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大谷派のお給仕

日常生活で出来ること

法話の後の問いかけ

2022-07-02

Facebook 伊勢谷功さん曰く



【 質 問 3 】Hiromiさん
先生、ありがとうございます。深い問いかけですね。
私が何を願うか……。
生きている間、努力した成果が他に継承されることでしょうか。
私は生きてきた意味を求めてしまうと思います。感謝されるような生き方がしたいと望むと思いますが……。
自分が死んだ後、何を望むかといえば、次の世代が先人の過まちや先人から学んだことを活かし、より命を大切にする生き方へとつないでいくことを望むかもしれません。
死んだあと、どこに行くのか? この問いは、深淵すぎてわかりません。仏教のお坊さんたちからよく聞く「極楽浄土」というところがあるのならば、さぞ穏やかな幸せなところであろうと、勝手に想像しているだけに過ぎないですね。
どこに行くのか? 光に帰るのでしょうか。 
以前、高野山の奥の院で、写真を撮らせていただいた時、7つの光のタマがデジカメに写りました。魂の光化と、勝手に想像しています。
【 返 信 3 】伊勢谷
「供養」ということは、相手の願いに応えることによって成り立つものです。
願ってもいないことに「応えて」も「応じたこと」にはなりません。
「供養」には、まず、「相手の願いを知る」ことが先決です。
たとえば、「親の供養をする」には、まず「親の願いを知る」こと、そして、その「願いに応える」ことです。
「自分の願い」が明らかにならねば「親の願い」は明らかにはなりません。
なぜなら、その双方の願いは、「ひとつ」だからです。
私たちが考えている「願い」とは、個々別々なものですが、それらは、じつは「願い」ではなくて「欲望」なのです。
「願い」ということを明らかにするには、いくつかの「要件」があります。私たちが自分で考えても、なかなか結論には到達できません。私たちに見えてくるものは「願い」ではなくて「欲望」なのだからです。
あるいは「欲望の混ざった願い」なのです。
「願い」は、自分で考えて見極めることも大事ですが、他から学ぶことが大切です。
「他から」とは、先輩や学校や、さまざまの人生や文学や歴史など無数にありますが、それらのすべてが「先生」なのです。
そして、それらを明らかにしてきた歴史が「宗教」です。
宗教とは「教え」です。釋尊やキリストの「教え」が宗教なのです。
世の中には、欲望や処世術でできた宗教がたくさんあります。
また、「神だのみ」や「まじない」や「ご祈祷」など、オカルトのようなものも、至るところにあります。しかし、佛教やキリスト教のような「教え」がありません。迷信かオカルトか、詐欺かカラクリのような「民間伝承」があるだけで「教義などといえるような「教え」はありません。
ですから、それらは厳密に言えば「宗教」ではないのです。
まず、確かな「教え」を学ぶことを始めねばならなりません。



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