ちょい気になる絵
ちょっと気になる絵
夜桜
2.《夜桜》
大観が、熱意をもって臨んだローマ展に出品した作品の中の一点が、一九二九(昭和四)年に制作された《夜桜》である。ローマ展のために描かれた新作で、同年一一月一七日に日本美術院で内覧会をおこなっている。翌月一三日には、出品作の中殻優秀な作品三二点が宮中で展覧に供されたが、その中にはもちろん《夜桜》も含まれていた。 六曲-双という大画面に描かれた《夜桜》は、数多い大観作品のなかでも、華やかな装飾性と、群青、緑青、朱など濃彩や月に用いられた白金の使用による鮮やかさ、迫力という点において抜きん出ており、記念すべきローマ展の出品作であるだけでなく、大観の画業における代表作のひとつに数え得る。背後に連なる山々は墨で描かれており、篝火にうつしだされた山桜が鮮やかに映える。桜花はすべて観者を向いて開き、画面を-層華やかなものにしている。さらに山々に用いられた墨は、画面上部にわずかにのぞく夜空の群青と相俟って重厚な空気を生みだし、松に使用された緑青は、篝火の朱と大胆な色彩の対比をみせる。篝火からまっすぐにたちのぼる烟は、静かに散る花びらと対照的な動きをみせながらも、まっすぐに地面へと向かう花びら同様、この画面が風の動きのない静かな状況であることを暗示し、色彩の対比や画面構成とともに、大観の周到な計算を感じさせる。 |
|
ところで、この《夜桜》は、富田溪仙筆《祇園夜桜》(横山大観記念館蔵)から影響を受けているとしばしば指摘される。《祇園夜桜》は、一九二二(大正一一)年にクリーブランド美術館の要請で開催され、米国を巡回した日本美術院米国展覧会(以下、米国展)の出品作であり、京都祇園の枝垂れ桜が篝火の中から幻想的に浮かび上がる様子を描いている。縦四八.三センチメートル、横七一.〇センチメートルの絹地に、闇に包まれた山々、そして夜桜を取り囲む松が墨の微妙な調子をいかして描かれ、趣ある空間を生み出している。その閣の中に、《祇園夜桜》の主役でもある枝垂れ桜が朱色の篝火によりその優美な姿を浮かび上がらせている。この作品は、キャサリン・M・ボールが、「この展覧会で最も人気を呼んでいる作品の一つは富田溪仙の《祇園夜桜》であるが、画趣に富んだ詩的な作風に鑑みればもっともなことである。下方からの火明かりで陰影を帯びた淡紅色の桜が夜の闇に神秘的に浮き上がるのである(注2)。」と述べているとおり、当時も人気があった作品のひとつと考えていいだろう。そして、大観は、この《祇園夜桜》を非常に気に入り、のちに譲り受けている。長尾政憲氏「富田溪仙と大観-溪仙にあてた手紙からみて-」(『財団法人横山大観記念館館報No.1』)で紹介された大正一五年五月一九日付の溪仙に宛てた大観からの手紙には、《祇園夜桜》に触れた箇所があるので、以下に引用しておきたい。 「此度は御無理願上候処、早速御作品集御恵贈被下難有拝受仕候 |
挿図4. 富田溪仙筆《祇園夜桜》 (註2)『日本美術院百年史 第五巻』(一九九五年 日本美術院百年史編集委員会)p.881/同p.1026に掲載されている原文は次の通り。 |
画題の桜については後に詳述するが、二人の画家がともに海外展において同様に夜桜をモティーフとしている事実は興味深い。しかし、同主題を扱っているとはいえ、溪仙の《祇園夜桜》と大観の《夜桜》には大きな逢いもある。 差違としてあげるまでもないことではあるが、まず第一に、画面形式の違いがある。《祇園夜桜》は、前述のとおり現在は軸装である。米国展出品当時は額装であったが、しかしこれは展覧会の規定であり、基本的には溪仙に画面形式を選択する余地はなかった(註3)。一方、大観の《夜桜》は六曲一双屏風である。《祇園夜桜》に刺激をうけながらも、画面形式において、大観は《祇園夜桜》を踏襲せず、六曲一双屏風という、力強さをより強調することのできる大きな画面を選んでいる。 続いて、溪仙と大観の夜桜は、その色彩においても大きな違いをみせる。《祇園夜桜》は、墨の濃淡を生かして夜の山々が表現されており、篝火や、その炎に照らされて仄かにうかびあがる桜により、幻想的な京の夜の情景が描き出されている。一方、大観の《夜桜》では、先にも触れたように、群青、緑青、朱など濃彩がもちいられており、溪仙のつくりだした幻想的な世界とは対照的に、鮮麗かつ重厚な世界をつくりだしている。 続いて、溪仙と大観の夜桜は、その色彩においても大きな違いをみせる。《祇園夜桜》は、墨の濃淡を生かして夜の山々が表現されており、篝火や、その炎に照らされて仄かにうかびあがる桜により、幻想的な京の夜の情景が描き出されている。一方、大観の《夜桜》では、先にも触れたように、群青、緑青、朱など濃彩がもちいられており、溪仙のつくりだした幻想的な世界とは対照的に、鮮麗かつ重厚な世界をつくりだしている。 最後に、もうひとつ特筆しておくべき差違は、桜の種類である。《祇園夜桜》に枝垂れ桜が描かれていることは既に述べた。溪仙のこの作品に限らず、祇園の桜といえば円山公園の「祇園枝垂れ」が有名である。