本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

祈りということ Facebook百々海 真さんの投稿より

2020-12-28
『真宗の祈願』 曽我量深著
暁烏敏「真実の祈り」
『真宗の祈願』の一節がふと浮かんできた。
以下『曽我量深選集第10巻』から抜粋。(現代かな等表記を一部改めた)
〇如来の本願を以て浄土真宗の祈願とするのである。
〇世間普通の祈りは我々衆生が仏に向かっている祈りである。今弥陀の本願は仏が衆生の為に祈る所の祈りである。
〇真宗の祈りは本願である。・・真宗とは何ぞや、真実の祈りということであります。偽りの祈りに対して真実の祈りを宗とするのであります。

そんな状況下、曽我師の玉稿に加えて、暁烏師の次の一文が「真実の祈り」の内実を示唆して下さる。味読したい。南無阿弥陀仏
『人生のことにやや真面目になってくると神仏に祈らずにおられなくなります。神仏に祈っていた者がもっと真面目になってくると、祈ってはおられぬようになってまいります。ここに、泣きつつも、悩みつつも自分の道を一人で行かねばならぬようになってまいります』(『暁烏敏全集』第6巻49頁)

蘭遠忌50年

2020-12-24
12月24日、親鸞仏教センターにおいて、宗祖の報恩講、臘扇忌、鸞音忌が兼修にて勤まりました。
特に今年は鸞音忌、無極院釋量深・曽我量深の50回忌に当たります。全国各地で準備されていた鸞音忌が延期を選択せざるを得ない状況の中、親鸞仏教センターも当初に予定していた6月を延期していましたが、今年ギリギリまで引き伸ばし、12月の最後に三法要の兼修として厳修となりました。
ほっと安堵するとともに、この法要を最も大切にされており、今年8月に還浄された中津功氏に思いを至す時となりました。
※脇掛の清沢・曽我両師の法名軸は、松原祐善氏の揮毫

Facebook RIZIN YASUDAより

2020-12-15
観経というものはただ浄土教の人々だけが愛読したのではない。
870
そう言われてみるとそうも読めるのです。
善導が勝手にそういうことを言ったわけでない。
そのように読むことも出来ると。
十六観というのは聖道の人々の観経解釈。
散善を開くのは善導の解釈です。
そこに浄土教というものが出てくるのでしょう。
聖道から浄土まで。
だから観経というものはただ浄土教の人々だけが愛読したのではない。
聖道の人々も愛読したのです。

「自身を深信する。」 親 鸞『愚 禿 鈔(ぐとくしょう)』『真宗聖典』440頁

2020-11-22
大谷大学HPより

「自身を深信する。」
親 鸞『愚 禿 鈔(ぐとくしょう)』『真宗聖典』440頁

 フランスの作家サン=テグジュペリ(1900~1944)に『星の王子さま』という作品があります。子供むけの童話として書かれたこの小品は、80ヵ国以上の国々で翻訳・出版され、日本でも多くのファンをもちます。美しい詩的なイメ-ジに富み、人生のまじめな問いかけを含む魅力的な作品です。
 『星の王子さま』のなかに、サハラ砂漠に不時着したパイロットと王子のあいだで交わされる、次のような不思議な会話があります。夜、月の光を浴びて輝く砂漠の砂を見つめながら、王子はいいます、「砂漠が美しいのはなぜか。……それは砂漠のどこかに泉が隠されてあるからだ」と。これに対してパイロットは、「そうだよ、……砂漠の美しさは、その隠されてある、目に見えないもの 泉が作り出すのさ」とこたえ、そして、人生の大事なものは目に見えないのだ、と心の中でくりかえします。
 のどの渇きに苦しみながら砂漠を歩き続ける旅人にとって、休息と慰めをもたらし、勇気と希望を与えるものが泉です。「ひとは人生という砂漠のなかにあって、ただむやみと歩きまわるだけではいけない。かならず泉(自分のなかの、目に見えない大事なもの)に向かって歩みを進めること。それが人生の慰めとなり、励ましとなり、生きる力(自信)となる。」ここで著者はそう語っているように思えます。
 自信ということばは、日頃わたしたちが最も多く意識し、使用するものの一つでしょう。他者との比較のなかで自信の有無を問う習慣が身についており、他者のあり方によって、わたしたちの自信は揺れ動き、自己自身が定まりません。そのような安住できないわが身を抱えて、わたしたちは日々の生活をおくっています。条件つきの相対的な自信ではなく、他者との比較をこえた無条件の絶対的な自信を、わたしたちはどこに見出すことができるのでしょうか。
 親鸞は『愚禿鈔』において、「自身を深信する」(わが身を深く信ずる)と示しています。それは、自分自身が現に「罪悪生死[ざいあくしょうじ]の凡夫」であり、「曠劫[こうごう]よりこのかた常に没し常に流転[るてん]して、出離[しゅっり]の縁あることなし」と深く信ずることである、と述べられています。エゴの心にまとわりつかれ、迷いに埋没して生きるよりほかない愚かなわが身のありようを、深く信知することです。誰であれ、正直にわが身をふり返るとき、そのような自身のありように気づかされるでしょう。そして、その一見暗く否定的なわが身に対する自覚から、逆に、仏の願いに対する明るい自覚が自ずと生みだされてくる、というのです。
 『仏説無量寿経』というお経には、「すべての衆生を仏に成らしめることができなければ、自分は仏に成らない」という、衆生の一人ひとりにかけられた法蔵菩薩(阿弥陀仏)の願いが説かれています。「自身を深信する」とは、わが身が現に罪悪生死の凡夫でありながら、仏の願いをかけられた身であることを深く信知することです。そのような願いを立て、そして成就した法蔵菩薩を、曽我量深は「法蔵魂(だましい)」ということばで示しています。一人ひとりのなかに厳存する法蔵魂。これが“砂漠の中に隠されてある泉”(自分のなかの、目に見えない大事なもの)であり、人生の依りどころであり、本当の自信の源であるといえましょう。

ラジオ放送『東本願寺の時間』

2020-12-08
TOPへ戻る