本文へ移動

教団の歴史

教団の歴史

石山合戦配陣図

2021-04-04
和歌山県立博物館

和歌山市
昭和17年/1942年
一幅
和歌山市湊本町3丁目2番地
和歌山市立博物館

石山合戦における本願寺と織田信長との軍勢の配置図。大阪定専坊所蔵の合戦図を昭和17年に写したもの。
画面には「鈴木孫市」など紀州勢の名称も見える。


錦絵 石山本願寺合戦

2021-04-04
和歌山県立博物館
和歌山市
明治16年/1883年
大判三枚続
和歌山市湊本町3丁目2番地
和歌山市立博物館

織田信長と大坂本願寺が戦った石山合戦を描いた錦絵。
合戦は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで続き、紀州の雑賀衆も参戦した。
画面には「鈴木孫一」など紀州勢の名称も見える。
太閤記 石山大合戦之図
楊洲周延 (1838~1912)
ようしゅうちかのぶ
和歌山市
明治時代
大判三枚続
和歌山市湊本町3-2
和歌山市立博物館

織田信長と大坂本願寺が戦った石山合戦を描いた錦絵。合戦は元亀元年(1570)から天正8年(1580)まで続き、紀州の雑賀衆も参戦した。

教如像

2021-04-04
教如像
江戸時代前期
紙本墨書
縦95.4cm,横39.5cm
1幅

 浄土真宗大谷派本願寺第12世教如(1558~1614)は、本願寺第11世顕如(1543~92)の長子として生まれた。
天正8年(1580)、石山本願寺と織田信長が戦った石山合戦の和議が成立した際に、顕如が紀州・鷺森(現・和歌山市)に退去したのに対して、教如は石山に籠城して抗戦を続けた。
5か月のちに教如も紀州に退くが、この行動の違いが後の本願寺分裂の遠因となった。
教如の画像としては、大阪・延徳寺本などが知られるが、本図もそれに続く時期のものと思われる。

真宗王国「御影」が礎、 教如、北陸に大量授与!大桑斉さん(大谷大名誉教授)発表 (2020.7)

2021-04-04
 大桑さんは、宗祖の親鸞、父顕如の御影の大量発給で道場的な場を寺院として再編し、現在の真宗教団の基礎をつくったとみている。これらの成果は遺作となった著書、本願寺 教如教団形成史論(法蔵館)に発表した。
能美郡四講に授与された宗祖の親鸞(1173~1263)の御影、いずれも小松教区提供
1595年に教如から能美郡(のみのごおり)四講(しこう)に授与された父顕如(1543~1592)の御影。能美郡四講は224の村で構成する講組織で現在の真宗大谷派小松教区に当たる。
 戦国時代に天下統一を目指す織田信長に徹底抗戦し、その後、東本願寺(浄土真宗)を開いた教如(1558~1614)。
教如が歴代宗主の肖像画である御影(ごえい)を大量に全国の寺院に授与していたことが、
今年4月に82歳で亡くなった大谷大名誉教授、大桑斉さん(金沢市出身)の研究で分かった。
確認した御影は386点。授与先は「真宗王国」といわれる北陸が多かった。

絹本著色親鸞聖人像 附 裏書

2021-04-04
画面下半に、右方を見据え両手で数珠を爪繰り牀座に坐す、浄土真宗の宗祖たる親鸞聖人が、細く肥痩のないなめらかな描線と、鮮やかな彩色で描き出されている。

福岡県
室町/1572
画面下半に、右方を見据え両手で数珠を爪繰り牀座に坐す、浄土真宗の宗祖たる親鸞聖人が、細く肥痩のないなめらかな描線と、鮮やかな彩色で描き出されている。
絵絹は横折、浮き、上…
画面法量 縦102.9cm、横45.5cm
一幅 附一幅
福岡県行橋市大字1802
行橋市指定
指定年月日:20180704
宗教法人 浄喜寺
有形文化財(美術工芸品)
浄喜寺は守田山雲龍院と号す真宗大谷派の寺院である。
この親鸞聖人像を所蔵する浄喜寺は守田山雲龍院と号す真宗大谷派の寺院である。
浄喜寺にある寺号書下の裏書によって、明応4年(1495)に村上慶善(良成)が本願寺第九世実如から寺号を得て本願寺の直末寺として創建されたことがわかる。
豊前国を代表する真宗寺院であり、天明6年(1786)の『小倉藩寺院聚録』によれば小倉藩内に三十余の末寺を擁する有力寺院であった。
元亀3年は石山合戦の最中で、本願寺と浄喜寺の関係を確認するために製作されたと考えられる。
TOPへ戻る