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人と時代と

あの時、この時

園遊会の雅子さまの「ご家族さまですか?」にぐっときた 皇室の「これから」を考えるヒント

2023-05-17
「春の園遊会」での雅子さま(代表撮影/JMPA) © AERA dot. 提供

およそ4年半ぶりに開かれた園遊会。マスク越しではあるものの、天皇皇后両陛下が招待者と対面で言葉を交わした様子から、コロナ禍を脱した社会の明るい兆しを感じた人も多いだろう。これからの令和の皇室の在り方について、コラムニストの矢部万紀子さんが考察した。

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 コロナ禍や代替わり儀式でずっと中止されていた春の園遊会が5月11日、東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれた。令和初の園遊会はあいにくの雨に見舞われたが、園遊会というのは招待された人、されていない人、どちらにとっても皇室というものを近く感じる機会になるのだと実感した。

 春と秋の年2回、当たり前に園遊会が開かれていた頃はそんなふうにとらえてはいなかった。4年半ぶりの開催だから、天皇陛下と雅子さまと招待者とのやりとりを追いかけることにしたのだ。お二人をリアルに目にする機会がほとんどない。そんな期間を経て実現した、お二人の肉声を聞ける貴重な場だからだ。

 1000人余りが出席、4時間ほどの会だったというが、私がニュース映像で追いかけた範囲では音声込みでカメラが映したのは15分ほど。歌舞伎俳優の片岡仁左衛門さんから元車いすテニス選手の国枝慎吾さんまで、5人の招待者とのやりとりだった。見て、聞いてわかったのは、陛下と雅子さまの「今」だった。そして皇室の「これから」を考えるヒントも、垣間見ることができた。

 うれしかったのが、雅子さまの水色の訪問着だった。というのも、2022年12月から23年1月にかけて雅子さまのファッションがずっと白っぽかったのだ。仕事をしている人ならわかっていただけると思うが、通勤服を選ぶのが楽しいのは仕事も体も調子のいい時、そうでない時は面倒なばかりだ。12月9日のお誕生日から新年一般参賀(1月2日)、歌会始の儀(18日)、福島県とつないでのオンライン交流(25日)などなど、白続きの雅子さまが心配だった。

 それが、この日は水色。さらに鮮やかな花菖蒲と菊が描かれていて、「花の絵柄は金の縁がアクセント」という解説記事も読んだ。心が弾んだ。詳述しないが、金色は雅子さまの勝負色と思っているからだ。水色プラス金を選んだ雅子さま、前向きなのだ。

 そして、陛下と雅子さまの「共働きスタイル」も見えた。過去の園遊会の映像を見ると、上皇さまと美智子さまは「2対1」と「1対1」、二つのスタイルで臨んでいた。「お二人ご一緒に、1人の招待者と話す」が「2対1」、「それぞれが、1人の招待者と話す」が「1対1」。すべてを見たわけではないが、令和が近づくにつれ「2対1」になっていったようだ。


 陛下と雅子さまは、「2対1」だった。それを「共働きスタイル」と表現したのは、信頼しあった仲間同士の仕事の進め方のように見えたからだ。陛下はいつも雅子さまのことを「日々の活動を支えてくれる大切な存在」と述べる。その具体的な形に接した気がした。口火を切るのこそ陛下だったが、ほかに決まりごとはないように見えた。お二人がお互いに質問を補ったり、別の話にもっていったり。自由自在なスタイルが心地よかった。

強い雨音もあり、すべての音声が聞こえたわけではないことをお断りしたうえで、卓球の伊藤美誠選手とのやりとりを再現してみる。まずは陛下が「とても素晴らしかったですね」とたたえ、「いろいろご苦労も多かったのではないですか」と尋ねた。それを受け、伊藤さんが「コロナ禍での五輪と金メダル」について話すと、雅子さまが「ずいぶん小さい時からすごくたくさん」と話を振った。元卓球選手の母がコーチだった。そのことを踏まえての質問に、伊藤さんは「2歳ぐらいからお母さんと一緒に」練習し、今もご飯を炊いてくれると説明した。すると雅子さま、「お母様が作られたおにぎりを」と話を促した。

