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教団の歴史

教団の歴史

英雄たちの選択「信長最大の敵・大坂本願寺~歴史を変えた11年戦争~」

2022-02-02

信長を最も苦しめた大坂本願寺。本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が激突した木津川口の戦いの真相、そして信長・本願寺11年戦争が歴史に残した驚くべき結末に迫る。

戦国の覇者・織田信長を最も苦しめた敵とされる大坂本願寺。顕如率いる各地の門徒たちと信長との戦いは泥沼化し、11年の長期に及んだ。最大の分岐点となったのが、二度にわたる「木津川口の戦い」だ。本願寺を支援し、兵糧を送っていた毛利水軍と織田水軍が激突した海戦である。信長の鉄甲船は実在したのか?新発見の絵図から読み解く両軍の海の戦略とは?そして信長と本願寺の戦いが歴史に残した驚くべき結末とは?

【ゲスト】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,共立女子大学教授…堀新,哲学者・津田塾大学 教授…萱野稔人,【キャスター】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊

大阪は、商いの街、船場の商人をはじめとして、商業都市として発展していきましたが、同時に古くから真宗伝道の拠点でありました。

大坂の町は、本願寺第8代蓮如上人が、明応5年(1496)、「摂津国東成郡生玉之庄内大坂」、今の大阪城あたりに一宇の坊舎を建立されたことに始まります。天文元年(1532)、畿内天文一揆で山科本願寺が焼失されるに至り、翌年、御真影が大坂御坊に遷座になり、大坂御坊は本山として、その後、寺内、親町六町、枝町四町余りを有す独立した自治的宗教都市の様相を呈して、大いに発展していきました。その後、戦国動乱の世、織田信長との11年にも及ぶ争い(石山合戦)の末、本願寺は紀州鷺森・貝塚・天満に寺基を移しました。そして天正19年(1591)、第11代宗主顕如上人によって、寺基が京都に移されました。 大坂の門徒は、大坂での「お念仏」の灯りをまもるため、天正19年(1591)、天満に近い「楼(ろう)の岸」に念仏の集会所を設けました。その後、慶長2年(1597)の町割改革によって、「円江(つぶらえ)、津村郷」と呼ばれていた現在の地に移転し、「津村御坊」と称するようになります。これが本願寺津村別院(北御堂・御堂さん)の始まりです。 津村別院は、真宗大谷派の難波別院(南御堂)に対して、“北御堂”と呼ばれ、その近くには、篤信な門徒たち(商人など)が集まり、「御堂さんの屋根が見える、御堂さんの鐘が聞こえる場所にのれんを張る」ことを合言葉に、船場の町を形成し、商都大阪の礎を築いていったのです。 また、門前を通る大阪を代表する道は、南北両御堂に因んで、「御堂筋」と命名され、商都大阪の流通の中心的役割を担い、今も人々に親しまれています。 また、権力に決して迎合しない大阪人気質は、大坂本願寺の寺内町形成以来、お念仏に生かされる御同朋御同行の平座の精神が受け継がれ、その精神的基盤が根底にあると言えるのではないでしょうか。
このように、大阪と本願寺・北御堂の関係は、発祥から現在に至るまで、信仰だけにとどまらず、政治・経済・社会・文化、そして生活する人々の背景と根底に、念仏の教えが息づいており、切っても切れない相関関係の上で成立、発展してきました。 しかし、大阪といえば、太閤豊臣秀吉のイメージが強く、本願寺が大きく関わってきた歴史が一般の人々に周知されているとは言い難い現状でもあります。かつては、家庭や地域の中で自然と身についていた真宗の教えも、現在は「人」のつながりが希薄となり、伝わりにくい環境ともなっています。 そこで、歴史的資料の実物や、映像・パネル・レプリカ等を用い、また大坂本願寺寺内町を復元したジオラマ展示などを行い、改めて一般の人々に本願寺、北御堂の事業や歴史等を説明する展示施設を設立し、多くの方々に歴史的な存在を通じて、共有されてきた過去を表現し、その歴史をひも解く中で、大都市「大阪」の中心で、その年代に生きた人びとの心の依りどころとして存在した本願寺(津村別院・北御堂)の歴史を表現したいと考えます。
そして、今までお寺と縁の薄かった方でも気軽に訪れていただき、「浄土真宗」とのつながりを深めていただく機縁となることを願いとしています。

谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986

2021-11-13
Facebook 八軒家かいわいマガジンさん曰く
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
谷井健三「木津川沖海戦想像図」1986
戦国時代、軍船技術は急速に発達し、近代海軍の戦艦に相当する攻防力に富む軍船安宅船を生んだ。500石から2000石積と大小はあったが、船体上部に堅木の装甲板を張りつめた総矢倉を設け、兵士と漕手を守るとともに多数の狭間から鉄砲や弓で攻撃できるのを特徴とした。上の海戦想像図は天正6年(1578)、石山本願を救援する毛利水軍を木津川沖で壊滅させた信長の大安宅船。鉄板の装甲は天正4年の難波沖海戦の際、毛利水軍の焼夷弾、焙烙で打撃をうけた対策として考えられ、これにより毛利水軍の攻撃は通ぜず、大敗した(石井謙治)。『週刊朝日百科日本の歴史27』より=図も。

本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。しかし、これを直接的に示している同時代の史料は『多門院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。第二次木津川口の戦いについて詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」とあるだけで装甲の有無には触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、鉄張り装甲を持っていたのか、という点が疑問となっている(ウィキペディア)。

「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)

2021-11-13
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天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
「石山合戦関係図」(『新修大阪市史第2巻』掲載の図を元に作成)
織田信長と摂津国石山本願寺に拠る本願寺第 11世顕如との間で元亀1 (1570) 年から天正8 (80) 年までの 11年間にわたって続けられた合戦。室町時代中期以降,浄土真宗 (一向宗) 教団の伸張は著しく,一向一揆は,領主,守護大名などに対する戦いを広範囲に展開した。本願寺第 10世証如は,第8世蓮如の建立した石山道場を同宗の本寺とし,寺域を広げ,防備を固め,門前に新興商工業者を集め,やがて同寺は一大領主勢力に発展した。浅井,朝倉両氏を討って全国統一を目指す織田信長は元亀1年,本願寺打倒に立上がり,本願寺はその興廃をかけて全国門徒を対信長戦に駆りたてた。以来,天正8年3月,顕如が信長と和して本願寺を信長に渡し,同年4月,紀伊雑賀 (さいが) に退くまで合戦は続けられた。この間,信長は一向宗門徒を近江,長島,雑賀に討ち,浅井,朝倉両氏を滅ぼし,武田氏を長篠に討ち,さらに伊勢に北畠氏を滅ぼし,一方,中国征伐の軍を起すなど,本願寺を孤立させていった。石山本願寺の降伏は,信長の畿内および周辺に対する政権の確立を意味する(百科事典マイペディア「石山合戦」)。

なにわ歴博講座 大阪の戦国を考える 戦国期の本願寺教団と摂津国

2022-09-08

なにわ歴博講座

大阪の戦国を考える

戦国期の本願寺教団と摂津国

 

戦国時代の本願寺教団にとって摂津国は地域を統括する御坊や本山(大坂本願寺)が置かれたことから、重要拠点のひとつだったことはまちがいありません。その御坊や本山を間近で支えたのが摂津の寺院や門徒衆でした。本講座では彼らが果たした役割と、本願寺教団内における位置づけについて探ることにします。


講  師:大澤研一(当館館長)


日  時:令和4年10月1日(日)13:30~15:00(受付13:00)

会  場:大阪歴史博物館 4階 講堂

定  員:180名

申込方法:事前申込制(先着順)

参 加 費: 500円 手続き完了後、お客様の事情によるキャンセル・払い戻しはできません。

分岐点について

2021-11-13
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天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
改訂【かいわいの時】
天正六年(1578)十一月六日:毛利水軍、木津沖で信長配下の九鬼嘉隆の水軍に敗れる(大阪市史編纂所)
大敗を喫した木津川口海戦から二年、信長は伊勢の九鬼嘉隆に命じて大型の軍船六艘の建造をすすめていました。この軍船には大砲三門が備えられ、火矢や弾丸をはね返す鉄板の装甲が施されていました。長さ十八間(三十二㍍)、幅六(十一㍍)の巨大船。この「鉄の船」六艘に大型軍船一艘を加えた船団で信長は再度木津川口を奪回。海上を封鎖します。これが天正六年七月。その後、荒木村重が本願寺側に寝返って信長は足元を掬われます。朝廷による斡旋もあり、信長と顕如の間で和睦の動きが出てきました。そんな状況の中、同年十一月六日、再び毛利水軍六百艘が木津川沖に出現、兵糧を本願寺に搬入しようとします。これを迎え撃ったのが前述の九鬼嘉隆率いる巨大な鉄船です。毛利軍の火矢をもろともせず、近寄せるだけ近寄せておいて大砲を放ちます。さすがの毛利水軍もこれにはたまらず敗走、信長の鉄の船の大勝利に終わります。この勝利で自信を得た信長は和睦策を撤回。以降、本願寺は海上からの輸送路を絶たれてしまうことになります(平野)。
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