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ちょい話【掲示板】

ちょっと気になる言葉(お寺の掲示板等より)

Facebook 松井 聰さん曰く

2021-12-04
誰の言葉かわかりませんが、法然上人や親鸞聖人が、自分のことを"愚か"だとおっしゃった、その教えを聞かないことには、自分が愚かだとは気づかないでしょう。

「地図は現地そのものではない。」 S.I.ハヤカワ

2021-11-30
きょうのことば 2021年3月 大谷大学掲示板より 『思考と行動における言語』原書第4版 岩波書店30頁

地図は現地そのものではない。

 SNSで知り合った人とのやりとりで、その人の「言葉」からいい人柄だと思っていたのに、実際に会うと全然違っていてガッカリした・・・そんな経験ってないでしょうか。

 この「言葉」は「現実」ではありません。また言葉からつくられた「イメージ」も「現実」ではありません。この「言葉やイメージ」と「現実」の関係を日系アメリカ人の言語学者ハヤカワ(Samuel Ichiye Hayakawa, 1906-1992)は、「地図は現地そのものではない」と喩えました(この言葉自体は、ハヤカワの師コージブスキーが提唱した学問「一般意味論」(General Semantics)の教育的規範として使われてきた)。
 
 言葉で全てを言いつくすことはできないし、全てを計算しつくすこともできません。どんな情報にも漏れ落ちがあります。この簡単な常識を忘れることから、困ったことが色々でてきます。私たちがこの世界で直接知り得るものは、ごく限られています。ほとんどは友人や身内、同僚からの情報、マスメディアなどからの情報です。この情報の大部分は「言葉」で受け取ります。それを私たちは「現実」と思い込み、鵜呑みにしてしまい、対象にレッテルをはる、外見だけで人柄を判断する、あるいは反対に自分がそう見られてしまう等々が生じます。

 20世紀になって情報化や国際交流が進む一方で、紛争や戦争なども絶えません。人間は言語という高度に発達したコミュニケーションツールを持ちながら、中々分かり合うことができず、すれ違い続けてしまいます。そんな情勢を憂い、ハヤカワは『思考と行動における言語』で、争いや誤解が絶えないのは「地図は現地そのものではない」という規範が、頭では理解できても実践的には出来ていないからだと主張したのです。

 そこでハヤカワは、ソクラテスの言葉「汝自身を知れ」を引き、他人との円滑な関係や対象の適切な価値づけのためには、まずは自分を賢明に評価できることが必要だと言います。例えば人は誰でも自分に対して「私は魅力がないからモテない」「私は音楽の才能がある」など、否定的・肯定的イメージをもっています。心理学者カール・ロジャース(Carl R.Rogers)が言う「自己概念(self-concept)」です。そしてその自己概念こそがハヤカワが言う「地図」であり、「現地」(本当の自分)ではないのです。

 ハヤカワは、その「地図」は自分の実際の能力や限界によって決まるのではなく、自分の力はこれくらいだと“信じる”ことで決まると言います。つまり自信のない人は、彼自身がもつ「地図」がその成功を妨げているのだと。周りができるはずと可能性を示唆しても、本人は「いや、親も語学は苦手だったんだ。これは遺伝なんだ」などと合理化さえする。ハヤカワは、「地図」(自分自身の見方)がより「現実」(本当の自分)に近いほど、実のある行動、健全な決断をとることができ、自分自身に対して現実的ではない人は他人との関係においても現実的ではあり得ないと言います。

 このようにハヤカワの「地図は現地そのものではない」という言葉は、自分がもつ「地図」(言葉やイメージ)と「現地」(現実)との乖離を常に自覚しつつ、自分自身の可能性を拡げ、他者とよき関係を築くためのテーゼと言えるでしょう。

「習をはなれて習にたがはず、何事もするわざ自由也。」 柳生宗矩

2021-11-30
きょうのことば 2021年2月 大谷大学掲示板より 『兵法家伝書 付・新陰流兵法目録事』岩波文庫 30頁

習をはなれて習にたがはず、何事もするわざ自由也。

 江戸時代初期の剣術家で、幕府の行政官僚をも務めた柳生宗矩(やぎゅうむねのり)(1571–1646)が、家伝(かでん)の新陰流兵法(しんかげりゅうへいほう)(剣術)の技法と理論を体系化し、寛永9年(1632)にまとめたものが『兵法家伝書』です。標記のことばは、新陰流の具体的な技法と理論に先立つ総論に当たる部分に記されています。教えられた形から離れていながらも、あらゆる技を、流儀の理法と矛盾することなく自由自在に使うことができる境地——剣術で目指される究極的な境地——を表していることばです。そうした境地を目指すのは、勝ちを得るためではありません。『兵法家伝書』に先立ってまとめられた『新陰流兵法心持(こころもち)』に「当流は、勝(かつ)べき習(ならい)をよくきわめ勝べきにあらず。まけあたらざる所をもとゝ仕也(つかまつるなり)」と、新陰流兵法の本質は「負けない」ところにあると述べられています。

 さて宗矩は、標記のことばの後に「是が諸道の極意向上也(ごくいこうじょうなり)」と述べています。つまり、標記のことばで表されている境地とそこに到る学びの道程は、兵法だけでなく芸能や学問など、あらゆる学びとも共通する極意であると言うのです。

 彼は、学びの目的を「よろづの道を学ぶは、胸にある物をはらひつくさむ為」すなわち、心にある不審や疑問を徹底的に取り除くこと、換言すれば、心の自由を得ることにあると述べます。そうなることにより、万事うまくゆくようになると言うのです。

