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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

和ということ

2022-10-06
暁烏敏の扁額「以和為貴」
暁烏敏の扁額

facebook杉原 米和さん曰く


《 ことばの栞 200    》
暁烏敏の扁額「以和為貴」
 暁烏敏(あけがらすはや・1877〜1954)は、真宗大谷派の僧侶。仏教近代化の旗頭だった念仏僧。清沢満之を師とし、藤原鉄乗、高光大船と共に「加賀の三羽烏」と云われた。以前、私は白山市北安田の明達寺を訪ねたことがある。境内には、生涯師と仰いだ清沢満之の像を安置した「臘扇堂」がある。「十億の母の歌」の歌碑などもある。
 
「十億の人に十億の母あらむも
 わが母にまさる母ありなむや」
         暁烏敏

中村久子という生き方

2022-10-06

「手足なくとも生かさるる人生に絶望なし」

中村久子さん(1968年死去)をご存じでしょうか。3歳で病気のために両手足を失うも、すさまじい努力と強い精神で、家事も仕事も自分で切り開いて生き抜いた人です。苦しみを引き受け「人間としてどう生きるか」を求め続けた久子さんの生涯を紹介します。

「料理も、裁縫も、掃除も、何でも見事にする人でした」

来日したヘレン・ケラー女史が『私より偉大な人』とたたえた女性・中村久子さんを、多くの方に知ってほしいのです。〉読者の鎌宮百余(かまみや・ももよ)さんから届いた手紙をきっかけに、編集部は一路、岐阜・高山市へ向かいました。 飛騨の小京都と呼ばれる高山市。この街で120年余り前に生まれた中村久子さんは、幼くして両手足を失うという過酷な運命を背負いながら、72年の生涯を全うした女性です。 「明るくて、曲がったことが大嫌いな人でした」と振り返るのは、手紙をくれた読者の鎌宮さん。久子さんが幼少期に暮らした家と、鎌宮さんの実家が近所で親戚のような付き合いをしていたことから、「久子おばさんは、私を孫のようにかわいがってくださいました」と話します。 「あれは小学3年の夏休み。久子おばさんが家に来て、短い腕でスイカをきれいに召し上がる様子をじっと見ていた私は、思わず『おばちゃん、どうしてスイカの汁がこぼれんの?』と聞いたんです。すると『最初に果汁を吸うのよ』と優しく教えてくれました。きっと、どうしたらきれいに食べられるのか、研究に研究を重ねられたのだと思います。料理でも、裁縫でも、掃除でも、手足のないことをこちらが忘れてしまうほど、何でも見事にする人でした」 久子さんは食事をするとき、短い右腕に巻いた包帯にお箸を差し、茶碗を左腕に乗せて、人の手を借りずにきれいに食べました。裁縫をするときは、縫い針を口にし、短い両腕で布を持ち、一針ずつ前へ縫い進めてゆきます。字を書くときは、太い字は筆を口に含んで、細い字は筆を右腕と右頬に挟んで書きました。 「久子おばさんは筆まめでした。私が20歳の頃、いただいた手紙にすぐ返事を書かずにいたら、『手のある人は筆不精ね』と言われ、何も言い返せませんでした」と鎌宮さんは回想します。 久子さんが亡くなった当時、23歳だった鎌宮さんは「最期の3か月間、おそばで看護させていただきました」と話します。 「本人が献体を希望して、遺体は岐阜大学医学部で解剖されました。体中がボロボロで、先生方は『生前、どれだけ苦しかったか……この体でよく72年間生きられました。お見事としか言いようがありません』と泣きながらおっしゃったそうです」 その死から約50年。久子さんの生涯は、いったいどのようなものだったのしょう。鎌宮さんの記憶やご本人が遺した記録をひも解いてゆきます。

