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人と時代と

あの時、この時

寺山修司

2023-03-01

6:48 / 42:57 [兵士たちの戦争]生存者が語るインパール作戦

2023-03-01

「国葬儀」問題再考 業績後付け説明で混乱

2023-02-28
京都府立大教授 川瀬貴也氏 時事評論2023年2月1日 12時29分

前回、当コラムで私は、安倍晋三元首相の「国葬儀(国葬儀とは、政府が国の「儀式」として行う葬儀のこと)」問題を取り上げ、それがいわゆる政府による「公共宗教」的なるものの構築に繋がる危惧を書き留めた。

先日(12月22日)、政府が選んだ「有識者」への意見聴取の結果がまとめられ、それが「故安倍晋三国葬儀に関する意見聴取結果と論点の整理」と題された報告書として内閣府から公表された。今回はこの報告書をざっと眺め、もう一度この「国葬儀」の問題を考えてみたい。

この意見聴取は、主に法学(憲法、行政法)や政治学、外交史などを専攻する学識経験者、報道機関の論説委員ら21人を対象に10月中旬から12月にかけて対面で行われたとのことである。「追悼儀礼」という宗教的行為に関するヒアリングなら、宗教研究者にももう少し話を聞いて欲しかったところだが、政府としては法的問題と政治的効果の分析がやはり念頭にあったのだろう(もしかしたら、政府から打診があったが断った研究者もいたかも知れないので、人選に関し断定的なことは言えないのだが)。

意見聴取の論点として「法的根拠と憲法との関係」「実施の意義」「国会との関係」「国民の理解」「(国葬儀の)対象者」「経費や規模の妥当性」「その他」の7点にまとめられている。

百家争鳴とまではいかないが、それぞれの論点で相反する意見が提出され、今回政府としてもそれを無理矢理まとめたりはせず、国葬儀の是非や意義などについての「結論」は出してはいない。例えば「国葬儀の法律上の根拠は必要ない」という意見もあれば「このような重要事項はやはり国会で審議されるべき」という意見も併記され、「追悼の強制は憲法上許されないが、国民にお願いするくらいなら良かったのではないか」とする論者がいる一方で「国民全体で弔意を示す国葬儀は時代錯誤」という意見も並べられていた。賛成にせよ、反対にせよ、今回の国葬儀は国民を「分断」してしまったとの意識は有識者で共有されており、「逆説的だが、賛否両論を喚起したのは日本の民主主義の健全さを明らかにした」という意見すらあった。

この報告書で興味深かったのは、ほとんどの論者が「国葬儀の対象者を決める基準は作れるか」という問いには否定的な回答をしていることである。内政、外交上の業績、在任期間などが今回は強調されたが、それとてあくまでその時の政府の主観的な基準に過ぎない。まとめるなら今回の国葬儀は、「ある人物の業績を評価して、国葬儀の対象に選んだ」というより「拙速に国葬儀の対象に選んだ後、その人物の業績を後付けで説明した」という印象が強い。

別言すれば国葬に値する人物であったことを、その実績ではなく、「実際に国葬を行うこと」で証明しようとしたのが今回の政府の動きだろう。要するに順序が逆なのである。古諺に「棺を蓋いて事定まる」というが、その後に様々な問題が噴出したせいで、その蓋も覆うことができなくなった末の混乱であったと思う。

ロナルド・レーガン

2023-02-20
レーガンと最初の閣僚(1981年2月4日)
レーガンと最後の閣僚(1989年1月11日)
葬儀に参列した中曽根、ゴルバチョフ、マルルーニ、サッチャー(左から)
ナショナル大聖堂で行われた国葬では、当時の大統領ジョージ・W・ブッシュ、元大統領ジョージ・H・W・ブッシュ、イギリスの元首相マーガレット・サッチャー、カナダの元首相ブライアン・マルルーニーらが弔辞を述べた。 またレーガンと親交の深かった日本の首相である中曽根康弘や、ソ連の大統領ミハイル・ゴルバチョフら大統領時代に交流のあった現在及び過去の政府トップ多数が世界中から参列し、その光景は各国のテレビや新聞などのマスコミを通じ、全世界で報道された。
ワシントンD.C.内に運ばれる棺。 レーガンの葬儀は1973年のリンドン・ジョンソン以来の国葬として2004年6月11日に行われた。
日本との関係
昭和天皇と共に(1983年)

日本はアメリカの同盟国であるだけで無く、世界有数の経済力を持つアジアで唯一の先進国であると同時に、当時のアジアにおいて唯一安定した民主主義政治が確立された国でもあった。そして冷戦下で自由主義陣営社会主義陣営の2極化が進むと、アジア太平洋地域においてアメリカ軍の基地を抱え、超大国のソ連を太平洋側から抑える位置にある日本の戦略的な重要性はますます高まった。

1970年代に表面化した日本との貿易摩擦に対しては、アメリカ国内の保守派や大企業・組合などからのプレッシャーを受けて一貫して強硬姿勢をとり続けたが、冷戦に正面から対峙し続けたレーガン政権が、このような日本をアメリカの安全保障上欠かすことのできない「パートナー」として重視したのも当然の成り行きだった。

レーガンのソ連への強硬路線は日米関係にも影響を与えた。大韓航空機撃墜事件レフチェンコ事件など、冷戦下の北東アジアで発生した事件では日本と共同歩調を取った他、極東アジアにおける軍事的なプレゼンスを高めるため、青森県の三沢基地に当時最新鋭の戦闘機であったF-16戦闘機の飛行隊を配備するなど、日本を含む極東アジアに陸軍・海軍・空軍・海兵隊合わせて14万人の兵力を展開した。

特に同年代でお互い保守派として知られた中曽根康弘との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。そうした背景からレーガンは1983年11月9日から12日・1986年5月4日から・1989年5月2日から7日と、現職のアメリカ合衆国大統領としては最多の3度に渡り日本を公式訪問している。この間に東京をオフショア市場化した。

最初の訪日では昭和天皇(当時の今上天皇)や中曽根と会談した他、キャンプ・デービッドへ招待された答礼として中曽根が11月11日に東京都西多摩郡日の出町別荘である「日の出山荘」に招き、蔦子夫人手作りの昼食を共にしたことが大きな話題となった。日の出山荘を訪れる前日には、明治神宮流鏑馬を見学し、その際「自分もやりたい」と言って周囲を困らせていた。国会で、これからの世界平和・日米協力の必要性を説いた時、俳句を引用し(「草いろいろおのおの花の手柄かな」)、これは与野党を問わず大喝采を受けた。2004年のレーガン国葬にも当時86歳の中曽根はたっての願いで参列して故人を惜しんでいる。

中曽根康弘の私邸にて昼食をともに(1983年)
お互い保守派として知られた中曽根康弘との間では、中曽根を「ヤス」と呼び、レーガンを「ロン」と愛称で呼ぶ仲となり、この呼び方は当時「ロン・ヤス」とあだ名されてお互い交流を結んだ。

皇后 雅子様の英語力 ハーバード大学 マルチリンガル

2022-12-15
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