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ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

丁寧に読みほぐしていく対話を

2022-07-05

Facebook 速水 馨さん曰く


分かりやすい話というのは、物事を単純化させること。

しかし、そこからはたくさんのことが漏れ落ちる。

しかも今があるのは、色んなことが複雑に絡み合って至っている。

単純化された言葉に飛び付かず、

丁寧に読みほぐしていく対話を。

(7月2日奉仕団結成式)

『人生列車』 吉川英治作

2022-07-05
『人生列車』 吉川英治作

発車駅の東京も知らず、横浜も覚えがない。

丹那トンネルを過ぎたところで薄目をあける。

静岡あたりで突然乗っていることに気づく。

そして名古屋の五分間停車のあたりから、窓の外を見てきょろきょろしはじめる。

この列車はどこへゆくのかとあわてだす。

もしそんな乗客がいたらみな吹き出すに決まっている。

その無知な乗客を哀れむに違いない。

ところが人生列車は全部の乗客がそれなのだ。

本願に立って自分の役目を果たす。

2022-07-11

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1414
あなた方が一人ひとり変わっている、
違っているのも宿業の違いでしょう。
われわれ、
生きているというのは何も動物より偉いというようなことではない。
自分の宿業を果たすと。
つまり「役目」です。
果たすものは、何に果たすかというと、
本願に立って自分の役目を果たす。
けれども
果たすときには「本願を果たす」のではないかね。
それが「使命」ではないかね。
宿業の身
1413
信者ばかりを増やしても何にもならない。
それは仏教の理解者というだけでしょう。
行者はそうではない。
生きるのです。
本願に立って本願を生きる。
この宿業の身で、本願を生きる。
生きることに自分の宿業を尽くすのです。
「本願に」というところに、
宿業の身が宿業を果たすということになるのです。

本願を信ずれば、信ぜられた本願が我々の足となる。

2022-07-11

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1412
第五(深信)というのが出て来る。
つまり行者になるわけです。
信者にはならない。
これは面白いことでしょう。
信者と言わずに行者と。
本願を信ずれば、信ぜられた本願が我々の足となる。
乗り物となってくるのです。
だから行者と言うのです。
信者では駄目なのです。
信者というのはファンです。

宗教「的」

2022-07-02

Facebook Yasuda Rizinさん曰く


1404
「自己に死んで願に生きる」と。
それがはっきりしないから宗教「的」が流行るのでしょう。
流行っているものは宗教ではない、宗教「的」なのです。
本当の死ということが出てこなければならない。
信心が、それを与える。
感激して死んでいけるのです。
葉隠の「死ぬることと見つけたり」です。


人間が人間を否定すること
1405
人間が人間を否定することが、どうして出来るかね。
否定できるような否定は、
くやしいけれども死んで見せるというようなものです。
絶望する絶望は生殺しです。
絶望で死にはしない。
しかたがないから絶望したのです。
死にたくない、というものが残るのです。
死にたくない、というのはいわば「幽霊」でしょう。
1407
だから現代の文化の中で仏教の会を開くということは、
容易ではないのです。
本当に死ぬる道を明らかにするというのが仏教でしょう。
そんなものにはふつう人間はついてこないのです。
死なずに生きる道ばかりを考えているのだからね。
それだから何とか学会とか何々教とかが流行っているでしょう。
ああいうものしか流行らない。
そのくらいの腹がないと宗教は成り立たないのです。

1409


仏教はインドから逃げて中国へ来た。
中国でも善導は理解されなくて、善導は日本に来て理解された。
では日本が今度はどうなったかというと日本でも滅亡しかけている。
逃げてもあとは太平洋しかない(笑)。
そうしたらどうなるかというと、
居るところが無いなら居る必要がないではないかと。
そんな地球なら居る必要が無いではないかね。
そのくらいの腹がないと宗教は成り立たないのです。
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