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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

如来の使命

2020-05-15

658
如来は
人を救うことに使命がある。
しかし
仏の本来の面目は、
働かぬことにある。
無学の徳を持っているといわれるゆえんである。
その仏を仏たらしめるといえば、
働きなきものの働きを表わさねばならぬ。
如来は菩薩として働くとも言える。
如来の働きは菩薩としてある。
菩薩の働きといって特別にないのであって、
如来が「衆生として」働く。

菩薩と如来

2020-05-15

657
人間像として、菩薩像がある。
菩薩は、
菩薩の段階として『十地経』には、
七地以前と八地已上とあるが、
菩薩は如来の背景、
如来をして如来たらしめる意義をもっている。
そこに菩薩の意義がある。
その場合、
菩薩が如来になると言ってもよいが、
如来を如来たらしめるのであるから、
如来の如来たる働きを、
また菩薩であらわす。

まあ、こんなことを、今度の火事で学びました。

2020-05-12
亀井先生は次のような安田先生のお話を聞かれたと書かれておられました。
  • 「焼かれた」のでもない、「焼いた」のでもない。
    ただ「焼けた」と。
    そうすると事実を事実のまま淡々と受けていけるのではないかね
    自も他も損なわんで済む。こんなことを今度の火事で学びました。
      
      
                   ( 安田理深 ) 

 


 

名古屋の亀井先生が書かれたもので拝見したのですが、安田先生のお宅が隣家の火事で類焼して、蔵書やノート類など、全て燃えてしまわれた時のことだそうです。その直後の学習会で亀井先生は次のような安田先生のお話を聞かれたと書かれておられました。

 


 

こんどの火事でね。まあいろんなことを学ばされたんだが、私の場合、一応、隣りからの類焼だわね。だから、”焼かれた”と思う。と、どうしても復讐心が起こるわね。腹が立つ。
 
じゃ、そうでなく、”焼いた”と。自分が焼いたということになれば、心が暗いやね。やりきれない。そうでないかね。
 
だけどね、”焼かれた”のでもない。”焼いた”のでもない。ただ、”焼けた”と。そうすると事実を事実のまま、淡々と受けていけるのでないかね。自も他も損なわんですむ。まあ、こんなことを、今度の火事で学びました。
 

 


 

”ああされた”でもない、”こうした”でもない。”こうなった”。

”なくされた”でもない、”なくした”でもない。”なくなった”。

安田理深先生の語録

2020-05-12
http://www.asahi-net.or.jp/~YI9H-URYU/tera/word/h-rizin.htm   検索サイトです。

- 『自己に背くもの』 -    唯識に学ぶ・誓喚の折々の記プログより

2020-05-12
八番問答講話  安田理深述

- 『自己に背くもの』 -

         八番問答講話  安田理深述

 (1) 転回点 その(1)

 曇鸞大師は浄土論の解釈が一応終わってからその最後に至って一つの問題を提起しておられる。そこを今回は拝読することになっている。論註をみてみるとたびたび話すように浄土論というものが偈頌-歌、これを印度では伽陀といい、支那では頌といい、日本では歌というーとその解釈が散文で書いてある。その散文を長行といっている。論註は上巻では偈頌の解釈、下巻では長行の解釈ということになっている。そしてこの上下二巻の終りにはそれぞれ重要な問題を掲げておられるのである。下巻では自利利他の問題を掲げて、自利利他速得阿耨多羅三貌三菩提、この速やかにという問題をおさえて曇鸞大師はそこに浄土論を手がかりとして本願他力を摂き、他力という問題を明らかにしておられる。古来これを他利利他の深義といっている。下巻には五念門の因果を広く解釈してあるが、そこでは五念門の行というものが他力であるということを明らかにしていられる。浄土真宗では他力回向をいうが始めてそれを明らかにされたのが曇鸞大師である。それによって浄土論というものが全く新しい解釈即ち浄土論をみる眼が開かれたのである。かくて上巻にも下巻のそれと相応した一貫した問題を掲げられている。

 論註上巻の最後を結ぶこの問題は何かというに、古来から八番問答といわれて問答が八通り繰り返されてある。然しその中心問題は先ず第一の問答で、これが八番問答を一貫する根本問題であろう。では問題はどういうところから起こったかというと、天親菩薩の回向章から起こっている。回向章は願生偈の最後のお言葉で、四句一行の流通文である。流通文は結文をいう。

 我作論説偈 願見弥陀仏 普共諸衆生 往生安楽国

 この偈のなかの 普共諸衆生 往生安楽国 と結んであるが、さたその衆生といっているのは何であるか。いかなる衆生を意味しているのか。ただ衆生というのみでは仏も衆生であり、菩薩も衆生であり、凡夫も衆生である。それ故天親菩薩が願生というものにおける衆生というものが一体菩薩を意味するのか、それとも凡夫を意味するのかはっきりしない。ここに衆生とは何を指して衆生というのか、という問題が提起されたのである。

 今回拝読するところはその前に 以偈頌総説竟(偈頌を以て総説し竟ぬ) というところから出ている。故にこの問題は回向文の問題ではない。解釈はもう終っている。この問題は回向章の問題ではなくその問題を手がかりとして、浄土の機とは一体何であるかを問うのである。これは気のつかぬことであるが、それを曇鸞大師はおさえられたのである。法があっても機がないときには法は生きてこない。活動しない。機というものにおいて法は働く。つまり法の本性は永遠に変わりがないが、その法も機がなければ単なる可能性というものに終わり、現実的にはならない。現実的になるためには機というものを要するのである。そうでなければ法というものはただ本質としてあるのみで、生きて働くところのー法が働くということができない。

 論註の最初に先ず浄土論を解釈するにあたって、

 謹案龍樹菩薩「十住毘婆娑」云。菩薩求阿毘跋致有二種道。一者難行道。二者易行道。(謹んで龍樹菩薩の「十住毘婆娑」」を案ずるに云く。菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り。一つには難行道なり。二つには易行道なり。)

 と龍樹の十住毘婆娑論を以てその出発点として解釈しておられる。そこに難行道易行道ということが出ている。次いで 「難行道者謂於五濁世於無仏時」(難行道とは謂く五濁の世無仏の時に於て) といってそこに時が出ている。これは面白いことである。論註の一番最初に時が出ており、その最後には機が出ている。始めに時、終わりに機、時機である。法というものは時を得て始めて現実的なものとなるのである。時機純熟というがこういう問題に触れたわけである。つまり浄土論が天親菩薩の安心を表白されたのであるが、願生偈は普共諸衆生といっている。天親菩薩が浄土論を述べた立場はどこにあるか。即ち天親菩薩が願生といわれたときにはどういうところに自己を置かれたかということである。そういうことを問うのである。更に押してゆけば浄土の機というもの、阿弥陀仏の本願の正機とは何であるか。こういう問題である。 

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