訃報/河村とし子様

2022-10-05
訃報/河村とし子様
ないものを求めず あるものを 喜ばしてもらおうよ 
三月二十二日の日曜日、NHK3チャンネルの朝七時半からのテレビ番組「心の時代」を見ました。この番組は、毎週ゲストをお招きしお話をうかがう宗教番組です。この日のゲストは、山口県萩市にお住まいの河村とし子さんという七十才を過ぎたと思われるご婦人でした。この方のお話は、お姑さんとの交流によって浄土真宗の信心を得るまでの歩みを述べられたものです。感銘を受けたお話なので、ご紹介させていただきます。
 河村さんは、萩市の大学で国文学の教授をなさっていた方で、いわゆるインテリ婦人です。一方、お姑さんは読み書きの出来ない平凡な農家の主婦でした。
 お二人の出会いは、東京で暮らすつもりで河村家の次男と結婚されたとし子さんが、河村家の長男の急逝により、家の跡を継ぐためにご主人と萩へ戻ったことが始まりです。
 当時、とし子さんは熱心なクリスチャンで、この信仰は生涯変えないことを保証するという条件で結婚されたそうです。
 一方、ご主人の実家は家をあげての信心深い門徒、すなわち浄土真宗の信者でした。家族揃って朝晩の勤行をするのは勿論のこと、定期的にお寺に参ってお説教を聞くことを最高の楽しみにしている一家でした。仏さま、ご先祖様に帰依する仏事が最も大事な行い(正業)で、生活するために仕事をするのはついでの行い(余業)と考えているような家族でした。
 この中に、クリスチャンのとし子さんが家族の一員として加わったのですが、お舅さん夫婦は、自分たちの信仰を決してとし子さんに強制するようなことはしませんでした。逆にとし子さんは伝道のチャンス到来とばかりに毎晩お舅さん夫婦の部屋に押し掛け、布教を始めました。しかし、お舅さん夫婦はこれをいやな顔を一切せず、ただそうかいそうかいといってにこやかな顔で聞いてくれていました。
こんなハイカラなお嫁さんですから田舎では陰口をたたく人もいましたが、お姑さんはお嫁さんをかばうことすれ決して愚痴をこぼさず、とし子さんの一切合切を受け入れてくれました。
こういう生活が続いたある日、とし子さんはあまりに家族の人が喜んでお寺に行くものですから、好奇心がはたらき、自分もついていくことにしました。
この時の説法は、歎異抄の悪人正機説、「善人なおもて往生す、いわんや悪人おや…」の部分でした。生まれて初めて聞く教えの不思議さに惹かれるものを感じ、これがきっかけで、寺参りに参加するようになりました。ただし、クリスチャンであることは止めず、南無阿弥陀仏のお念仏は決して称えることはしませんでした。
こういう生活を続けているうちに、それでも、とし子さんは無意識のうちにお念仏の信者への道を歩み始めていたのです。クリスチャンである自分との矛盾に苦しみ、浄土真宗の説教師と度重なる会話・論争をするようになりました。ただし、いくら理屈の論争を闘わしても、心の晴れることはありませんでした。ところが、ある日突然、無意識でお念仏を称えている自分に気が付かれたそうです。念仏者、河村とし子の誕生です。
「今から思えば、今の自分があるのは、説教師さんのお話のお陰ではなく、ひとえにお姑さんのお陰です。」と河村さんは申しております。お姑さんがよく口にされた言葉は、
「ないものを求めず、あるものを喜ばしてもらおうよ」
「人間のあさまさよう」
の二つだそうです。現在の病める地球・人類にこの心があったらと思うすごい言葉です。平凡な田舎のおばあさんの生活に根ざした言葉だからこそ、人の胸を打つのだと思います。
 仏に身を委ね、穏やかな一生を送られた読み書きの出来ないお姑さんの人柄に惹かれ、インテリの河村とし子さんが、クリスチャンから念仏者に転身したお話です。
   ( 平成十年四月十二日 岳阿 )

絶対矛盾の自己同一

2022-08-28

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


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これも外国の例ととれば、
ニコラウス・クザーヌスという人があります。
この人は非常に深い思想家です。
中世の終わりに出た人ですが、
この人が「矛盾するものの一致」ということを言ったのです。
矛盾するものが一つであると。
絶対矛盾の自己同一と。
この人はそういうものを一語で言い切った人です。

第229回「悲しみを秘めた讃嘆」⑬

2022-08-28
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki)

本願によって衆生に開かれる「宗教的実存」とは、いかなる構造として表現し得るものであろうか。その構造解明の手がかりを、横と竪という菩提心のありかたから探ってみた。そして我らに開かれる信心の意味に、この世での生き方に対して、超越的で立体的な空間として本願の信仰空間と言うべきありかたが、教えられていることを了解した。

