争の悲惨さ、大変さ等は分るはずもありません。昭和20年の終戦時ですら小学校2年生ですから、政治や社会事象等も分りません。しかし終戦後の戦争のもたらした荒廃、不衛生、ひもじさ、人心の荒廃、占領されたみじめさ等の記憶は子供心に残っています。どうすれば立ち直れるか、家族が幸せに暮らせるか等と考えていたのが、将来公務員になったことに繋がったのかなとも思います。戦中、戦後の庶民の率直な思いは、永井荷風「断腸亭日乗」、山田風太郎「不戦日記」、山本周五郎「戦中日記」等の作家の日記に興味深く描かれています。是非ご一読を。
 戦前生れの実戦体験のある方、爆撃等を体験された方々等はもうほとんどおられないでしょう。戦前生れだけで「戦争体験」や「戦争の悲惨さ」等を得々と語る人がいますが、多くは耳学問のように思います。戦後の混乱期や復興期、現在の日本の基盤を創った高度成長期を生き抜いてこられた方々ですら、もう年金世代になっておられるのですから。
 愕然としたのは、私の子供の頃が舞台のNHKの朝ドラ「come come everybody」に時代考証が付いているとか。自分の生きていた時代が歴史になってしまったようです。「歴史は現在を学び、未来を展望する教師」と言われます。私達が当り前と思っている現在、豊かな食生活、快適な暮らし、マイカー、携帯スマホ、社会保障、教育制度等々は、貧しかった歴史の時代を生き抜いてきた世代の営みの結晶です。豊かさのおかげで、私達は様々な価値観、ライフスタイルを持てるようになりました。生きること、家族を支えることだけが目的であった時代に比べ、何と幸せな現在でしょう。がそのことが、労働コストの高騰、労働者不足の一因にも。どうも少子化だけが原因ではないようです。
 工場は労賃の安い海外に移転し、国内のつらい仕事は実習生という名の外国人に頼る。このような現在がこれからも持続可能なのかを念頭に、日本の自主性を護り、日本人の生き方、心根即ち独自文化を維持したいのなら、もう一度戦中・戦後の歴史に学ぶ時が来ているようです。

『一九四六』、満州引き揚げ

2021-12-08

中国人が描く、日本人引き揚げの「記憶」 『一九四六』が東京で公開中、5日まで

【アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)

2021-12-02
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【アメリカの歴史】06.インディアン戦争-1(1622年~1890)
 「インディアン」とは英語でインド人のことをさすが、コロンブスがアメリカ大陸を発見したとき、そこが目指していたインドだと誤認していたため、以来、英語ではそこの住民をインディアンと呼ぶようになったとされる。
 今では、アメリカ合衆国の先住民族を総称して「ネイティブ・アメリカン=Native Americans」と呼ばれることが多いが、ここでは歴史的記述をするため、合衆国本土やカナダに展開していた部族を「北米インディアンorインディアン」と便宜上よぶ。なお、中・南米に展開した先住民は、スペインやポルトガルのラテン語系に支配されたので「インディオ」と呼ばれた。
 「インディアン戦争」とは、1622年から1890年の間の、アメリカへの白人入植者とインディアンの間で起きた抗争を総称したもので、イギリスなど白人の「アメリカ入植」開始から、インディアン掃討の完了したとされる「フロンティアの消滅」の時までをさすことが多い。
 インディアン戦争は大きく分けて、次の4つの時代区分に分けられる。
1.白人がアメリカに入ってきて手探りでインディアンとの共存を探った最初期の時代。
2.アメリカ合衆国の独立とそれに続く期間であり、インディアンからの激しい抵抗があり、同化しないインディアンは排除され、ミシシッピ川から東にほぼインディアン居住地が無くなった時代。
3.南北戦争以降、ミシシッピ川以西に白人の入植が進み、アメリカ西部のインディアンが屈服させられて、フロンティアが消滅した時代。
4.1900年代初めにインディアン条約が合衆国側から破棄され、部族そのものが消滅させられ始めた時代。
 初期の入植時には、入植場所やインディアンの部族ごとにことなるが、一般に白人と友好的な関係があったとされる。様々な理由で幾つもの小競り合いが入植者とインディアンの間であったが、「ジェームズタウンの虐殺」が初期の事件として知られている。1622年3月、ポウハタン族がバージニア植民地を攻撃し、ジェームズタウンで347人が死亡したとされる。
 やがてインディアンと白人の間で大規模な抗争は各地で起こり、イギリスやフランスはそれぞれの別の地域に入植したので、その地域のピクォート族やイロコイ族といったインディアン部族との戦いが繰り広げられた。
 17世紀末に始まったヨーロッパ列強の対立は、そのまま北アメリカに持ち込まれ、イギリスとフランスはアメリカの植民地でも戦闘を繰り返したした。これらは「北米植民地戦争」と総称されるが、なかでも1756年の「フレンチ・インディアン戦争」は、英仏がそれぞれインディアンの部族と同盟を結んで戦ったのであるが、イギリス側からはこのように呼ばれた。
 1875年「アメリカ独立戦争」が始まったが、結成されたばかりのアメリカ合衆国は、イギリスからの独立をめざすと同時に、イギリスが抱き込んだインディアン部族との闘いでもあった。しかし劣勢となったイギリスは、1783年アメリカと「パリ条約」を結んで独立を認め、ミシシッピー川以東の広大な英国領植民地をアメリカ合衆国に割譲した。
 この時、インディアンたちは何も知らされないままに、自分たちの生活する広大な土地が、アメリカの領土とされてしまった。そしてその後、入植してくるアメリカ人とは、さらに土地を奪い合っての戦争が続くことになった。
 1803年には、イギリスと対立を強めるフランスのナポレオン・ボナパルトから、ミシシッピー川以西のフランス領ルイジアナを買収した。その後も、1818年にイギリスから英領カナダの一部を交換で獲得、スペインからは1819年に南部のフロリダを購入した。また1845年には、メキシコから独立していたテキサスを併合、1846年にオレゴンを併合するなどして、領土は太平洋に到達した。
 さらに、メキシコとの間の米墨戦争に勝利し、1848年にメキシコ北部ニューメキシコとカリフォルニアを獲得、1853年にさらにメキシコ北部を買収した。カリフォルニアで金鉱脈が発見されると、ゴールド・ラッシュが起きて、多数のインディアンが虐殺された。
 かくして広大な中西部への開拓史が進展し、フロンティアは西へ西へと移動してゆく。しかし、大平原やロッキー山脈の強大な大自然により陸上移動は拒まれ、さらに続く「南北戦争」により開拓は停滞した。大西部の本格的な開拓は、リンカーン大統領が南北戦争中に建設を進めた「大陸横断鉄道」の開通を待つことになる。

昭和17年(1942年) [日系人強制収容所]米国ワイオミング州、 彩色でなくカラーフィルム写真

2021-11-26
Facebook 手塚健二さん曰く、お盆を迎え盆踊りの着物の女性
昭和24年(1949年) 神奈川県三崎町 [正月 晴れ着の少女たち]
アメリカ人 駐留者の撮影
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