本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

田畑先生から

2021-01-06
聖覚法印のはなし
こういう文章に出会いました。
聖覚法印は法然聖人の43歳まで学仏を次のように書いています。
「ある時聖人、予に語りてのたまわく。法相・三論・天台・華厳・真言・仏心(禅宗)の諸大乗の宗、遍(あまね)く学び、悉(ことごと)く明(あけ)すに、入門は異なると雖(いえど)も、皆仏性の一理を悟り顕(あら)わすことを明(あか)す。所詮は一致なり。
されど、法は深妙なれども、わが機(ちから)すべて及び難し。経典を披覧するに、その智、もっとも愚なり。行法を修習するに、その心ひるがえってくらし。
朝、朝に定めて悪趣に沈まんことを恐怖す。夕、夕に出離の縁の欠けたることを悲歎す。茫(ぼう)々たる恨(うら)みには渡(わた)るに船を失うが如し、朦(もう)々たる憂いには闇に道に迷うが如し。
歎(なげ)きながら如来の教法を習(なら)い、悲しみながら人師の解釈を学ぶ。黒谷の報恩蔵(ぞう)に入りて、一切経を披見することすでに五遍におよびぬ。しかれどもなおいまだ出離の要法を悟り得ず。愁情いよいよ深く、学意ますます盛んなり。
ここに善因たちまち熟し、宿縁とみに顕(あらわ)れ、善導和尚勧化の書を拝見するに、末代造悪の凡夫の出離生死の旨をたやすく定め給えり。ほぼ管見していまだ玄意(げんい)をきわめずといえども、随喜(ずいき)身に余り、身毛(みのけ)もよだって、とりわき見ること八遍。時に観経の散善義の、一心専念弥陀名号……順彼仏願故の文(もん)にいたって、善導の玄意を得たり。
随喜のあまり、あたりに聞く人なかりしかども、予がごときの下機の行法は、阿弥陀仏の法蔵因位の昔、かねて定めおかるるをや、と声高にとなえて、感悦(かんえつ)髄(ずい)にとおり、落涙千行なりき。終(つい)に承安五年の春、齢43歳の時、たちどころに余行をすてて、一向専修念仏門に入りたもう」と、まのあたり眼に見るように描写し出されてあります。
一心専念の文とは「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近を問わず、念じ念じて捨てざれば、これを正定の業と名く。彼の仏願に順ずる故に」とあるので聖人はこれによって「往生の業、念仏為本」と決定の信を獲られたのであります。

田畑正久先生の投稿

2021-01-05
1月1日の円徳寺修正会での住職さんの法話
古き我れ 崩れ去る音 南無阿弥陀仏
新しき吾れ 生まれ出ずる聲 南無阿弥陀仏  

釈秀道(福岡市中央区天神、光園寺故前住職、円日成道)

柳田邦男さんのことばより

2021-01-02
HP九州教務所 「今月の言葉」16より

相手を思い返す現在の自分の中に、亡き人は生きているのです柳田 邦男

朝日新聞(2020年12月3日)のインタビューより。

 

コロナ感染症の対策のために、医療機関や福祉施設では面会が規制される中、家族と一度もあえないまま死別する例が多くなっている。

 

突然の死別に、あいまいな喪失感を抱き葛藤に苦しむ家族を取材してきたノンフィクション作家の柳田氏は、「その場で手を握り、体をさすり、耳元で声をかける。ぬくもりが言わば『心の血流』となって伝わります」「コロナ患者を受け入れた病院が感染防止だけを考えるなら、患者と会いたい家族は邪魔になる。科学主義を突き詰めればそれが結論です。でもたとえ重症化した人でも、ウイルスと治療の拮抗関係の中にだけ生命があるわけではない。医学的な命とは別に、家族や恋人など人間関係による心の営みが生きる上で不可欠です」と語る。

 

表題の「相手を思い返す現在の自分の中に、亡き人は生きているのです」という言葉は、インタビュー後半で死者との関係性のことを語られたくだりであるが、医学や科学のものさしで語られる「生命」だけでなく、様々な関係性や心の中にある他者のぬくもりによって、割り切れない、そして時代や空間を超えた「いのち」があることを想う。

 

感染対策と、人間同士の営み。そのはざまで揺れた2020年であったのではないだろうか。

(文/溝邊伸)

高光大船先生のことばより

2021-01-02
HP九州教務所 「今月の言葉」より

人は法を求むるに止まって、  法に生きることを忘れている高光大船

ある日、東本願寺の渡り廊下を歩いていると、掲示されているこの言葉に足が止まった。

「私は学習会に行ったりしているが、その場に行ったことに満足してそこから何か変わっただろうか。ただの知識になっているのではないか」

 

前々から思ってはいたけれど、なるべく考えないようにしていた自分の心を言い当てられたような気がして、ぎくっとしたからである。

 

今まで何度も「生活の中で念仏するのではなく、念仏の上に生活がいとなまれる」と和田稠先生の言葉を講義などで、うんうんと頷きつつ聞いてきた。しかし、できていない自分に気づきはしても「あ~できないなぁ」で終わらせている私がいた。

 

見ないふりをしていたのである。

法を求めるふりをして、そういう場に行って学ぶ自分という自己満足を満たすためにいっていたのではないかと、この言葉を見た時に感じた。

 

同時に「はたして私は法を求めているのだろうか、法を求めるとはどういうことなのか。

法に生きるとはどういうことなのか、お念仏の生活が頂けているだろうか」という問題から目をそらすな、如来の、私の声を聞きなさいと言われている言葉のように感じた。

(文/林田 真貴子)

田畑先生の投稿

2020-12-31
善知識:細川巌先生のことば
我々は仏法をいただき南無阿弥陀仏に遇わせていただくが決してエリートではない。
何か出来上がった優れた存在になったと思ってはならない。
    群萌に徹して行くということ。
そこに自己を知るという事がある。
そうして与えられた南無阿弥陀仏が最上無上の法であることを、いよいよ深く知ることが釈尊の本願に順じて行く道である。
    極悪最下の自己と目覚めて最上の法を仰ぐ、このようになるのが仏法の中心点である。
群萌と目覚めて最上の法を生きることができる。
それが私の本当の生き方であると教えられているのである。
                 細川巌 著「教行信証教巻講義3」p.288より
TOPへ戻る