 それを聞いた伊藤さんが、「そうなんです」とうれしそうに言って、そこから「お母さんトーク」になった。一口サイズのちっちゃいおにぎりを作ってくれる、それを試合10分くらい前に食べる、卓球の試合は長くなることがあるからで、1時間でも持つように「お母さんがいつもがんばって、朝早くからでもやってくれます」。そう一気に語り、ふふふっと笑みをこぼした。

 次に雅子さまがした質問は、「一緒に何かされることは?」だった。伊藤さんと、隣にいるスピードスケートの高木美帆選手、2人への質問だった。雅子さまはきっと、伊藤さんと話しながら高木さんのことを気にかけていたのだと思う。伊藤さんの前に、お二人は高木さんと話をしたが、伊藤さんに比べ短かった。だから改めて2人に質問し、高木さんにも答えてもらおう。そう考えたのではないだろうか。2人は夏と冬の競技だから初めて会った、この機会に話ができてありがたい、そう感謝を口にしていた。

 園遊会終了後、2人は記者たちの取材を受け、感想を語った。「優しい時間が流れ、気持ちが安らぐような思いを感じました」と高木さん。「心が温かい方とお話をすると私自身も心が潤うので、お話しすることができてよかったです」と伊藤さん。陛下と雅子さまの対等な関係性があるから、雅子さまは自分のペースで招待者と向き合える。温かい心遣いも発揮できる。それが2人に伝わっていた。

 元車いすテニス選手の国枝さんとの会話からは、今らしい「今」が見えた。陛下は車いすテニスにとても詳しく、会話はとても弾んだ。国枝さんが「ありがとうございます、見ていただけてうれしいです」と言ったところで、雅子さまがこう言った。「ご家族さまですか?」。国枝さんの後方に、たぶん車いすを支えているからだと想像するが、女性がいた。その人へのお声がけだった。

 招待者と一緒にいる人が家族とは限らない。だから「ご家族さまですか?」。当然の質問だが、ぐっときた。「奥様ですか?」でなく、「ご家族さまですか?」だったのだ。「奥様」や「ご主人様」という呼称に疑問を感じる人は少なくない。それがジェンダー平等を目指す、今という時代だ。が、それに代わる適当な表現もなかなか見つからず、ついつい使ってしまう。私もそのひとりだから、「ご家族さま」がぐっときた。

 さて最後に紹介するのは、音声の入った映像の一番手、片岡仁左衛門さんとのやりとりだ。雨が強まってきたのに、仁左衛門さんは傘を差していなかった。なので陛下がまず、「傘を、よろしかったらお差しください」と勧めた。「はい、差させていただきましょう」と仁左衛門さんは答えたが、傘を広げる気配はなかった。

 次に「お待たせいたしまして」とわびる雅子さまの声が聞こえ、陛下が「歌舞伎界の発展のために大変なご尽力を」と会話の口火を切った。すると仁左衛門さん、こう返した。「できましたらお芝居のほうへも、おみ足をお運びくださいますようお願いいたします。みんなの励みになりますので」。おみ足=御御足。「御」が重なっている。この後、仁左衛門さんはこんなことも言った。「雨の中をお出ましくださいまして、本当にありがとうございます」

 人間国宝が口にした「おみ足」と「お出まし」は耳に心地よく、それと同時に、昭和と皇室の関係性を表す表現でもあると感じた。仁左衛門さんは1944(昭和19)年生まれ。勧められても傘を差さず、一度だけ白いハンカチで雨をぬぐっていた。

 対比的だったのが、2000(平成12)年生まれの伊藤さんだ。両陛下を前に臆することなく、懸命に語っていた。高揚もしていたのだろう、それが楽しそうに見えた。「御」を重ねる仁左衛門さんと、「お母さんトーク」をする伊藤さん。どちらがどうというのではない。皇室との距離感が、まるで違うのだ。

 ささやかな感想でしかなく、だから何だと聞かれても答えられない。だが、これからの「皇室と国民」を考えるのに外せないことのように感じる。関係性を築く、その対象となる国民を見つめることは、とても大切だと思うからだ。

