本文へ移動

親族等有縁の仏事

2025年

八代市の安楽寺前住職(当山14世坊守弟)13回忌に、副住職と共に参詣いたしました。

2025-11-19
当山から大分道を鳥栖まて走り、九州新幹線の新鳥栖駅へ至りました。
新鳥栖駅から新八代駅までは九州新幹線に乗車いたしました。
往路のさくら号は800系でした。
八代市の真宗大谷派 安楽寺本堂のお荘厳です。
お斎はイタリアンのオモテナシを賜りました。
帰路です。
JR在来線の八代駅の遠景です。
復路のさくら号は、新大阪行きにJR西日本700系でした。
夕餉を新鳥栖駅で買い求めました。

当山14世弟、修学院釋大壽の一周忌が勤めされました。

2025-01-19
修学院釋大壽が、函館大谷短期大学・高等学校期に附けた【紗綾形(さやがた)に葉牡丹白紋】畳袈裟です。
吉祥紋様の紗綾形(さやがた)について

着物の柄に込められた意味って?文様50種類を一挙解説 | 伝統工芸品ならBECOS

梵語の卍を菱形に変形して複雑につなぎ合わせた文様です。

紗綾形という名称は、室町から桃山時代に明から渡ってきた紗綾と呼ばれる絹地に用いられていたことから由来しており、別名「卍崩し」「卍繋ぎ」「雷門繋ぎ」「菱万字」とも呼ばれます。

不断長久の意味を持ち、家の繁栄や長寿を願う文様です。紗綾形に菊と欄を組み合わせた「本紋」は、綸子の着物の柄(地紋)として多用されています。

当山13世の二男、当山14世の弟、修学院釋大壽が本日、当山へ帰山し、本堂にて一周忌が、当代を導師、副住職を迦陀師、衆徒を鏧役として勤められました。
その後に、遺骨が配偶者と朋友が安置されている寂静閣(当山納骨堂)に納骨されました。
尊前には、故人が函館大谷短期大学教授・高等学校校長期に附けた畳袈裟を供えて、当代は故人の祖父愛用の真宗大谷派学士五条袈裟、副住職は故人叔父朋友が採納した准上座一等の五条袈裟、衆徒は故人に敬意を表し学師五条袈裟をつけて読経いたしました。
本日、僧分が附けた五条袈裟です。
当山12世が附けた学師五条袈裟(桧垣に葉牡丹白紋)です。
法要座次、准上座一等 葉桜色八葉牡丹紋『平金紋と白紋』陰陽紋入交の五条袈裟です。
当代(15世)の学師五条袈裟です。

