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教団の歴史

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大谷派宗学史の一齣 易行院法海のことども 『大谷學報』第69巻 第4号-7

2025-10-31
細 川 行 信 (大谷大学教授 真宗学)

本願寺が東西に分派し、それぞれに宗学が興された時、いわゆる後の大谷派にあっては、慶長十年(一六〇五)大和長福寺の慶秀が『正信偈私記』二巻を上梓したのに始まり、多くの書を著わ1レオ一」ゞカ、ついで洛陽誓源寺の圓智や同長覚寺の噫慶、恵明院といわれた如晴(琢如の息)などが活躍した事は、こんにち学事史として一応は明らかになっている。しかし、それは本山・本願寺を中心とした研究で、地方における研究が随分と残されているようである。それ故、これまで大谷派地方寺院の調査をした中て、先年たまたま九州の日田長福寺の蔵書整理を六人がかり 沙加戸弘・後小路薫・水谷英順・土門政和・南木仁の五氏に協力・ー・ーにて、法宝物と全書籍を調査するうち、法海(一七六八ー一八三四) の生育した背景を少しづっ知ることが出来た。そして、この日田の同し町内に法海より十四年おくれて廣瀬淡窓(一七八二ー一八五六) が誕生し、後に一世を風靡した咸宜園を開き、九州はもとより全国各地から本願寺の僧侶が数多く入門したことは、さらに宗学史の研究上よりも注目しなければならない。

さて、ここで採り上げた長福寺蔵書は、大分県日田市豆田町の長福寺経蔵に収蔵する聖教類で、まず全部を本堂に移し、私たち六人が分担して一点づっ整理・調査した。そして、作製した蔵書目録を中心に報告したいが、実は整理に当た0ては、大きく宗乗・余乗・外学、長福寺歴代関係文献、それに尊号・御影類を分類整理して、書名・刊写・装幀・法量などを確かめながら点検して作業を進めた。而して当初、住職の武内一美氏より黄蘖版『大蔵経』のある事は、あらかしめ承っていたものの、それ以外は全く分らなかったことと、調査の目安になる目録が見つからなかった為、白紙で蔵書目録づくりに専念し、ようやく目録を完成することが出来た。すなわち、宗乗一三七点、余乗三六九点、外学一四二点、長福寺関係文献二九八点、そして尊号・御影類が一七点で、総計一〇五三点であった。

このうち、尊号・御影類より長福寺の開創をうかがうに、まず実如より下付された方便法身尊形に注目しなければならない。すなわち、その尊像の裏書には「大谷本願寺釋實如」につづいて、「大永四年九月十五 (日)興正寺門徒端坊下豊後国日田郡刃連郷堀田村」と「願主釋定正」とあるが、寺名は書かれていない。

したがって、 同寺開創以前としなければならないが、 「日田」 への教線進展を知る上で留意される。次に本願寺の分派以後、宣如より下付の親驚聖人御影は、その裏書に「大谷本願寺釋宣如(花押) 寛永元幵暦七月廿一日 光徳寺下豊後国日田郡夜明郷永山町長福寺常住物也 願主釋安誓」と載せるので、光徳寺すなわち現在の西国東郡真玉町臼野の光徳寺(本願寺派)ーーこの寺は、文明十一年(一四八六)蓮如の直弟・浄實の開創と伝え、九州における真宗最初の寺といわれるが、その配下で寛永元年(一六二四)の当時すでに長福寺と名のっていた事と、そのころ同じ日田郡でも夜明郷にあり、まだ現在の豆田町へ移っていない。今その移転を示す資料は教如上人御影の裏書で、「本願寺釋宣如(花押) 慶安第五暮初夏五日書之 豊後国日高郡豆田町長福寺常住物也願主釋了安 寄進釋宗壽」とあって、現在の地名が誌されている。ところで、長福寺歴代の行実を載せる『長福寺開基代々之事』をみると、最初に「開基宗心」とあり、准如より慶長十二年、方便法身尊形を興正寺門徒端坊下筑前国下座郡三木村長福寺常住物として宗心に下付した旨の記録があるので、もと西本願寺に属し、興正寺門徒端坊下として始まったものと推定される。而して、日田へ移って安誓・誓元・了安・了恵・邃印・道印・休印・通元・普門とつづく。 このうち、第九代住職の通元の時、経蔵が再建された