 陛下と雅子さまは、初めて主催した園遊会で何を思っただろう。皇室の情報発信強化のため4月に新設されたという宮内庁広報室が、知らせてくれたらよいのだけど。

「徳川家再興」に命を懸け、豊島区のアパートで死去した“最後の大名”の数奇な人生

2023-05-17
日本史深掘り講座 の意見
徳川家康が開いてから約260年間続いた江戸。その江戸の幕末期、徳川家に忠義を尽くすため自ら「脱藩」し、東北各地を転戦して新政府軍と戦った―そんな「最後の殿様」がいたことをご存じだろうか。そこで今回は『日本史を変えた「最後の○○」』(青春出版社刊)から太平洋戦争直前まで生きた最後の殿様の波乱の人生について抜粋して紹介する。

娘と二人、アパートで静かに暮らす

 太平洋戦争開戦の年となった昭和16年(1941年)の1月22日、現在のJR山手線・目白駅から歩いて数分の距離にある東京都豊島区高田のアパートの一室で、一人の老人が静かに亡くなった。享年94と長寿だった。

その老人こそ、当時、「生存する最後の大名」と呼ばれた林忠崇(ただたか)であった。近所では、そのアパートに娘と二人、つましく暮らす老人がいることは知られていたが、まさか「お殿様」だったとはほとんどの人が気付いていなかった。

 およそ林忠崇ほど流転の人生を経験した大名もいなかった。戊辰戦争をきっかけに殿様でありながら自ら藩を「脱藩」、旧幕府軍に加わって新政府軍(官軍)と戦った。これだけでも相当ユニークなのに、その後、謹慎が明けてからは旧領に戻って農民、続いて東京府の下級役人、函館に渡って商家の番頭……など職業を転々とした。

 なぜ、かつてのお殿様が、これほど苦難の人生を歩まなければいけなかったのだろうか。

将来の幕閣入りも期待された逸材だった

 林忠崇は幕末の嘉永元年(1848年)7月28日、上総国請西藩(現在の千葉県木更津市請西)の藩主・林忠旭の五男として誕生した。請西藩は石高で言えばたかだか一万石余りだったが、江戸時代の林家は徳川家とは格別に縁が深い家柄として知られていた。

 請西藩2代目藩主・林忠交(ただかた)(忠旭の弟)の急死により、忠崇が3代目藩主になったのは慶応3年(1867年)6月、20歳のときだった。忠崇という人は幼少期から文武の道に励んでおり、このころには近い将来の幕閣入りも期待されるほどの凛々しく英邁(えいまい)な君主に成長していた。まさに、忠崇の前途は洋々としているように見えた。

 ところが、その年の10月になり、忠崇の人生の歯車を狂わせる大きな出来事が京都から飛び込んでくる。将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上したという報せだった(「大政奉還」)。

 さらに、年が明けると新政府軍と旧幕府軍との間で武力衝突「鳥羽・伏見の戦い」が勃発し、旧幕軍が敗退したことを知ると、忠崇は「徳川家の御厚恩に報いるのは今このときぞ」と旧幕軍支持の決意を家臣一同に表明し、藩を挙げて洋式の武器を調達したり洋式調練に汗を流したりした。

 やがて、そんな忠崇を慕い、鳥羽・伏見の戦いを潜(くぐ)り抜けてきた佐幕・抗戦派の部隊「遊撃隊」が請西藩にやって来る。当時、隊の中心を成していたのは幕臣の伊庭八郎(いばはちろう)と人見勝太郎(ひとみかつたろう)であった。

 忠崇は、伊庭や人見らから、徳川家の再興のために力を貸してほしいと懇願され、体の中を流れる若い血潮が滾ったに違いない。忠崇はその申し出を快諾すると、周囲を驚かせる思わぬ行動に出る。

領民を戦禍に巻き込まないために

 忠崇は家臣一同を集めたうえで、「吾は今後、藩を脱し、遊撃隊と行動を共にする」と宣言したのである。藩主自ら脱藩するなど、徳川幕府始まって以来の椿事(ちんじ)であった。しかしこれは、忠崇が考え抜いた末に出した結論だった。

 遊撃隊を迎え入れたうえで藩を挙げて新政府軍に抵抗する姿勢を見せたとなれば、当然、領内に新政府軍が押し寄せ、領民が被る災厄は計り知れないものになるだろう。それを回避するために忠崇は自ら藩を脱しようとしたのである。


