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大谷派の取り組み

真宗大谷派の取り組みについて

◎足尾鉱毒問題/川俣事件

2022-01-02
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1900(m33)年】-1
◎足尾鉱毒問題/川俣事件
*1900.2.13/ 足尾銅山の鉱毒被害民が、政府に陳情のため上京の途中、川俣で警官と衝突し、負傷者および逮捕者が多数出る。(川俣事件)
*1900.2.15/ 田中正造が国会で、足尾鉱毒被害民の請願運動弾圧に抗議の質問をし、足尾鉱毒被害者救済決議案を提出する。田中はこの日、憲政本党を脱党する。
 1900(明33)年2月13日、足尾銅山の鉱毒被害を訴える農民らが、政府に陳情のため上京の途中、群馬県の川俣で警官と衝突、流血の惨事となり農民多数が逮捕された。これが、当時は兇徒聚集事件と呼ばれた「川俣事件」である。事件では農民67名が逮捕されたが、1902(明35)年12月25日、起訴無効という判決が下り、実質的に全員不起訴という形となった。
 「田中正造」はその日、国会で足尾鉱毒問題に関する質問を行っていたが、質問後に初めて事件を知ると、2日後に再度事件について質問を行った。被害陳情(押出し)の決行日は、田中の国会質問日があえて選ばれたものであった。この時の演説が、「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説と言われる。2日後の演説の途中では、田中は当時所属していた憲政本党を離党した。
 足尾銅山は江戸時代から採掘されていたが、幕末にはほぼ廃山となっていた。しかし明治維新後、民間に払い下げられると、古河市兵衛の経営で採鉱事業の近代化を進め、足尾銅山は日本最大の鉱山となった。当時銅は日本の主要輸出品のひとつの重要金属だったが、精錬時の排煙、精製時の鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオン)は、栃木県・群馬県など北関東一帯の環境に多大な被害をもたらすこととなった。
 足尾鉱毒問題は、わが国最初の公害事件とされ、採掘精錬にともなう鉱毒ガスやそれによる酸性雨により、足尾町近辺の山は禿山となり、木を失い土壌を喪失した山は、次々と崩れていった。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積するため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、台風などによる洪水の原因となった。
 鉱毒による被害はまず、1878(明11)年からの渡良瀬川の鮎の大量死として表面化した。やがて、渡良瀬川から取水する田園や洪水で足尾から流れた土砂が堆積した田園などで、稲が立ち枯れるなど農業の被害が出るようになる。この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、下流の江戸川や利根川にまで及び、その被害範囲は確定しがたいほどである。
 明治初期から平成に至るまで1世紀もの長期におよぶ公害であり、河川の水や流された土壌により、関東一帯に及ぶ広範な地域に被害を及ぼした。さらにその原因が、排煙、鉱毒ガスの二酸化硫黄や、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオン)など多岐にわたる有害物質であり、農業被害・人的被害との因果関係が特定しがたい。のちの水俣病における有機水銀や、イタイイタイ病のカドミニウムのような因果関係が曖昧なため、死亡者や障害者の人数も推定値の域を出ない。
 渡良瀬川流域出身の国会議員田中正造は、たびたび国会で質問するも政府は取り合わず、積極的に鉱毒対策を行わず、むしろ鉱毒の記録集を発売禁止にするなど、言論封殺で対応した。田中は衆議院議員として、単独で何度も議会で取り上げ、政府を追及した。
 議員を辞職後も、鉱毒被害を訴える活動を続け、明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行おうとした(天皇直訴事件)。途中で取り押さえられて直訴そのものは失敗したが、直訴状の内容は知れわたり、足尾鉱毒の問題は一般にも知られるようになった。政府は裁判で話題が大きくなるのを避け、拘束された田中は即日釈放されたという。
 1973(昭48)年までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。その間、治水名目のダム建設など、国によって幾つかの対策がなされ、鉱山運営の古河鉱業側も、明確な責任を示さないまま、和解示談などで部分的に補償するなど、なし崩し的な対策しかなされないまま放置されたが、やっとのことで、1972(昭47)年3月31日、被害者団体は、加害者を古河鉱業と断定、加害責任を認めさせる調停を成立させた。
(この年の出来事)
*1900.3.10/ 集会及び政社法にかえて、「治安警察法」が公布される。
*1900.4.14/ パリ万国博覧会が開幕する。
*1900.4.-/ 与謝野鉄幹が詩歌雑誌「明星」を創刊し、浪漫主義をうたう。
*1900.9.14/ 津田梅子が麹町に女子英学塾を開く。
*1900.9.15/ 立憲政友会結成式が帝国ホテルで開かれる。総裁は伊藤博文、所属議員は152人。