祇園の初代枝垂れ桜は、江戸時代に八坂神社の境内から移植されており、その後、昭和24年に二代目枝垂れ桜が植えられているため、溪仙が《祇園夜桜》で描いた祇園枝垂れは初代の枝垂れ桜ということになろう。一方、大観の《夜桜》に描かれている桜は枝垂れ桜ではない。大観は《夜桜》を描くにあたって、頻繁に上野に通っている(註4)。たしかに上野の桜は染井吉野や里桜、山桜などが主であり、大観の描いた桜の種類が枝垂れ桜でないことと上野の桜とは無関係でないかもしれないが、「概して實感本位に立脚して視覚対照の効果に重きを置く洋画としては、行詰るのが当然の歸結ではなかろうかとも感じました。然るに日本画は、東洋精神の伝統に根ぎして時代とともに研鑽を進め、高く主観的理想から出發するものでありますから、描寫の根本が洋画と相反し、客観界を寫實的に説明するとちがひ、作者胸憶の世界を不可言的に如實に吐露するものでありますから、日本画の道たるや、實に窮まる所なき永遠の大道なのであります。」とも述べている大観のこと、やはり、意図的に枝垂れ桜から山桜へと変更しているとみるべきであろう(註5)。月夜に浮かぶ背後の山々や、《祇園夜桜》の影響力を考えてみても、大観が祇園の夜桜を意親していた可能性は非常に高い。それゆえに、「祇園=祇園枝垂れ」という-般的な常識を覆してまで山桜を描いたことの持つ意味は大きい。大観は、この作品において、上品ではかなげな美しさをもつ枝垂れ桜ではなく、力強さを感じさせる山桜を選択したのではないだろうか。画面の大きさ、配色のみならず、モティーフの選択においても、大観がある種の迫力を追求した可能性は決して低くないように思われる。 このように、山桜を選択した大観であるが、この桜というモティーフが、日本人にとって非常に思い入れの深いものであることは、ここで改めて繰り返すまでもないだろう。日本においては、桜花が描かれる絵画、工芸作品は極めて数が多い。しかし、それに反して万葉集で詠まれた歌は、梅が一一八首、桜が四三首、椿が九首と圧倒的に梅が多いのである。桜について、すでに「平安、鎌倉期に国粋主義の発展とともに多く描かれている(註6)」との指摘があるように、中国から伝わった梅の愛玩は、平安時代に入り、日本的な美意識が生まれるにしたがい桜へと移行し、次第に桜をモティーフとした作品が増えていく。 |
(註3)『日本美術院百年史 第五巻』(一九九五年 日本美術院百年史編集委員会)p.863 「大きさは尺四方物、尺八、尺二、ニ尺五寸の四種でみな額」 (註4)竹越真三夫「″夜桜″″紅葉″両屏風ご製作時のこと」(「財団法人 横山大観紀念館館報No.2 一九八四年 横山大観記念館)p.6「昭和四年の花どき、上野公園へ、夜桜の情趣観察に幾晩も出掛けられ、最初と中間の二回私も供をいたしました。五重の塔を囲んで咲いた山桜が、美しい印象を深く残しました。」 (註5)加藤類子「日本画と桜」においても、大観の《夜桜》について、「紅枝垂の優美さを、躊躇することなく山桜に変えている」と指摘されている。(『日本美術全集二二』 一九九二年 講談社 p.234) (註6)北村四郎『花鳥画の世界』の植物『花鳥画の世界 花鳥画資料集成』第一一巻 p.130 一九八三年 学習研究社 |
このように、桜というモティーフのもつ歴史的な意味を充分に意識し、大観は、ローマ展出品作のモティーフとして、伝統的、日本的な桜を選んだと考えられる。また、大観がこの論説を目にしていたかどうかはわからないが、「櫻花の画」(『繪画叢誌』一三五 明治三一年四月発行)と題した論文の中で、野口勝一が、已に櫻「本邦人花を以て天下第一の花となし之を誇り又本邦画を以て世界の希有の技となして之を貴ふ乃ち希有の技に因りて天下第一の花を画き而して其眞趣を得るに至らさるは是れ大なる?点といはさるへからす盖し其花に誇り其技を貴ふことを知て其花と技とを併せて宇内に誇揚する所以を思はさるに於ては二者分離して花の薦めに技の足らさるを嘆き技の薦めに花を顯はすを得去る惜しますんはあらす故に他の卉木禽獣等の如く櫻花を専修して形意兼ね盡くし櫻花の薦めに一法門を開くあらは畫史の薦めに好模範を垂るるのみならす之に因て名花の光彩を世界に耀かすを得へきならん乃之を勉むるは畫道の一進歩にあらすや」と述べている点も興味深い。 |
モネです。
印象 -日の出-
(Impression, soleil levant) 1872年48×63cm | 油彩・画布 | マルモッタン美術館(パリ)
関連:ウィリアム・ターナー作 『ノラム城、日の出』
カルーセル・エルドラド
100年以上の歴史を超え、夢とロマンを語り継ぐとしまえんのシンボル。
1907年、ドイツのミュンヘンで名工といわれたヒューゴー・ハッセの手によって造られた歴史的な回転木馬です。
ヨーロッパ各地をめぐった後、アメリカのコニーアイランドにある遊園地へ渡り、1971年「としまえん」にやってきました。
100年以上の歴史を超えて、夢とロマンを語り継ぐ伝説の回転木馬なのです。
2010年、日本機械学会により 『機械遺産』 に認定されました。
https://youtu.be/0vdMYUaQQpA