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兵器・武器

【アーカイブス 艦船編】

【戦艦大和 起工から87年】

2024-11-01
facebook NHKアーカイブスさん曰く
日本海軍が建造した世界最大の戦艦、大和。1937年に起工されました。
全長263メートル、世界最大の46センチ砲は、1発で戦艦1隻を沈める威力があるとされていました。

広島県の呉海軍工廠で造船部に配属された西畑作太郎さんは、のちに「大和」と呼ばれる戦艦の設計作業に携わりました。

「大和を設計する部屋には、囲いを設けて、その入り口に守衛が立っていました。『関係者以外は口外一切まかりならん』と。海軍工廠にとっても、どんな船を造りよるんかいう事は一切口にしてはならんと。線図というか艤装図(船の装備などの詳細を記した図面)を見るとね、今の船と全然様子が違うんで、学校で習った船の様子とちょっとかけ離れておるなという気はしておったんですがね」。
「鉄板の厚さが40ミリとか35ミリとかで、なんでこんな頑丈な船を造る必要があるんかいなとは思いましたよ。それで、昭和16年にアメリカに宣戦布告したんだという話を聞いて、あぁ、それでだな、あんなでかい船を造ったのはいうのはね。その瞬間に思い当たりましたね」。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150094_00000

呉海軍工廠で「大和」の部品製造に携わった徳川敏明さんは、製造工程が偽装されていたことを明かしています。

「船体が出来たときに、なんか船体が半分は隠されとるげないうようなやったけん、そうしたら見たいですよね。今度は。どんぐらいにやっとんだ思って。そうしたら全く上をカムフラージュしておりましたね、偽装。偽装して。ほやけん約300メートルあるんだけど、150メートルぐらいは偽装して、大和の船体じゃないようにしてこっちを造るいうような方法をとっておられましたね」。
「僕らも号艦いうのを造っているからね、僕も海軍へ出るいうことになっとると思おてから、ほいじゃけ絶対にそういう船、僕は乗せてもらいたいなと思いましたよ」。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150093_00000

1943年12月、「大和」はトラック諸島近海で魚雷を受け、西畑さんは呉のドックで復旧作業に携わります。

「もう悲惨ですよ。だってその穴から現場へ出入りしていたんでね。ですから、穴の大きさもこの部屋以上の穴が空いていましたから。『不沈戦艦、不沈戦艦』って言うのが軍人さんですよ。だって、海に浮かんでいるものが沈むのは当たり前な話でね。ですから造った人とか技術者が『不沈戦艦大和』いう言葉を使う事はないんですよ。それは沈みにくい船じゃ言うのは分かるんですがね」。

太平洋戦争末期の1945年4月、大和に特別な命令が下ります。「海上特攻隊」として沖縄に突入せよ。それは、生きて再び帰ることを望んではならない作戦でした。最後は浅瀬に乗り上げてでも、砲撃を続けるよう求められたのです。

4月6日に出撃した大和は、翌7日、鹿児島県の沖合でアメリカ軍艦載機の激しい攻撃を受けました。左舷に魚雷を集中して撃ち込まれ、決定的な打撃を受けた大和は大きく傾き、沈没しました。この時、乗り組んでいた3332人の9割以上が船と運命をともにしました。

「大和」の乗組員だった鶴谷游健さんは、「総員退去」の命令が出たときのことを、こう証言しています。

「総員退去になったら、自分ら鉄かぶと脱いですぐにもう外に飛び出られる。だけど、下におる者はばっちり上ってくるところを蓋されて閉められて、1階から下の者はもう、生きとっていたかってもう生き埋めやわな。あんなかわいそうなと思うわ。露天甲板以上はな、助かる率は多いんやけどな。ほんま生き埋めの者がほとんどやわな」。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001150090_00000

「大和」の設計に携わった西畑さんは、戦後も造船関係の仕事に就きました。
「今から考えてみるとね、あぁ、私も微力ながら日本の一大プロジェクトに参加できた一員じゃったんじゃなあ思うて。誇りに思っていますよ」。

巨大戦艦 大和 ~乗組員たちが見つめた生と死~
https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001230007_00000
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