組内の前坊守様の門徒層へ参勤いたしました。

2025-01-17
今回の式次第です。
出仕の衣体は、莟菊色裳附、紫色地黄紋八藤五条袈裟、薄海松緯白八藤白大紋切袴といたしました。

2024年

受賞のご挨拶とご報告がございました。

2024-12-13
組内の坊守様が藍綬褒章を受賞なさいました。
ボンボニエールです!!
金平糖です。
燕の逸品です。

うきは市での親族寺院年回へ参詣いたしました。

2024-10-14
お斎はお弁当仕様でした。

あれから更に1年が経ちました。

2024-05-27
facebook 小栗洋慶 (洋司)さん曰く
稱壽山妙満寺第21世住職
吟行院釋教雄師
長岡教雄師
令和4(2022)年5月26日ご往生
5月29日(日)18時通夜。
5月30日(月)14時密葬。
6月15日(水)14時門徒葬。
実家の檀那寺、私の所属寺妙満寺第21世住職長岡教雄師です。
私の法名、いまの実名にしていますが【洋慶】の名付け親です。私に僧侶になりなさいと勧めてくれたお方です。僧侶としての師父と慕っています。私は両祖父が早くに亡くなっていて祖父を知りませんので、決して口にはしませんが祖父のように慕っています。
と以前書いたのですが、コロナ禍でお見舞いも伺えず… 最後にお話しできたのは何年前でしょうか。
いろんな思い出がポロポロと溢れてきて… ナモアミダブツ
高校1年生の時、得度考査(僧侶になるための研修を受ける資格試験)を受けさせてくれました。学校が休みの時にお寺に行き、お勤めなど教えてもらって、大分教区別府別院にいざ試験です〜 その道中だったか、百貨店のいいお店の昼食を食べさせてくれた時だったか、
「小栗くんよ、大物になろうとおもうことはない。本物になりなさい」
とおっしゃってくれたのです。
高校1年生地方の百貨店トキハ デパートで見たこともないお昼ご飯をいただきながら耳にしたこの言葉は忘れることなくずっと温めて持ってきました。
得度を終えた年の所属寺妙満寺の御正忌報恩講の大逮夜、後夜のお勤めにご法話せよと言われて、私は、「得度に行く時ご院家さんは【大物になろうとするな、本物になれ】とおっしゃってくれたのです、法名の名付け親はご院家さん、洋慶ー太平洋の海の水よりも大きなご恩慶んでもよろこびつくせぬご恩をご院家さん、妙満寺、御開山さまからいただいております」などと申しました。
ご本人は「ワシはあんなこと言うたか?」と仰せでした。
訃報に接し思うのは、偉そうに言いながら御恩知らずの横着者が、なんまんだぶに出遇わせてもらえた、嗚呼…ご院家さん。なんまんだぶなんまんだぶなんまんだぶ
所属寺前住職3回忌法要でした〜 ナンマンダブナマンダブ
facebook 小栗洋慶さんより
ご導師は明蓮寺住職(浄土真宗本願寺派)様です。

もう急行電車とは呼ばれなくなりました。

2024-03-15
特急車両は、このカラーリングでした!!
2024.03.15、春のダイヤ改正です!!
急行電車とは呼ばれなくなって久しくなりました・・・。
当代の母里は大牟田市!!
当代幼少期の里帰りは、この路線が何よりでした!!
当時、この西鉄大牟田線を、方々は“急行電車”と呼んでいました。
因みに、当代は今年、古稀を迎えます!!
という事は、ほぼ70年間、こちらにお世話になったという事になります!!
当時の西鉄車両は、このイメージカラーでした。
 西鉄 大牟田線 1000系 特急

喪主を勤めた従弟家族に見送られて岡山を離れました。

2024-03-10
と思いきや、山陽新幹線下りは37分の遅れが出ていました・・・。
結局34分遅れで、さくら号が岡山駅22番線に入線してきました。
今回乗車のさくら号は。季節柄か(?)上り下りの両列車とも満席、下り列車では前後別々の指定席となりました。

2023年

親族葬儀に参詣いたしました。

2023-10-18

通夜参詣

2023-10-18
当山13世住職の弟が入寺した光福寺(うきは市)の17世住職が命終し、通夜へ、当代・副住職・坊守で参勤いたしました。
光福寺(こうふくじ)
当寺は大永2年 (1522) 本願寺第九世実如上人に帰依した釋善休によって開基されたと伝えられています。現在の本堂は、門信徒の方々のご協力のもと明治21年 (1888) に建立されたものです。
親鸞聖人のみ教えや仏教に関心のある方を対象に、毎月28日の昼と夜の法座等、月数回の聞法会を行っております。また子供達には、仏典童話をもとにお話をしています。
「お経の意味」や「お内仏のお飾り」など疑問がございましたら、お気軽にお尋ねください。

因福寺(柳川市鷹尾)での初盆会へ参勤いたしました。

2023-07-31
柳川市鷹尾の因福寺は、当代祖母の里寺です。
辞去の頃、夕陽が有明の海に落ちていきました。
過日の豪雨でノリ面が崩落する被害を受けた高速大分道は、朝倉⇔日田間を、片側車線を対面通行で運用しています。

