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聖徳太子1400回忌

聖徳太子1400年忌法要のベージ

◎蘇我氏の興隆

2022-09-24

facebook 佐々木 信雄さん曰く

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【7th Century Chronicle 621-640年】
◎蘇我氏の興隆
*623.-.-/ この年、蘇我馬子が新羅征討軍を派遣し、新羅は服して調を貢進する。
*624.10.1/ 蘇我馬子が葛城県を求めるも、推古天皇は拒む。
*626.5.20/ 蘇我馬子(76)没。馬子の子 蝦夷が葬儀を仕切るも、馬子の弟 境部臣摩理勢と軋轢が生じる。
*626.-.-/ 蘇我馬子の子 蝦夷が大臣(おおおみ)になる。
*628.9.-/ 推古天皇が崩御したあと、皇位継承をめぐり紛糾する。蘇我蝦夷は田村皇子(舒明天皇)を擁立し、山背大兄王(聖徳太子の長子)を推す叔父の境部臣摩理勢を殺害する。
*643.11.1/ 蝦夷の子 蘇我入鹿が、山背大兄王を襲撃して一族を滅ぼす。
 蘇我氏は、河内の石川および飛鳥の葛城県蘇我里を本拠としていた土着豪族であったとされる。具体的な活動が記述されるのは、6世紀中頃の「蘇我稲目」からで、それ以前に関してはよく分かっていない。渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、渡来人の持つ当時の先進技術が、蘇我氏の台頭の一助になったと考えられる。
 また蘇我氏は仏教が伝来した際にいち早く取り入れ、朝廷の祭祀を任されていた物部氏、中臣氏に対抗した。稲目の代の頃には、過去に勢いのあった葛城氏や平群氏が衰退し、大臣の蘇我氏は、大連の大伴氏や物部氏にならぶ三大勢力の一つとなる。やがて大伴金村が失脚すると、大連の物部尾輿と大臣の蘇我稲目が二大勢力となった。
 蘇我稲目・馬子父子は、娘を次々と天皇に嫁がせ、大王(天皇)の外戚となって勢力を強めていった。二大勢力の構図は次代の「蘇我馬子」と「物部守屋」に引き継がれ、用明天皇崩御後に後継者をめぐる争いが起こった。
 蘇我馬子は、物部氏に擁立されていた穴穂部皇子を暗殺し、続く戦いで物部守屋を討ち滅ぼし、泊瀬部皇子を即位させ「崇峻天皇」とした。さらに崇峻天皇と対立すると、蘇我馬子は、天皇を暗殺させる。馬子は、初の女帝「推古天皇」を就任させるも、その推古天皇にも葛城県の割譲を要求するなど、思うままに振る舞うようになった。
 推古天皇34(626)年、馬子が死去すると馬子の子「蘇我蝦夷」が跡を継ぐが、馬子の弟で叔父の「境部摩理勢」との対立が生まれ、推古天皇36(628)年、推古天皇が崩御すると皇位継承者の選定で意見が対立、山背大兄王を推薦した叔父 境部摩理勢を殺害し、蝦夷は田村皇子を「舒明天皇」として即位させた。
 蘇我蝦夷は、山背大兄王の私民を使役して自らの墓所を作らせたり、子である「蘇我入鹿」に勝手に紫冠を授けて大臣とするなど、自らを大王に擬する行為があったという。さらに入鹿は、皇極天皇2(643)年、聖徳太子の継嗣「山背大兄王」を襲って一族を滅亡させるなど、蘇我氏一族の横暴が際立った。
 皇極天皇4(645)年7月10日、三韓(新羅・百済・高句麗)使者による進貢の儀式が大極殿で行われ、儀式に出た蘇我入鹿は、潜んでいた「中大兄皇子」(天智天皇)と「中臣鎌足」らに討ち取られ、入鹿の死を知った蝦夷も館に火をかけ自害した(乙巳の変)。
 皇極天皇は軽皇子(孝徳天皇)へ譲位し、中大兄皇子は皇太子に立てられ、内臣となった中臣鎌足らとともに、後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。以後蘇我氏は、かつての勢いは戻らないまま歴史の表舞台から姿を消す事になる。
 これらの歴史は、日本書紀など天智・天武の治世以降に編纂された史書の記述に基づいており、皇統に滅ぼされた蘇我氏は、意図的に悪者にされている点に留意しなければならない。事績だけから見れば、蘇我氏は半島事情に詳しく、当時の先端技術や大陸の仏教をいち早く取り入れた革新派であり、開明的な政策を展開したとも考えられる。
(この時期の出来事)
*622.2.22/ 聖徳太子(49)没。
*623.3.-/ 聖徳太子追善供養のため、太子妃が鞍作鳥に法隆寺金堂の金銅釈迦三尊像をつくらせる。
*630.8.5/ 犬上御田鍬・恵日らを唐に派遣する(第1次遣唐使)。
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