◎アイヌ人に対する「北海道旧土人保護法」

2022-01-03
Facebook 佐々木信雄さん曰く
【19th Century Chronicle 1899(m32)年】-1
◎アイヌ人に対する「北海道旧土人保護法」
*1899.3.2/ 「北海道旧土人保護法」が公布される。アイヌ救済をうたい農耕民化を推進するが、独自の入墨・耳輪などの風習を禁じるなど、大和民族への同化を強いるものだった。
 「北海道旧土人保護法」は、北海道アイヌを一般の日本国民と分けることを定めた(戸籍の分離)。さらに、アイヌの土地所有権の制限(不動産の相続権の停止など)、アイヌ語の廃止など、日本への同化政策が基軸となっていた。アイヌを「北海道旧土人」と呼び、アイヌを日本人から保護するという大義名分で、土地、医薬品、埋葬料、授業料などを供与すると定めたが、供与に要する費用にはアイヌの共有財産等からの収益を用いることとした。
 先住民のアイヌが住む土地や、共有していた漁業・狩猟・耕作などの権利、共有財産などの専有権は没収し、北海道庁の管理の下で、公売によって日本人に売却された。そしてアイヌ人には、自由な土地売買や小作権設定などが禁止された。
 この法律にもとづいて、アイヌの財産の収奪や、文化的同化政策が推進された。具体的には、「1.アイヌの土地の没収、2.収入源である漁業・狩猟の禁止、3.アイヌ固有の習慣風習の禁止、4.日本語使用の義務、5.日本風氏名への改名による戸籍への編入」などが強制された。
 この差別的な法律は、終戦後にも放置されたまま存続した。1997(平9)年になってやっと、アイヌ民族初の国会議員萱野茂らの尽力で、「アイヌ文化振興法」(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)が国会で全会一致可決され、その施行に伴い北海道旧土人保護法は廃止された。
 「アイヌ」とは、もともとアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、精霊的自然を示す「カムイ」に対する概念だったとされる。それが大和民族(和人)との交易など接触がすすむにつれて、自民族の呼称として意識的に使われだした。さらに、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間という意味の「ウタリ」は、より積極的に誇りを込めた文化的アイデンティティを主張する、アイヌ人自身の民族の呼称として用いられる。
 一方で大和民族(和人)の側からは、古来からアイヌのことを「蝦夷(えみし・えぞ)」・「土人」などと呼び、東北一帯に住む先住民(和人と混交したアイヌ)と北海道のそれ(純然たるアイヌ)とは、明確な区別がなかった。エミシはエビスに通じ、漠然と「東北一帯に住む異人・蛮族」といったニュアンスで使われたとされる。中世になると、アイヌとの接触も増え、具体的にアイヌ人を指す言葉として「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるようになり、彼らの住む北海道は「蝦夷地(えぞち)」とされた。
 アイヌの信仰は、自然界のあらゆる事物に霊魂が宿るとする、ある種の汎神論に分類される。なかでも熊は神の化身とされ、熊の魂を天界に送り返す儀式「イオマンテ」などが有名である。
 また、アイヌは筆記文化を持たず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。 そのためアイヌの歴史や生活文化の解明は困難を極めたが、「金田一京助」による、口承文芸の「ユーカラ(叙事詩)」の研究などから、少しずつ明らかにされつつある。
(この年の出来事)
*1899.2.7/ 改正中学校令・実業学校令が公布、翌8日には高等女学校令が公布されて、中等教育体制が整う。
*1899.2.27/ 移民斡旋業者の森岡移民会社が募集した810人が、日本郵船の「佐倉丸」でペルーへ出発する。(わが国初の南米移民)
*1899.7.10/ 明治天皇が東京帝国大学の卒業式で、成績優秀者に銀時計を授与する。(恩賜の銀時計の始まり)
*1899.7.21/ 布引丸が、フィリピン独立運動派に武器弾薬等を輸送する途中、上海沖で難破する。
*1899.3.2/ 「北海道旧土人保護法」が公布される。
アイヌは筆記文化を持たず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。