 この信仰空間を我らが信心において獲得するところに、それまでの平面的で日常的な生存に、立体的ともいうべき願心の生活空間が与えられるということである。その宗教的実存を念々に確保することが、「信の一念」として開示された「時の先端」の生存が成り立つことである。この時の先端においては、「時剋の極促」(『真宗聖典』239)と表現された「時」の意味が感得される。この「時の先端」とは、いわゆる時間の経過とか瞬間とかとしていわれるような、刻々に移りゆくこの世の時間ではない。むしろ時を突破した時であり、時の経過を突き抜いて継続する時、すなわち現在に永遠を映す時とでもいうべき時である。こういう時が、超越的に常時に持続することが、本願力との値遇としての「横超」によって成り立つということである。

 こういう時を生きる実存を、本願の行者という。本願の行者には、煩悩具足の凡夫という自覚が常時に付帯している。平面的な生活に感じられる煩悩の闇を突破してくる本願の声なき声は、煩悩の闇を妨げとしない。むしろ闇あればこそ、声が慈悲のはたらきとなり、智慧のささやきともなる。そして闇を照らす光明の明るみにもなって、苦悩の衆生に生きる意味を与えてくるのである。

 こういう信心の時には、一面で苦悩の闇からの解放ということがあり、同時に闇へと生き抜いて行こうとする意欲が発起する面がある。このことを親鸞は、一念の「前・後」として開示した。それは、この世の時間的持続の意味の前後ではない。この世的平面を「竪」(自力)とするなら、「横」(他力)ざまに突き破ってくる願心との出遇いの一念の前後である。この出遇いの時を、「この苦悩の生存に死して、大悲の仏陀の国土に生きる」という「往生」の実存的意味としたのである。

 親鸞が晩年に「悲歎述懐和讃」を作るのは、たとえ信心歓喜の生活であっても、この日常的生活には煩悩の闇が厳然としてのしかかっているからである。にもかかわらず信心の事実は、その闇夜を貫く光明として、感じられてくることを表していく。どこまでも、日常的生活を離れず、願力成就の事実を生きるところに成り立つ信心による立体的空間を語っているのである。(了)

(2022年7月1日)


第227回「悲しみに秘めた讃嘆」⑪

 願生の意欲は、菩提心であるとされている。『大経』下巻の三輩往生において繰り返されている「発菩提心」の語によって、曇鸞も源信も往生の意欲すなわち願生心が菩提心であるとしている。しかし、これをそのまま認めるなら、源空の菩提心不必要の考えはどうなるのであろうか。『選択集』にある「菩提心等の余行」の語によって、菩提を求める意欲は諸行であるから、「廃立」という判別において「廃」されるべき心ということになるのか。本願による行として専修念仏が選び取られたのであるからには、凡夫の往生はそれによって成り立つのであろうが、仏道の根本問題である大涅槃を成就するという課題はどうなるのか。

 こういう疑難を聖道門の側から投げかけられたと受け止めた親鸞は、これに教学的に納得するべく、答えとして見出したのが、「真実信心こそ菩提心である」ということであった。本願の因果をたずねれば、真実信心を因として必至滅度(証大涅槃)の願果を得るのだからである。この本願の因果にとって、機の三願にわたって呼びかけられた「欲生我国」はいかなる意義をもつのか。

 曇鸞の指示は、「畢竟成仏の道路、無上の方便」(『真宗聖典』293頁)である。生存するものにとって、その環境との関わりは、重要な意味をもつ。環境に適応できないものは、この世から消滅するのだから。環境が大悲の仏智によって荘厳されたからには、そこで生きるということは仏智に随順することになることは道理であろう。

 そうしてみれば、そこへの「往生」は、「そこに往って、生きる」ことであろう。その場合、穢土の身体は消失して、「虚無の身、無極の体」(『真宗聖典』39頁)という平等の身体が、浄土で生存すると言うほかあるまい。そして、その生活は仏陀の願心を所依として、仏法を荘厳するということになる。

 本願成就文の「願生彼国 即得往生〈かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て」(『真宗聖典』44頁)を、『愚禿鈔』(『真宗聖典』430頁参照)では、「本願を信受するは、前念命終なり」とし、「即得往生は後念即生なり」と言ってある。願生の意欲に触れれば、そこに穢土の関心から仏土の願心への転換が起こる。それを生命の臨終たる「前念命終」に喩えたと見ているのである。その場合、臨終の一念は、宗教的回心の一念に相当する。そうなると宗教的回心は、「死して生きる」と言われていることと成る。生死無常の生存から、畢竟の依り処を願に置く生存へと転成するからである。

 かくして、願生浄土の意味が、「厭離穢土 欣求浄土」という心情的妄念の残滓を払って、「信に死し、願に生きる」という純粋なる本願に依る生存の意味となるのである。

(2022年5月1日)

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