善照寺で祖父100回忌・父7回忌が勤められ、当代・副住職・坊守が参勤いたしました。

2023-06-09
博多区の善照寺(坊守里寺)本堂の荘厳です。
控えの間(茶場)

5月に永代経のご縁をいただいた筑紫野市の西念寺様の通夜に参詣いたしました。

2023-06-04
喪主は筑紫女学園大学長、お孫様は昭和学園高宗教科主任をお勤めです。

2019年

日田組内の浄満寺で、御遠忌法要が厳修され、当山住職が参勤いたしました。

2019-12-10
大谷派門首御後継による帰敬式が執行されました。

June bride(ジューンブライド) その2

2019-07-18
頼み寺様のご祝儀
親族席です。
新郎新婦・媒酌人の席です。
中尊前・外陣です。
祝杯の設えです。
新郎新婦席です。
媒酌人席です。

6月の結婚式「ジューンブライド」の由来

6月は結婚が解禁になる月だったという説

かつてヨーロッパでは3月、4月、5月の3ヶ月間は農作業が大変忙しくなる時期でした。そのため、3月、4月、5月の3ヶ月間は結婚が禁止されていました。結婚が解禁される月が6月であったため、結婚を待ちわびていた多くのカップルが結婚式を挙げたことをジューンブライドの由来とする説です。6月は農作業が落ち着き、多くの人から祝福されるため幸せになれる、と言われています。しかし、いつ頃のヨーロッパの話か分からず、本当に結婚式が禁止されていたのかも定かではありません。

従弟寺での年回、北海道です。

2019-07-18
北海道伊達市の光圓寺です。
うっ蒼とした大森林に挑む大工事に先立って、僧侶に加え多くのアイヌを雇い、さらに仙台伊達藩の旧士族移住者50人と他移住者50人を募ることができた。

本願寺道路
本願寺道路は、明治初年に東本願寺が石狩国の札幌と胆振国の尾去別とを山越えで結ぶ街道として建設した道路で、1871年(明治4年)に開通した。「本願寺街道」、「有珠街道」ともいう。現在の国道230号の基礎となった。後に本願寺道路が作られた経路は、従来からアイヌが通行しており、江戸時代には松浦武四郎らがアイヌの案内で通っていた。1869年(明治2年)に札幌に蝦夷地(同年北海道と改称)の本府を置くことが決まると、札幌と箱館(同年函館と改称)を連絡する道路が必要になった。このとき財政難の明治政府は、東本願寺を動かして道路開削を出願させた。東本願寺はその年内に調査・計画を行い、1870年(明治3年)から1871年(明治4年)にかけて工事を実施し、尾去別(現在の伊達市長和)と平岸(現在の札幌市豊平区平岸)の間に約103kmの道路を開削した。工事の労働には僧侶のほか、士族と平民の移民、アイヌが従事した。しかし、1873年(明治6年)に苫小牧経由で室蘭に至る「札幌本道」が完成すると、山間を通る本願寺道路は敬遠されるようになり荒廃する。1886年(明治19年)から、北海道庁により改修工事が進められ、重要な街道として再生される。1950年(昭和25年)に国道230号となる。
○ルート
「本願寺道路」と呼ばれる道路は、以下の4ルートある。本項では、最も距離が長く開削に難を極めた4.「尾去別 - 中山峠 - 平岸間」について主に説明する。

1.軍川 - 砂原間
2.鶉-大野間
3.銭函道分岐-山鼻-八垂別間 
旧川沿市街地付近は、当初の豊平川の水量も多く、水害にも度々見舞われていたことにより地盤も悪く、現在のルートから推し量る事が可能なのは、軍艦岬付近(但し、現在は先端が掘削され、道路拡張とカーブの緩和化が進んでいる。)など、ほんの一部である。川沿旧道を指すという見解もあるが、そこも当時は同様に水害に遭っていた地域であった為、その西側の、中ノ沢との間の、一段高くなった河岸段丘に沿って作られたとする方が一般的ともいえるが、そうすると、現在では、当時の道筋が正確にはなぞれないという問題もある。唯一残存する当時の絵図も正確なものではないため、現在の区画や路線から完全にルートを再現する事は不可能であり、推測の域を出ない。
4.尾去別-中山峠-平岸間