「洛中大火夢物語」 木版地図

2021-06-15
 元治元年(1864年)7月19日京都大火の模様。
禁門の変(蛤御門の変)に伴い、長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)付近と境町御所付近から出火。
Facebook牧野直人さん曰く
先祖から伝わる幕末の古地図より。
 1。「洛中大火夢物語」 木版地図
 元治元年(1864年)7月19日京都大火の模様。
禁門の変(蛤御門の変)に伴い、長州藩邸(現在の京都ホテルオークラ)付近と境町御所付近から出火。火の手は現在の京都御苑の西側~南東方面の広い範囲に広がり、東本願寺、本能寺等多くの寺院も焼失した。
 京都市街の半分以上、約27000世帯、が焼失、死者は約340名が出たと云う。
 どんどん焼け、元治の大火、鉄砲焼け、ともいう。
 2。大火直前の京都の地図と思われるものもありましたので投稿致します。

東西分立について

2021-02-02
本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。
徳川家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました
Hp浄土真宗東本願寺派 本山 東本願寺より
戦国の世も終わりに近づき、顕如上人は長男教如上人と共に京都堀川の本願寺に移られました。
その翌年(1592)顕如上人が御浄土に御還りになり、教如上人が本願寺を継職され、親鸞聖人御一流の御法義はより一層諸国に弘まろうとしていました。
ところがその三年後、急に時の天下人豊臣秀吉が介入、教如上人は突如として隠居させられる事となりました。
代わりに本願寺を継職されたのは三男の准如上人というお方です。
教如上人は時流を読むのに長けた方でしたので、秀吉は、日本最大の教団に教如上人がおられるのを恐れたのです。
さらに時は流れ、いつしか天下の趨勢は徳川家康の手に落ちていました。
家康は京都七条烏丸に寺基を寄進し本願寺を建て、隠居されていた教如上人を招きました。
時の天皇陛下の勅許を賜り、教如上人はこの本願寺に入ることとなりました。
ここに本願寺は二つに分かれ、その位置から准如上人の堀川七条にある本願寺を西本願寺といい、教如上人の烏丸七条にある本願寺を東本願寺と称するようになったのです。
統治能力に優れた家康は、本願寺を東西に分かつことによって、本願寺の力を二分し、幕府の基礎を安泰ならしめたのです。
ここで私たちが覚えていなければならないことは、親鸞聖人御一流の御法義に食い違いが生じて東西に分かれたのではないということです 

石山本願寺と顕如上人

2021-02-02
顕如上人(1543〜1592)
長男教如上人(1558〜1614)
『石山合戦』

顕如上人(1543〜1592)の時代はまさに戦国時代。
織田信長が猛威を振るい各地で戦が絶えませんでした。
本願寺とていつ信長に襲われるか分からない緊迫した中で、顕如上人は布教活動をなさっておられました。
ついに本願寺にまでも信長の魔の手が伸びてきました。
信長は本願寺を見て、一方的に「ここに城を築くので本願寺を移転せよ」と顕如上人に伝えてきたのです。
当然のことながら顕如上人はこれを頑なに拒否されました。
蓮如上人が築かれた法城を再度失うことは思いもよらぬことです。
これに激怒した信長は本願寺を武力で攻めてきましたが、顕如上人は御門徒にこの事態を説明し、よくこれを防がれました。
これが歴史の教科書などでお馴染みの、十一年間の長きにわたり繰り広げられた『石山合戦』なのです。
あまりの長期にわたる戦に、時の天皇陛下が和議に立たれたので、長引けば犠牲者が多くでるばかりであると考えられた顕如上人は、信長に石山本願寺を明け渡し、紀州鷺森に移られる御決心をなさいました。
しかし、当時新門であられた長男教如上人(1558〜1614)は、信長の過去の行為から講和後の奇襲も予想されるとお考えになられて、徹底抗戦の構えを崩されませんでした。
が、再度朝廷より和議の命を受け鷺森に退かれました。
ついに蓮如上人御苦心の石山本願寺は信長の手に渡ってしまったのです。
顕如上人が鷺森を本願寺とし再興なさろうとしていた矢先、教如上人の予見通り、信長は家臣の丹羽長秀に鷺森襲撃を命じました。
しかし命運が尽きたのは、信長の方だったのです。
そのときちょうど本能寺の変が起こり、顕如上人も鷺森本願寺も難を逃れました。
その後、顕如上人は貝塚、天満と移られ、その都度本願寺の寺基も移り変わりました。
そして豊臣秀吉から京都七条堀川の地に十万余坪の土地を寄進され、顕如上人はそこに移られ、本願寺の寺基もまたその地に移されたのでした。
戦国の世も終わりに近づき天下太平の槌音が聞こえて参りましたが、この直後に思いもよらぬ出来事が起こるのです。
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