と伝える。もっとも、通元の世代については、その後、同寺の系譜では日田長福寺の初代を宗栄、第二代を体了として、安誓を第三代に数えるので、通元は第十代とする。この通元は慶円寺嵩範の子であ。たが、体印の嗣として享保十四年に入寺し、十三年もつばら『易行品』の研究に打ちこみ、天明六年(一七八六)七十四歳で亡くなった。今も安永八年版の『読易行品』をはしめ、『読易行品題釈分』や『読易行品所引要文』、 それに『通元法相録』な

どによって、その研鑽の程がうかがわれる。この通元の後を継いだ第十一代の普明は、 ひろく宝月の名で知られる。その宝月は豊後府中の永福寺より入寺し、通元に随って学び、旺盛な研究活動は宝暦九年(一七六〇)に舛屋伊左衛門、同しく丈右衛門による学寮寄進となったが、 これは本山の宗学興隆に相応して、 いわゆ地方の宗学研鑽に尽くした功績は大きい。それは、今も寺の境内に残る当時の学寮より、かっての面影を偲ぶことが出来る。すなわち、その学寮には後に廣瀬淡窓も文化二年(一八〇五) 二十四歳の時、 ここを暫く借り受け在住したが、当時の事について淡窓は「長福寺法憧上人は、余が幼時句讀を授かりし人なり。其父寶月上人も幼時より數々陪遊せり。法幢の養子東海は此度より相識となれり。長福寺内徳善寺素龍は、俳諧を好み、伯父先孝と交り厚し。余も亦幼時より相識れり。学寮に寓するに及んで萬事余が為に周旋す」(『懐旧楼筆記』 一一) といい、淡窓と法憧・東海との関係が知られる。このことは、更に法憧の弟・法海が後に古城の正行寺に入った大含(一七七三ー一八五〇)と共に咸宜園で淡窓と交遊した事とも関わるものであろう。

さて、宝月 (一七三七ー一八〇五)については、その宗学研究上の業績が『続真宗大系』第二十巻所収の「大谷派学事史略年表」に詳しく年次別に挙げられている。それによると、明和七年(宝月の三四歳) に『浄土和讃憶念記』四巻を撰述、安永三年(三八歳) に筑後法圓寺で『可弥陀経』を開席、同しく筑後の圓應寺で『般舟三味経』を開筵、また『阿弥陀経執持記』四巻を草す。安永八年(四三歳)に肥後延壽寺で『論註』を開筵、『論註義決』五巻を草す。翌安永九年(四四歳) には『安楽集義決』五巻を草す。天明一一年(四六歳)擬講となり、秋講に『遊心安楽集』を講した。

天明六年(五〇歳) に『安楽集正錯録膏盲』 一巻を撰す。寛政五年(五七歳) に『正像末和讃憶念鈔』二巻を撰述する事などが知られる。そして、今ここに挙げた著述いずれも経蔵に保存されるが、 さらに『往生要集玄談』 一冊、 『浄土真宗七高僧伝』 一冊、『管贈相国公護法録』二冊、『香光文集』 一冊、『香光詩集』 一冊などをも収蔵する。即ち、 これらによって、その研学のほどが詳しく知られるが、特に義父通元の薫陶をうけ、京都に遊んで随慧 (開轍院) の門下となり、安永九年(一七八〇)寮司にて『易行品』を副講し、通元の学説を発揚し (『大谷派学事史』)浄土真実論と信行不離論を説いた(廣瀬南雄『真宗学史稿』五〇ー五二頁参照)。 かくて『読易行品』を開版したが、 それは全く宝月の尽力によるものであった。而して同しく安永九年秋、初代講師の慧空 (一六四四ー一七二一) が宗祖の『教行証文類』の中から宗祖御自釈の文だけを抄出した『教行信証御自釈』を、平安の了行、豊後の宝月、 賀州の宣明、 播州の慧見、 豊前の道瓊によって校訂されたことが『御自釈』の版本奥書より知られる。 これは、宗学研鑽の上で留意すべき事で、その少し前に豊後光西寺の圓爾が『六要鈔会本』を編纂した事とも関連するようである。というのは、『豊絵詩史』に「與ニ寶月師一同時有一一府内僧圓爾「住ニ光西寺「其父某有ニ六要鈔會本之本之擧「圓爾 一其志「 纂為ニ十巻「 弟子法專寺全鳳梓以行レ世、 大益二後學一」とあり、 その完成は宝暦十年(一七六〇) で、 これは香月院深勵(一七四九ー・一八一七) の時に宗学最盛期を迎える上で注目されよう。