○開削以前の蝦夷地での調査
1807年(文化)4年)に近藤重蔵が、石狩-虻田(あぶた)間の調査のために札幌から豊平川をさかのぼって調査した。1845年(弘化2年)から5年間、及び、1855年(安政5年)から3年間の二度にわたり、松浦武四郎が実地調査を行った。松浦は、3度蝦夷地に渡り、3度目に前述の近藤の踏査を確認した。松浦のコースは虻田 - 石狩樋平(とひぴら)・津石狩(現在の「対雁」-ついしかり-)ルートで、湿地帯や豊平川支流が積雪や氷結の為に渡り易くなる、冬期間に行われた。これらの踏査は現地のアイヌの案内なしには不可能であった。松浦はその結果、「川に従い虻田、有珠に道を開かばその便(弁)如何ばかりならん(む)」と、江戸幕府に対しそのルートの必要性を説いた。後の明治時代に至って、ロシア南下政策対策と相まって、当道路を開削、開通する根拠ともなったといわれている。

○開削までの経緯
東本願寺は徳川家の恩顧があり、そのことにより、大政奉還後まもなくである慶応4年年始に行われた宮中会議において、同寺焼き討ちの案が出された。それはある意味、濡れ衣や誤解でもあった。東本願寺側は、当時、第二十一代法主の嚴如(大谷光勝)[9]であり、その妻は皇族出身の嘉枝宮和子であった。和子の実兄である山階宮晃親王は、その宮中会議の経過を耳に入れ同寺の取り潰しの実現を懸念し、「叛意がない」旨の誓書を寺側より朝廷に提出させることにより事なきを得た。一方、明治政府は北海道の開拓のために開拓使を設け、その本府を札幌に置くことを計画。前述のロシアの南下政策の脅威に対抗するため、またそれに伴い、大量の移民を入植させるためにも、当時すでに北海道の拠点として開けていた箱館から札幌へのルート開拓は急務とされていた。しかしながら、極端な財政難に陥っていた当時の政府には、北海道の道路を含めた開拓にまで手がける事は不可能で、薩長土肥等の勤皇雄藩も同様であった。そんな台所事情の新政府が苦し紛れに目をつけたのが、全国に宗門徒を抱えていた本願寺であった。かといって、東西にかかわらず、両本願寺側も既にいくつかの新政府からの財政援助に応じていた過程、決してさらなる要求に応えられる状態ではなかった。西本願寺は、京都の賀茂川のいくつかの架橋工事、不換紙幣と正貨との多額なる交換などといった、多大なる資金の提供を新政府の為に既に行っていた。そこで、大同小異ではあったのだが、時の太政大臣、三条実美より東本願寺側に道路開削についての密談があった。よって形式上は、「東本願寺から明治政府に出願された」形がとられたのだが、実情は、「政府からの援助協力依頼」であった。「援助協力依頼」とはいっても、前述の経緯より、政府に対して断る事は東本願寺存続の上でも不可能であったため、実質は命令ともいうべき状況であった。また東本願寺が北海道開拓・新道開削に傾いた要因の一つに、松前藩の宗教政策に起因していることも念頭に置かなければならない。松前藩は宗教対立を防ぐために一宗一派より認めていなかった。本願寺系は東本願寺のみを許可し、他派は許可していなかったので、東本願寺のみ北海道に教線があったのである。このことは現在の本願寺系寺院の分布や開基年からも理解できることである。しかし、双方の政治的駆け引き、組織的な思惑ばかりではなく、その事業自体が仏教特有の宗教的思想に基づいて行われ、最終的には、平均的に貧しかった当時の北海道への移民たちなどに対して、大きな雇用を生み出す結果ともなったのは、想像に難くない。