 こうして慶応4年(1868年)閏(うるう)4月3日早朝、忠崇は、藩主と一緒に戦うことを選んだ請西藩士67人に遊撃隊36人を加えた103人と共に、真武根陣屋(まふねじんや)(請西藩の上屋敷)を出陣した。周辺には佐幕か反幕か、態度を決めかねている日和見の藩が多いなか、あくまでも徳川に忠誠を誓う忠崇の潔い行動に感激し、大勢の領民が沿道に土下座してその武運を祈ったと伝えられている。

 新政府はそんな忠崇の脱藩を反逆行為と見なし、林家を改易(所領などを没収すること)とした。こうして林家は最後の改易処分を受けた大名となった。

期待した仙台藩までが白旗を

 忠崇ら遊撃隊は徹底抗戦をやめず、今度は軍艦に乗り、戦況が拡大しつつあった奥州へと向かう。6月3日の夕刻に陸奥国小名浜(福島県いわき市)に上陸。その後は北上しながら転戦を重ね、7月下旬に会津若松城(鶴ヶ城とも)に入る。

 その後、忠崇らは米沢を経て、9月1日、仙台城下に入る。この仙台藩なら、奥州随一の雄藩であり、佐幕で結束した「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」の中心的存在でもあることから、不利な戦況を立て直せるはずと踏んだのだが、その見通しは甘かった。

 仙台に入って3日後の9月4日、米沢藩が新政府軍に降伏。さらにその数日後には期待した仙台藩までが降伏を表明したのである。このとき忠崇は、この仙台で知り合ったばかりの旧幕臣・榎本武揚(えのもとたけあき)の誘いに乗り、蝦夷(北海道)に渡ることも考えたが、結局は仙台藩ら周囲の説得もあって降伏と武装解除を決断する。

 忠崇がそれを決意したのは、徳川家の存続が許されたという報せが直前に忠崇の耳に届いていたからだった。徳川家の存続がかなった以上、それでも戦いをやめないのは、かえって徳川家のために不忠であると周囲から説得され、忠崇は心ならずも降伏を決めたのであった。

運にも見放され仕事は長続きせず

 忠崇は江戸での謹慎期間を経て、明治6年(1873年)の26歳のとき、旧領であった請西村に戻って農民となる。忠崇のような元大名であれば、維新後、「華族」に列して様々な特権が受けられるはずであったが、忠崇は改易処分を受けていたため、それもかなわず、早急に生活の糧を得る必要に迫られたからである。

 しかし、やはり未経験者にとって農業はそんなに甘いものではなく、すぐに音をあげた忠崇は、亡父と親しかった元幕臣で、当時、東京府知事を務めていた大久保忠寛(一翁)を頼り、下級役人として登用される。

 ところが明治8年(1875年)12月、上司と対立し、辞職。その後はツテを頼って函館に渡り、海産物の輸送を行う豪商・仲栄助の世話になり、店の番頭の職につく。ようやく安定した暮らしができると喜んだのも束の間、運悪く栄助の店が破産したため、再び困窮生活を余儀なくされる。

 忠崇は明治13年(1880年)、神奈川県座間市の寺院に寓居(ぐうきょ)(仮住い)する。この寺には数年間滞在するのだが、普段は何をするでもなく、近所と交わることもせず、好きな絵を描くなどして静かに暮らしていた。忠崇の身元を知っていたのは住職一人で、妻女も知らなかった。近所では雑用をこなす寺男だと思われていたらしい。

岡山県で娘と同居する

 収入が無くてもどうにか食べていけたのは、平民として各地に散らばっていた旧臣たちが時折ご機嫌伺いにやって来て、そのつど幾許(いくばく)かのお金を置いていったからである。また、忠崇は謹慎後、3~4人の女性と結婚、あるいは内縁関係を繰り返したと見られているが、そうした女性を周旋したのも旧臣たちだった。

 明治19年(1886年)、妻チエとの間に次女ミツが誕生する(長女は早世)。

 このミツがのちに忠崇と同居し、忠崇の面倒を終生見ることになる。

 明治26年(1893年)から翌27年にかけて、旧臣らの家名復興の嘆願運動が実り、忠崇は甥の林忠弘と共に晴れて華族に列せられる。その後忠崇は印刷局に勤めたり日光東照宮で神職として勤めたりしたが、いずれも長続きしなかった。