 何かの技法を会得しようと学べば学ぶほど、学び得られたものによって不審や疑問が湧いてきて、それに心がとらわれ、目指すべき自由とは逆の不自由な状態へと陥って行きます。ではどうすればいいのでしょうか。宗矩によれば、学び得られたものを「さりきれば」、つまり捨て去れば、不審や疑問も消え、学んだ技法を無意識のうちに使うことができるというのです。

 学び得られたものを捨てるのであれば、そもそも学ぶ必要などあるのでしょうか。宗矩の息子・十兵衛三厳(みつよし)(1607–1650)は、その印可(いんか)申請論文というべき『月(つき)の抄(しょう)』に、父・宗矩のことばを数多く引用しています。その中に「習はいづれも非なり。あしし口なり。あしきと知りながら、高(たかみ)に望(のぞむ)たよりは、あしし口なり。習也。捨て捨てられぬ習也」とのことばが見られます。学ぶということは、否定すべきことで、悪い方法だが、高みに至るための道標(みちしるべ)は、この悪い方法である学びしかない。つまり、学び得たものを捨て去るには、学ぶ以外にないと言うのです。

 では、学び得られたものをいつ捨て去るべきなのでしょうか。少し学んだだけでも、不審や疑問が芽生えたら、そうするべきなのでしょうか。宗矩は、標記のことばに至るまでに、「ならひつくす」という言葉を多用しています。学び尽くした果てにこそ、捨てる機会が訪れると言うわけです。

 そもそも、捨てられるものがなければ、捨てることはできません。学びの蓄積がなければ、さらに高い段階へと向かうために、不審や疑問を抱き、否定し捨てることもできません。わたしたちは、今、学びの過程の中で、将来捨て去られる運命にあるものを蓄積していると言えるでしょう。そして、不審や疑問を解決しようと格闘し尽くしたならば、それまでに学び得たものは、たとえ捨てられたとしても、芯となって私たちの内に残るでしょう。そうした時にこそ、新たな学びの世界が広がって来るのかも知れません。その意味で言えば、将来役に立たない、あるいはいらないと思えることでも、今、どん欲に学んでおく必要があるのではないでしょうか。

きょうのことば | 大谷大学 (otani.ac.jp)

2021-11-29
Hp大谷大学さん曰く
きょうのことば | 大谷大学 (otani.ac.jp)

毎月、正門・北門などの写真とともに
ご紹介している「きょうのことば」
今年も残すところ、あとひと月。
2021年分を集めてみました!

内容はWebサイトで振返り可能です
https://bit.ly/3DWB44d

じつは1997年からのアーカイブもあるんですよ
https://bit.ly/3HTRblG
きょうのことば 2021年11月


魯 迅「故郷『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊)』 岩波文庫 99頁)

もともと地上には道はない。
歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。 
きょうのことば 2021年1月

浄慧と随行とを対法と名づく。

 これは、五世紀のインドに登場した仏教思想家である世親(せしん)(ヴァスバンドゥ/天親(てんじん))の主著『阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)』(略して『倶舎論』)の言葉です。

 「浄慧」は、汚れのない清らかな仏陀の智慧をあらわします。「随行」は、無漏(むろ)の慧すなわち汚れのない智慧の周辺にある法(dharma)だと『倶舎論』は説明します。仏陀の智慧にしたがって立ち現れてくるものであり、私たちのこころを形成しているものを指します。具体的には、教学の専門用語で、心(しん)と心所(しんじょ)と無漏律儀(むろりつぎ)と不相応法(ふそうおうほう)と説明されています。「対法」は、古代インドで用いられたサンスクリット語のアビダルマ(abhi-dharma)の漢訳語です。法(dharma)に対向する(abhi)ということを意味します。

 標題の言葉に対応するサンスクリット原典の文章を訳すと、「無垢の慧とおよび〔それに〕伴う〔法〕とがアビダルマである」となります(櫻部健『倶舎論の研究』137頁)。汚れのない仏陀の智慧によって、仏陀がお説きになった法に対向する、すなわち法を分析することがアビダルマであると言っているのです。古代インドの文献に登場する「法」という語は、様々な文脈で用いられるたいへん難解な言葉です。ここでは、苦悩の原因が何であるのかということをも含めて苦悩についての仏陀の教説を「法」という言葉で表現していると捉えておきましょう。さらには、仏陀の教説に対する分析を通して生み出された経典の解釈書もまたアビダルマ(論)と呼んでいます。

 諸法を、分析し、よく観察すること以外に、苦悩の原因である煩悩を鎮めるすぐれた方法はないと『倶舎論』は説きます。仏陀は苦悩する人間の姿を十全に語り、またその苦悩を越えて生きることができることをお説きになった。仏陀が語ってくださった諸法を分析し観察することによってこそ、仏陀の教説を正しく受けとめることができる。教説を正しく受けとめることができれば、我々もまた仏陀と同じひとつのこころを持って、苦悩を越えて生きることができる。古代インドのアビダルマの教学者たちはこのように考えていたと言えます。

 このような古代インドの教学者たちは、苦悩の原因とそれを越える道について体系的に記述することによって、仏陀の教説を受けとめて、それを共有しようとしたのです。アビダルマという営みによって、教説が整理され、分類され、分析されて、体系的に記述されたことによって、教説を正しく理解するための知の基盤が形成されました。こうして生み出されたアビダルマ論書は我々にとって極めて複雑で難解なものに見えますが、それらは仏陀の教説を正しく理解しようと勉めた人たちの思索の結果なのです。

人は見かけによらないのです。

2021-11-28
Facebook 松澤 和広さん曰く
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