○作業の前段階
明治2年6月5日、明治政府に対して(表向きの)東本願寺側から出願が提出される。
その主旨は
1.新道切開
2.農民移植(移民奨励)
3.教化普及
の三点項目であった。明治2年9月3日太政官より許可が下る。東本願寺側の決定で、当時19歳の新門・現如(大谷光瑩)が事業の責任者となる。同年9月20日、開拓使の許可の下、5名の調査隊を編成し渡道し、翌3年3月2日帰京する。明治3年2月10日、随行した僧侶を合わせて約百数十名が本山表玄関を出発。前年から全国門末に回状を出し、名古屋から北陸、東北日本海側を陸路北上し(但し、秋田藩など「廃仏思想」の強い地域は海路を迂回して)、「勅書」「開拓御用本願寺東新門主」と書かれた表札を掲げ、浄財の寄進を受けながら、蝦夷の地へと向かっていった。道中歌として「トトさんカカさんゆかしゃんせ、うまい肴(さかな)も胆斗(たんと)ある、おいしい酒も旦(たん)とある、エゾ、エゾ、エゾ、エゾ、エイジャナイカ」といったものも歌われた(一説には現如の作)というが、すでに130年以上も前のことであり、節までは伝わってはいない。

明治3年7月7日、津軽藩青森村(現在の青森市)に一度上陸し、津軽海峡を渡って函館に到着。

○作業開始
その後、3日間の函館滞在のうちに開拓使函館出張所にて、「新道開削」及び「蝦夷地に於ける新寺創立」の打ち合わせを東久世長官を交えて行い、人員振り分けを行った。随行した大部分の僧侶達は、新道開削へと回された。明治3年7月24日、現如上人は27名を伴い、小樽経由で札幌入り。東本願寺管刹境内地を検分した。その検分した場所は「山鼻」で、現在の南7条西8丁目にあたり、現在、真宗大谷派札幌別院が建っている場所である。なお、時の政府から下賜されたその地に管刹(寺)が設立されたのは、検分後まもなくで、そこが「札幌別院」と改称されたのは、明治9年のことである。翌25日、希望者29名に対し帰敬式を行う。かくして(他の3つの路線を含め)道路開削が開始されることとなった。

○作業概要
実質作業期間-明治3年9月から翌4年10月
開削工事区間-尾去別から平岸天神山麓付近まで、二十六里十町(約103km余り)、当時は尾去別が起点。
ちなみに、現在それに相当する国道230号(他の国道との重複区間有)は、約108.5kmの長さである。また、札幌本道から発展した国道36号や、白石街道から発展した国道12号の起点でもあるところの、札幌市中心部の起点(中央区北1条西3丁目と西4丁目間の交差点)から大通り西10丁目と西11丁目の境目(現在の「石山通」)を通って、定山渓、中山峠を経て、伊達市よりやや西側の虻田町の方へ延びている。以降は、他の国道との重複区間を経てせたな町へと続く。
道路の規模-伐木幅三間(約5.4m)、道路幅九尺(約2.7m)。橋の架設百十三箇所、谷間の板敷き十七箇所。
作業人員-東本願寺宗門の僧侶多数、伊達氏(仙台藩支藩の亘理藩)の士族移住者約50名、道東の和田村への移民から(地名確定は現在不可能)大工職人をはじめとする約50名、胆振地方のアイヌたち人数不明だが多数が参加。全員が最初から最後まで従事したとは思えないが、記録によると延べ人数、5万5千余人。
日給-笹刈り一人に付、日給一分。伐木、架橋作業については更に割り増し。
所要経費 - 一万八千五十七両余り(諸物価に落差があるが、幕末の一両は約一万円程度といわれているので)現在に換算すると2億円程度かそれ以上。但し、これらは、ほとんど人件費や食費、斧や鎌などの工具類に費やされた。しかし、原始林を伐木した後の木材を、原木のままか板や棒に加工するかは別として、現地調達で、道路自体に使用できたという点である。湿地帯や谷地などは、板敷きや固定した浮橋、桟橋のような状態にしたということである。
比較的安定した土壌の地区では、「竹や笹を横たえる程度」という開削が多かったといわれているが、集落周辺単位では、「藪の中にかろうじて人の足痕のある程度の、道ともいいきれない道を利用した」部分が多かったともいわれ、工事期間が異様に短かったことや、「突貫工事」と呼ばれるに至った所以の一つも、そこにあった。