 明治37年(1904年)、妻チエに先立たれると、大正4年(1915年)には次女ミツの嫁(とつ)ぎ先であった岡山県津山市の銀行経営者の家に引き移る。娘との同居で久々の安らぎを得た忠崇だったが、運命はやはり彼に対して冷酷だった。

 昭和10年(1935年)、ミツが離婚したことから、父娘は岡山を離れざるを得なくなり、一時、大阪で暮らした後、昭和12年(1937年)、東京に舞い戻る。このとき、忠崇は90歳の卒寿だった。

西洋人形製造からアパート経営に

 その後ミツは別れた夫から譲り受けた、フランス人形を製造販売する会社の経営に当たる。業績はまずまず順調だったらしい。

 昭和12年(1937年)、広島藩最後の藩主だった浅野長勲(ながこと)が九十六歳で天寿を全うすると、ついに生存する最後の元大名は林忠崇一人となった。このころから、新聞や雑誌の取材の申し込みが頻繁に入るようになる。忠崇はこうした取材を受けることが満更嫌いでもなかったらしい。

 やがて戦争の気配が色濃くなってくると、西洋人形を自由に作ったり買ったりすることができなくなり、会社の業績は一気に冷え込んでしまう。そこでミツは思い切って会社を畳み、アパート経営に乗り出す。それこそが忠崇にとって終のすみかとなった東京都豊島区高田のアパートだった。

 父娘がそのアパートに転居したのは昭和15年(1940年)3月のことだった。冒頭で述べたように、忠崇はその翌年の1月22日に亡くなっている。死の瞬間、たまたま外出していたミツは立ち会えず、かつて忠崇が藩主だった時代に家老を務めていた人物の孫が看取ったという。

 こうして最後の大名――林忠崇は、徳川家を守るために命を懸けた青春時代の思い出を胸に、彼岸へと旅立ったのである。

全盛期の渡辺プロダクションを支えた女性たち

2023-05-15
facebook Miyake Taijiさん曰く、 向かって右端の着物姿は当時の渡辺美佐副社長。

来日の記録

2023-05-09
英 チャールズ皇太子・ダイアナ妃が来日(1986年・TBSアーカイブ)
【ノーカット】「女王陛下のスピーチ」エリザベス女王初来日(1975年)(2022年5月27日)【映像記録 news archive】
【動画で振り返る】エリザベス女王死去 47年前の京都訪問の記録映像 当時49歳の女王が龍安寺・御所・本願寺などへ 蹴鞠の観覧、鯉への餌やりや

岸田内閣総理大臣がバラエティー番組スタジオに初登場!

2023-05-09
堺校長の指摘にタジタジの場面も
岸田内閣総理大臣がバラエティー番組スタジオに初登場!堺校長の指摘にタジタジの場面も © entax
entax によるストーリー

5月13日放送の『世界一受けたい授業』のスタジオに岸田内閣総理大臣が登場し、特別授業を開講する。これまで様々な先生を招待してきた『世界一受けたい授業』だが、現役の総理大臣が出演するのは、今回が初めて。普段ニュース番組で見かける総理がバラエティー番組に登場するのは異例だ。

オープニングでは他の出演者も特別講師に騒然となりながらスタート。授業内容は「総理のお仕事」と「G7広島サミット」について学ぶ2本だて。“総理大臣になったら最初に行うこと”、“外交”、“総理の1日”など総理大臣の仕事をわかりやすく解説し、クイズも出題。ゲストと一緒に総理の仕事を学ぶことができる。

さらに、5月19日 から開催される「G7広島サミット」。“サミットとはいったいどんな場所で何をするのか”、“どんな人が参加するのか”、“なんのために開催されるのか”といった疑問もわかりやすく解説していく。

収録前には、バラエティー番組のスタジオに出演するのは初めてで緊張すると明かしていた岸田総理。スタジオでは、収録に不慣れな総理に堺正章校長からのある指摘でタジタジに? ゲストから飛び出す質問にもひとつずつ答えていく。

『世界一受けたい授業 サミット直前SP岸田内閣総理大臣特別授業!』

5月13日(土)19:56~20:54 日本テレビ系にて放送。

写真提供:(C)日テレ

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