ちょい話【親鸞編】
仰せを蒙りて【文字データ編】
創作ということ
自分の造ったものが自分の中に入るのなら、
その創作品はまだ未完成だと。
自分の造ったものに
自分が驚くと。
あぁ…、と作者自身が作者を忘れた。
造ったものによって
作者自身がびっくりすると。
こういうところに
創作というものがあるのです。
644
作るものは因であり、
その因によって作られた結果のほうは、
逆に因の意義をもってくると。
だから
親が子をつくれば親は因であるし
子は結果です。
しかし
子がなければ親ではない。
ただの男女です。
そうすれば
逆に親のほうは果になるわけです。
子どものほうが因になる。
因果が逆倒してくる。
この因果の逆倒ということが
非常に大事なことです。
知とか行ではまだ逆倒が無いけれども、
作るということになると
因果が逆倒してくる。
解を学ぶということ
634
学というものは、
「解ゲ」に関する学と
「行ギョウ」に関する学と
二つ、善導は立てたわけです。
これはやはり
「知る」ということの学だけでは
学は尽くされないのです。
実行するという、
実践の学というところに
やはり人間の構造がある。
人間が人間になるために
学というものが出てくるのでしょう。
人間を完成するという意味が
学ということになるのでしょう。
それについて
いろいろ善導は
非常に大事なことを
言っているわけです。
635
解を学するという場合には、
一切を我々は学することが出来、
また学さなければならないと。
一切です。
どれをこれをではない。
一切を学するということが
要求されるし、また必要であると。
けれども
行の場合はそうはいかないと。
これは
有縁の法に藉(よ)れと。
縁のある法に藉れ
という具合に言うのです。
知るという場合は
自分に反対するものでも
知る必要があると。
自分に合うものではない。
自分に合わないものでも
知るためには必要であると。
636
仏教を学ぶ場合に、
仏教に反対する思想もあるだろうと。
「知る」というならば
それも知る必要があると。
こういうようにやっていくのが
解学というものでしょう。
けれども
行の場合はそうではない。
「知ったこと」と「知った自分」とが
どうなるかと。
その知ったことで
自分は救われるのか、
救われないのかと。
637
解学のほうは
救われようが救われまいが
関係なしに
知っていかなければならない。
行の学は、
知るということは
私にとって、
自己にとって、
どういう問題かと。
知るのは自己を超えるのです。
けれども
自己ということが
問題になってくるというと、
きみのやった学問は
きみ自身にとっては
どういう意味をもつかと。
そういうような具合になってくる。
638
知られたものによって、
知るもの自身が解決されていく。
もっと広い言葉でいえば、
救われていくと。
「救い」というのは自己に関係する。
「知る」のは救いとは関係ない。
けれども、
自己の存在がそれによって解決されていく、
救われていくというようなことになると、
やはり
そこに「行」という字が出てくるのでしょう。
行学と。
639
行の学、
それは一切ではないのです。
縁の有る法に藉(よ)れ
と言ってあります。
非常に大事な言葉です。
有縁という言葉が出てきます。
人間の構造が
知と行の二つで完成する。
人間の構造に基づいて
人間を完成していくということが、
解・行、
この二つで表わされるのです。
自利利他
623
私が非常に面白いと思うのは、誰が言い出したことか知りませんが、菩薩の十地ということです。
一歩一歩歩くから十地になるのです。
十という数に意味はない。
曇鸞大師は一歩一歩などということを考えるのは低い立場だと。
十地の教えというようなものも一時の方便だというようなことを言っている。
誰が言い出したのか、トライアンドエラーと言うのです。
とにかくまぁ英米の考えでしょう。
ドイツのような考え方ではないのです。
非常に面白い考え方だと思う。
それでこれは偶然に思ったのだけれども、これが十地なのです。
トライアンドエラー、エラーアンドサクセス、というように失敗を無限に超える。
修道というものはものを積み重ねていくのが修道と思うけれども、そうではない。減らしていくのが修道です。
これが間違いだと知ってだんだん減らしていくのです。
624
曇鸞大師は一乗とか大乗とか他力ということを叫ばれたけれども、
しかし
曇鸞大師が言おうとするのは仏道を言おうとするのです。
飛躍があるのです。
超越、飛躍です。
こういうのが曇鸞大師の主張です。
その一歩一歩というものはどういうことかと。
まず最初は考えずにやれということです。考えていないでやってみよ、というわけです。