ところで、宝月には四男四女の八人の子供がある。このうち、長男の貞印は早世したようであり、次の法潼が第十二代となり、第十三代は末子・ジツの婿として迎えた東海が継いだが、経蔵には法潼(一七五九ー一八一三)と東海(一七八〇ー一八六七) の書写本を多く伝える。 すなわち、 法幢には深勵の講義を写した『選択集法幢』三冊、随慧の講説『高僧和讃法憧』 一冊、それに文化二年の『末法灯明記法憧』 一冊、年時不詳の『歎異鈔法幢』二冊、ざらに同名の『法幢聖印蔵』が四点(いずれも一冊)ありその中には『蓮如上人御絵伝指図』を内容とするものを含み、他に『帰命本願訣』(宝厳撰)・『義林集決択記』(智周撰)など法幢の書写本が数点ある。なお、法幢より二十一歳下の東海もまた、『因明入正理論』 一冊、『因明有法自相四箇秘事』一冊など因明に関するもの、さらに『法相義八識大旨略講述』 一冊(文政七年)・『優礼聖鈔』 一冊、 『御本書記』 一冊などは「東海記」 と記されるもので、その他にも東海の書写と思われる書もあり、八十八歳まで長命しただけに蔵書の拡充にも努めたと窺われる。こうした父宝月と兄法憧の好学・研究的な環境・背景の中で、後に東本願寺第八代の講師となった易行院法海がうまれた。その法海の誕生は明和五年。法憧に後れること九年で、月蔵と称し、日南・橘洲とも号した。人となり謹厳にして気宇深遠、強記博覧であったというが、幼時より父宝月に従って修学し、高倉に入っては曾って父も師事した随慈に仕えて宗学を究めた。また余乗にも精通し、特に倶舎・唯識を得意としたといい、うち『倶舎論』に関するもの三点を伝え、他に法海の所説を伝える書は、長福寺には『阿弥陀経』講義のみしかない。それは、早く肥後八代の光徳寺に入寺したことと、文化二年(一八〇五) 三十八歳以後ほとんど京都を中心に東奔西走、特に安政十一年(一八二八)六十一歳で講師職を奉してより各地の異義調理に出かけ、寺に落ち着く暇はなかったようである。しかし、そのなかでも詩文に関する造詣が深く、今も蔵書目録中の外学部に『白氏文集』 三十四冊、 『二十一史文抄』四十一冊、『山谷詩集』二十一冊、『寂照堂谷響集』十冊などをはしめ、数多くの詩集を所蔵し、特に兄の法幢が『詩経』を好くし、それが淡窓をして詩情による育英ともなった事からも、長福寺が京都から遠く離れた日田にあって、地方の学事振興・普及に果した役割は大きく、 こうした伝統の中で生まれ育った法海の論考、それは祖父通元・父宝月の研究を踏まえて進められたこと。即ち、それが『倶舎論講義』十五巻、『唯識述記録』六巻、『易行品筌蹄』五巻、『末灯鈔壬申記』四巻、『正信偈壬申記』七巻、『尊号真像銘文録』四巻、『御伝鈔講義録』一一巻、『論註講義』四巻、『三経往生文類煥朦』一一巻、『往生要集講記』十五巻、『唯信鈔文意講讃』一巻、『正信偈聞記』四巻、『礼讃専雑得失記』 一巻、『略文類壬辰録』五巻など、多くの典籍を遺して天保五年八月六日、講師寮で六十七年の生涯を閉した。


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