本文へ移動

ちょい話【親鸞編】

仰せを蒙りて【文字データ編】

不安ということ

2020-05-20

665
人間というものは
地獄に堕ちていないから不安になるのです。
堕ちている人間に不安はありはしない。
そうではないかね。
堕ちた人間、
堕ちきった人間にあと残っているのは
立ち上がることだけが残っているのです。
そうではないかね。
堕ちていない人間が堕ちはしないかと。
それはどうしてそうなるかというと、
人間というものは
自分の分別に生きているからです。


666
分別を固執して、
分別の中に生きているのだけれども、
そこにやはり何か、
現実に触れて生きていない、
何か分別の中に浮かんで生きている、と。
こういう自覚症状があるのです。
嘘をついて、
自分自身を騙している人間、
人も騙しているけれども
自分で自分も、
自分の分別で騙している。
それでもやはり
自覚症状はあるのです。
それが不安というものです。

667
不安。
なんとも言えないこの、
気持ちの悪い気分です。
それが
自分の分別に立っている人間の自覚症状です。偽れないのです。
非常に大事な手がかりになるのではないかね。また
これは、或る人間には有り、
或る人間には無いというものではない。
人間に普遍的な感情です。
そういう
不安というものが無いというのは、
ただガサツなだけです。

念仏、そして菩薩とは

2020-05-16

662
念仏というのは、あらゆる人を菩薩的人間たらしめる法である。
如何に罪悪深重といっても、
その罪悪深重に如来を背負って立つ確信を与える法である。
罪悪深重は
いたずらに人間を小さくすることではない。
自己を自己以上にしたり、
自己以下にしたりする妄想が破られる。
自己以上でもなく以下でもない。
それは宿業を背負った衆生である。

 

 

663
「思うことはなんでもやれる」というのは自我から考えた自由。
妄想である。
無責任に、ただ気炎を吐くとか、
理想を語るのではない。
人間は一点一画も崩されぬ限定の中にある。
無限の限定をはらんでいる。
だから、
思うことはなんでもやれるというのは、
自己を抽象化する限りは言える。
宿業は人間が具体的である限定を表わす。
どこまでも限定された人間において、
絶対自由の表現を、になっていく。
ここに菩薩があり、
人間が菩薩として成り立っていくのである。

 

 

 



664

現代に生きている我々として、
共通の問題がある。
迷うのは当たり前のことである。
この時代に生まれていると、
迷わざるを得ぬ。
しかし、
迷いかたが不真面目でなく、
真剣に迷う。
その場所として相応学舎がある。
迷いを逃避せずに、
予定したものから逃げて傍観することなく、まじめに迷う。
個人個人が現代を表現している。
見えるものは顔しか見えないが、
見えないものが
そこに表現されてある。
おおげさな実践を持ち出すまでもなく、一杯の水を飲むということの中にもそれが表現されている。
つまり、
真に現代人になること、
これが菩薩である。

菩薩とは

2020-05-15
法蔵菩薩とは?
Yasuda Rizin
661

法蔵菩薩。
これは人間像である。
特定の、ある一人の人間ではないが、
どの菩薩よりも真の菩薩である。
人間というのは弱い者である。
たえず自己をあやまつのも人間、
外に出ることも人間、
しかしながら
外にでても、
出たことを知るのも人間である。
それは永遠の裏があるからである。
あやまちをあやまちと知るのも人間。
たえずあやまつことをひるがえして、
根源の真理に還り、
そこにまたあゆみを新たにして、
一歩一歩永遠を映して行く。
菩薩とは
真に人間らしい人間のことである。
誤ったり、ひがんだり、誇大妄想をいだかぬ人間のこと。
真に健康な人間らしい人間。
そういう像として大乗仏教が生み出した人間である。

菩薩像としての法蔵

2020-05-15

660
有限は有限に対して有限である。
こういう意味において「分」がある。
有限にだけ永遠の働きが映される。
分をあやまたぬところに
永遠の創造が映されて来る。
平凡な言葉であるが、
「謙譲にして健康」である。
すべてをなして、何ものもなさぬ。
これは有限において
無限が映されるからである。
菩薩は謙譲にして、
有限が有限をまもる。
そういうことにおいて
無限を映す。
そういう菩薩像を
普賢といい、法蔵というのである。

人間像としての菩薩

2020-05-15

659
如来の働きを表わす人間像、
働くものなき働きを表わす人間像を菩薩といい、
その行を不行の行という。
これは
存在の根底の構造を反映する概念である。
菩薩は英雄的なものと考えられるが、
そうでなく、
真に有限なものの面目であろう。
人間像である菩薩は、
有限な限定を持つことによって謙譲である。

TOPへ戻る