○開通後の歴史
冬の厳しい寒さや、春から秋にかけての蜂や毒虫の害、ニホンマムシやエゾオオカミとの戦い、ヒグマとの遭遇などのアクシデントに見舞われるが、突貫工事ながらも明治4年(1871年)10月工事完了。徒歩が主な交通手段だった当時に、「馬も通行可能」という道路は画期的であった。また開通以前は、獣道と大差ない程度であった、札幌-定山渓の間も、しっかりとした道がつけられることとなった。札幌に近すぎたために休憩所扱いであった(旧)簾舞通行屋も、現在の簾舞中学校付近、国道230号のちょうど路線上に当たる土地に建てられたという。しかしわずか2年後の、明治6年に現在の国道36号線の基礎となる札幌本道が開通したため、「本願寺街道」を利用する者は激減した。一度廃止された(旧)本願寺道路であったが、明治19年に札幌中央部から徐々に拡張工事が行われた。石切山 - 定山渓間も例外ではなく、結果、簾舞に於いては、現在の旧国道230号が、「新・本願寺街道」として蘇り、道幅も約5.4m、馬車も通れるくらいの、当時としては画期的な道路として出来上がった。それに伴って、通行屋も現在ある位置に移され、中山峠や定山渓にある宿泊所同様、駅逓所としての役割も兼ねるようになった(新街道沿いに移された後の方の「簾舞通行屋」は、現在、「札幌市有形文化財」に指定され、当時の資料館も兼ねている)。今から130年以上も前に突貫工事で作られた、幅3m程度の「旧・本願寺道路」は、その後、崩落したり、獣道化し草木が生い茂り、あるいは、田畑にされ、人家が建ち、国道拡張工事などで99%以上は残っていないが、後述するようにわずか2箇所ほど、ほぼ当時のままで残っている。保存会があり、それらを後世に伝える動きもある。非常に短い区間ながら、徒歩で通行し、当時を偲ぶ程度の事は可能ではあるが、その保存されている区間の両端が、現在、個人所有の土地や簾舞中学校敷地(札幌市教育委員会所轄)に接しているため、図示するなどの方法による詳細は述べない。現在の国道230号が開削開通するまで、地形上、付近には道路も無く、また、拡張も不可能だったため、戦後もしばらくの期間、生活用道路として徒歩で利用されていたという偶然性が、この区間の残存していた大きな理由とされている。

(註)
ここで述べている「旧・本願寺道路」、「新・本願寺道路」といった名称は、便宜上そう記しているだけであり、当時からそう呼ばれていた訳ではない。簾舞に於いて、「本願寺道路の新道」が開通した時点で、それまでの本願寺道路が「旧道」となり、後にその「新道」が拡幅されて、「国道230号」となった。また、新旧の本願寺道路の間に国道230号の新道が開通した時点で、「新・本願寺道路」に基づく、それまでの国道を「旧国道」などと呼ばれるようになったものである。また、そこから後志支庁へ向かって、現在の「豊滝」(旧地名「七曲り」)、さらに、「定山渓から喜茂別に至る区間」などは、現在までに切り替え工事、及び、拡幅工事、トンネル貫通工事等が繰り返され、結果、別項でも触れた通り、現在の国道230号は本来の本願寺道路とは全く別ルートとなっている。 

 
 