百年考えても一歩も動かなかったら何もやらないことだと。やるということから人間が出発するのです。
これが大事なことです。
親鸞にとっての源信僧都と法然上人
601
本願は、
初めに「国に地獄、餓鬼、畜生あらば正覚をとらじ」と。
「国」の願です。
これが大事なのです。
国というようなことは、
どこから出てきたのかということです。
これは非常に深い問題ではないかと思うのです。
なにかそこには、
本願というものは人間の祈りを、
人間に先立って、言い当てたと。
国というものは
天から降ってきたものではないでしょう。
人間の祈りなのでしょう。
603
人間の深奥の要求というものを、
人間に先立って、却って自己の問題とすると。
自己といっても
別に自己というものがあるわけではない。
宗教心です。
もっと言えば菩提心でしょう。
その菩提心が
人間の祈りを人間に先立って
自己の問題とすると。
こういうものが
本願というものだろうと思うのです。
604
観経疏の中に「弥陀の本国四十八願」という言葉があります。
本国の願だから本願なのでしょう。
そういうように、人間に先立って人間の問題を自己の問題とすると。
それが菩提心です。
宗教心です。
したがって、
そこに人間の予想を超えて
それが応えられていると。
人間は、
その人間に先立つような問題を持っているものが、
実は人間なのです。
不思議なことです。
自分の考えで考えた祈りではないのです。
考えよりも先に人間は問題を持っている。
605
それは人間の考えで解決できたと言えない。
言えないけれどもあきらめるわけにはいかないと。
そういう問題を菩提心というものが自覚してくるのです。
こういうように、
宗教心というものは人間と無関係にあるものではない。
人間そのものが
人間では出来ないような問題を持っている。
それが人間なのです。
それでないと
国土の本願というようなものが出てくるはずかないでしょう。
本願はどこか天から降ってきたようなものではないのです。
606
菩提心が人間の問題を自己の問題としているのが本願です。
だから人間は本願において自己に遇うわけです。
それで答えは南無阿弥陀仏が答えです。
これは思い通りになったのではない。
「予想を超えて」答えられている。
607
国の願は三悪趣が無いというような意味だったのです。
国は非常に低いところから始まっているのです。
それは本願というものは論文ではないので、
非常に低いところから出発しているのです。
三悪趣の無い国を祈ると。
これは源信僧都の言葉というのが非常に深いのです。
私は思いますけれども、
親鸞は初めは法然上人よりも源信僧都を慕われたのだろうと思います。
法然とは性格が正反対みたいなのです。
608
源信僧都というのは非常に内観的な人だったと思うのです。
それに対して法然上人は頑固者だったのではないかと思うのです。
その頑固というものの意味の深さはあとで分かってきたのです。
頑固ということは今の言葉で言えば
「知識人ではない」ということです。
知識人でないという意味は、ものを横から見ないというのです。
609
何でも第三者の立場に立つのが知識人です。
ものを横から見るのです。
横から見たら往相だの還相だのということはありはしない。
そうでしょう。
横から見れば往相も還相もない。
船に乗って我々は往相でいくのです。
そうすると岸は向こうから来るでしょう。
そうでしょう。
こちらの船に景色がどんどん向こうから近づいてくると。
そうすると自分が流れを遡っていることです。
だから自己が往なら、自己をとりまく景色は還です。
往還と。
そういうように世界が流動しているでしょう。
第三者にそんなことはありはしない。
船から降りてみよと。
何も船が往っているのではないと。
船から降りれば、傍観すれば往も還も無い。
そうでしょう。なにも「行」がない。
それが第三者です。
610
知識人、インテリゲンチャというのはそういうところに居るのです。
だからそういう人はその場その場の答えを出す。
それも多少は意味はある。
けれども、いざという場合は立場をすぐ変えてしまう。
変節する。
その時その時は巧みな答えを出すけれども、出ないようになると「これは私の考えだ」というような具合ですぐやめてしまうのです。
そういうところに知識人の不信任というものがあるのではないかね。あてにならない。
611
あてにすることが出来ない。
インテリゲンチャというのはその時その時で都合のいい答えを出してくれる便利な人です。
それはあてにできないでしょう。
だから法然のその頑固、知識人でないというところに初めて本当の人だと。
その人の言っている言葉には多少矛盾があっても頑固一徹だと。
こういうところに初めて、その人が生きていると、信頼できるのです。