June bride(ジューンブライド) その1

2019-07-18
従弟寺の祝儀

6月の結婚式「ジューンブライド」の由来

日本の6月は、梅雨の時期です。暖かい季節ではありますが、雨が多いため結婚式に適した月とは言えません。そのため、戦後にジューンブライドが広まるまで、6月に結婚式を挙げるカップルは少なかったようです。しかし、ジューンブライドが広がった現在の日本では、ジューンブライドに憧れて6月の挙式を希望するカップルが増えています。では、6月に結婚式を挙げる「ジューンブライド」にはどのような意味があるのでしょうか。ヨーロッパが起源であるジューンブライドの由来には3つの説があります。


ローマ神話の女神を由来とする説
6月に結婚式を挙げる由来は、
ローマ神話の主神・ユピテルの妻である女神ユノを由来とする説が最も有力です。
ユノは結婚や出産、育児の象徴とされており、女性や子供、家庭の守護神とも言われています。ローマ神話では1月から6月まで、それぞれの月を守る神がいます。結婚の象徴であるユノが守っている月が6月です。6月は英語でJune、ユノはアルファベットでJunoと書きます。このことからも、ユノが6月の英語名ジューンの由来になっていることが分かるでしょう。「6月に結婚すると幸せな結婚生活を送ることができる」と言われる理由は、結婚の女神ユノが6月を守護していることに由来しています。

2018年

またお一方・・・

2018-09-16
福岡県吉富町小犬丸 浄土真宗本願寺派 寶福寺 前坊守逝去です。
四男で宇佐市長洲の妙満寺住職の文章です。

お浄土で

 
9月14日の夕方、四時半を過ぎていました。

隣市での用事が終わり帰宅する前に、母が入っている施設を訪ねました。

三女と一緒に部屋へ行ったのですが、不在。

夕食のため食堂に集まっていました。

母を見つけ声をかけました。

大きな目を開け、こちらを見続けます。

そこに拙寺ご門徒の介護士さんがやってこられました。

「あら。部屋へお連れしましょうか?」と。

「いえいえ、ちょっと寄っただけです。もう帰らねばなりませんから」


娘に「おばあちゃん、元気になっただろう」と声をかけ、「又来るね」と母の頬をなで自宅に戻りました。


「元気になってたぞ。百歳まで行くかも」と話しながら着替えを済ませた頃でした。

兄嫁から電話が。「おばあちゃんの具合が良くないと連絡が、、、」

「そんなことないですよ!三十分ほど前に会ってきましたよ」

施設に向かっているとのことなので、私も再度、車を走らせました。


向かってる途中に電話が。「間に合わなかった。着いたときには、、、」

信じられない思いで施設に。母はひとりベッドに。

一時間半ほど前は、目を開け、私を見つめてくれた母。もう声をかけても、頬をなでても目を開けてくれません。


20分ほど、二人きりになりました。いろんな思い出がよみがえってきました。

父が48歳で往生。その倍以上生きてくれた母。しかし、大変な苦労があっただろうし、私は末っ子であったので、大変迷惑をかけたと思います。

四人の息子の「母子手帳」を大事に持ち続けてくれていた母。


「ごめんね。でも、長くそばに居てくれてありがとう。」

「長い施設での生活、疲れたかな。。。ゆっくりしてね」

「また、お浄土でね」


佐々木春子 満98歳

9月17日(月) 午後七時  通夜

 9月18日(火) 午後一時  葬儀

有縁の寺院

当代の母(14世坊守)里寺を紹介いたします。

2021-02-09
大牟田市の真宗大谷派 光圓寺です。

当代の母の父(祖父)は法城山光圓寺住職、大牟田市教育長、市議会議長も務めました、

2021-05-08
この庁舎で、日教組の教諭方、三池の三井労組と対峙いたしました。
大牟田市役所本庁舎旧館です。

FacebookAkihiko Terauchiさん曰く



大牟田市役所本庁舎旧館です。
62mの正面長と5層の塔屋が特徴的な建物は、1936年(昭和11年)に建築されたRC造4階建で国の登録有形文化財となっています。
玄関上部の大きな庇とレリーフ、複数の胴蛇腹で平板になりがちな外観が引き締められています。
TOPへ戻る